睡蓮
睡蓮と月
1章 睡蓮
◆ 1─1 怪物/マーシトロン
最後のライブが終わってバンドメンバーに別れを告げた後、黒瀬連太郎はダウンタウンの喧噪の中を一人彷徨っていた。
売れないバンドの、冴えない最後だった。
でも、と黒瀬は思う。悪くはなかった。かれこれ六年以上の付き合いだったが、バンドメンバーの技量も、人格も、関係性も悪くはなかった。それこそ彼が今までやってきた中では最高のバンドだったと言っていい。
悪いのは、俺だ──そう、黒瀬は心の中でひとりごちた。
自分の芸術性に対して、それが売れるモノか売れないモノかは二の次だ──それが黒瀬のオルタナティブロックに対する解釈だった。重要なことはもっと他にあって、それを見失わずに生き続けることこそが人生の至上命題なのだと思っていた。しかし、ある地点から分からなくなった。そんな解釈は、自分に才能がないことから目を背けているだけなのではないか。そもそも芸術が売れないということは、その表現が誰にも認知されていないということだ。そんな芸術に意味などあるだろうか。価値とは、意味とは、命題に対して自分はどういった態度を取れば良いのか。
そうして自らの芸術性に対して疑心暗鬼になっている中で、黒瀬の旧い友人が『群像』で賞を獲った。二年前のことだった。
しがない物書きから一躍、文壇の世界に上り詰めたその友人は、黒瀬と連んでいた中学時代にいつも言っていた。『いつか芸術で世界に俺という存在を知らしめてやるんだ。俺は俺の思想を価値のあるものとして世界に認めさせてやる』と。
普通ならば友人としてその成功を祝うところだが、その時の黒瀬にとってそのニュースは猛毒に等しかった。それは黒瀬の中に眠っていた──あるいは意識的に目を背け続けていた劣等感や焦燥感を引き出すトリガーとなり、やがてその劣等感は諦念や達観という、死んだ魚のような冷ややかな感情へと変換されていった。
音楽や周囲に対して傲慢なほど卑屈になった黒瀬が出した結論はこうだった──自分はいつまで経ってもモラトリアムの幻想を夢見ているゾンビで、夢だの理想だのと宣って責任から一生懸命逃げている滑稽な愚か者なのだと。だからいい年こいて中途半端な仕事をし、中途半端に音楽を作っている。そこには価値も意味もない。ただ惰性に従った虚無感があるだけだ。
それから黒瀬は曲が書けなくなり、音楽は苦痛の象徴となった。
そうこうしている内に二十八歳になっていた。そこで、やっとロックンローラーとしての自分は死んだのだと黒瀬は気がついた。カート・コバーンやジミ・ヘンドリックスは確かにヒーローだったが、黒瀬がそれらの音楽に触れる頃には彼らは死んでいた。幻想というものを抱き続けていられるのは──あるいは苛烈な初期衝動を抱いていられるのは二十八歳までなのだ。
帰ろう。ギグバッグを背負い直して駅の方に足を向けた黒瀬だったが、やはり、と繁華街の喧噪が彼を引き留める。今の気分で狭くて汚いアパートに帰り、呆然と時間を過ごさなければならないことを思うと気持ちが萎えた。まだ時刻は夜の九時で、寝るのには早すぎる。それに比べてここには明かりがあって人がいる。雑踏があり、機械のうなりがある。やらなければいけないことに対して時間だけはたっぷりあったし、今はまだ、泳ぎ方を忘れた魚のようにこの騒擾の中に溺れていたかった。
寄ったコンビニで新しいセブンスターと缶チューハイを三本買った。思っていたよりも喉が渇いていたらしい。うち一缶はコンビニから出て一瞬で空になった。躊躇なく二缶目を開け、それを半分ほど飲んだところで、ようやく黒瀬はコンビニの前から歩を進めだした。胃の底でアルコールが熱を持って揺れていた。
「……」
気がつけば音楽や時間のことを考えている自分に辟易した。もうこれ以上、思考は前に進まないというのに脳みそは回転を続け、どうにもならないことを嘆き続ける。
無性にボン・ジョヴィの『ジーズ・デイズ』が聴きたくなった。黒瀬はイヤホンを耳に付け、夜の繁華街を歩く。
『──I was walking around, just a face in the crowd
Trying to keep myself out of the rain
Saw a vagabond king wear a Styrofoam crown Wondered if I might end up the same......』
三缶目のプルタブを開けた。カシュッという音がして、炭酸ガスと共に吹き出してきた中身が飛沫となって指に付いた。黒瀬はそれをシャツの裾で拭いた。ふと、駅前のロータリーの端で小さく蹲る浮浪者が目に映った。その脂ぎった頭の上には、ボン・ジョヴィが唄うような発泡スチロールの王冠は載っていない。
『──Jimmy shoes busted both his legs, trying to learn to fly
From a second story window, he just jumped and closed his eyes
His momma said he was crazy, he said momma, I've got to try
Don't you know that all my heroes died And I guess I'd rather die than fade away......』
ふと立ち止まった黒瀬は、猥雑とした都市から空を仰いだ。喧噪に疲れたわけではなかった。ただ、この姦しく複雑に入り乱れた地上から、整然として静謐な夜空を見上げることが、なぜかそのときはとても大事な行為のような気がした。
見上げた夜空はモノリスに切り取られ、卑猥な都市の光に犯されて紫色に変色していた。空の星の瞬きに代わって、航空障害等が矍鑠とした眼で地上を睥睨している。都市には月も星も必要ない。
そんな夜にあって黒瀬が見上げる都市の様は、まるで巨大な怪物のようだった。無数の赤い目を持って人々を睨み、身体は淫靡に紫がかって黒く、その巨大な翼で怪物は夜を降らせる。だから都市に清楚な星の光は閃くことはない。
都市の全ては怪物の全てだ。王冠を持たぬ浮浪者も、蜻蛉を待つ女郎蜘蛛も、鋭い牙の代わりに色とりどりの髪を生やした大学生たちも、自分が二本足で歩く動物だった事を忘れて汚い地面に這いつくばる男も、飢えも飽食も欲望も希望も、全て怪物にとっては貴賤ない怪物の一部であり、糧であった。
『──These days, the stars seem out of reach
These days, there ain't a ladder on these streets
These days, are fast, nothing lasts There ain't no time to waste
There ain't nobody left to take the blame
There ain't nobody left but us these days......』
怪物はいつだってそこにいて、夜と人々に寄り添っている。
しかし、その姿を目にすることができる者は限られた者だけだ。普通の人間に夜と怪物は見分けることができない。怪物は完全に夜と同化しているからだ。
そんな怪物の中に──黒瀬は星のない空に問うた。俺がいつの日にか置いてきてしまったマーシャルの悲鳴は、ブルースドライブの慟哭はあるのだろうか、そこに、持て余したこの感情を振り切らせてくれる何かはあるのだろうか。いつか道の先に揺らいだかげろうにさえ追いつけると、いつまでも駆け続けることができた夏を過ごしたあのときの感情は。ずっと変わらないと思っていたあのときの俺は、まだ、怪物の中に残っているのだろうか。
『そんなもん』おどろおどろしい声で怪物が黒瀬に囁いた。『とっくに消化しちまったさ。もう、お前があの時に感じた何もかもは戻ってこないぜ』
だったら、と黒瀬は叫ぶように問うた。時折感じるあの衝動は──身体を引き裂かんばかりに溢れてくるあの獰猛な感情はどうすればいいのか。何もかもを潰してやれるほどの声で叫びたくなるほど抑えきれなくなる感情はどこにぶつけたらいいのか。
『……』怪物はなにも答えなかった。
いっそ、怪物になれれば、と思う。怪物になってこの都市を丸ごと呑み込むのだ。そして狂ったようにギターを掻き鳴らし、自分の身体の中で蜷局を巻く都市を、マーシャルの悲鳴とブルースドライブの慟哭に乗せて叫び、その音圧でなにもかもを破壊してやるのだ。
そんな来るはずのない夜を、黒瀬は探していた。
歩き疲れて帰路につき、最寄り駅から自宅までの道を歩く頃、夜は十時を半分過ぎていた。道は暗くひっそりとしていて、街灯の光は朧で頼りがない。窓に雨戸やカーテンを引いて営みを隠匿している家々はまるで、そこにある温かみや幸せをどこにも漏らすまいと、誰にも分け与えまいとしているようだった。そうして閉め出されてしまった暗闇は、街灯の足許に茫洋と蹲って夜道を行く人間を見送っていく。
黒瀬の住んでいる安普請のアパート『秋葉荘』は、新旧様式色とりどりな家々が雑然と並び立っている住宅街にある。住宅街は駅の側から離れて行くほど道が蜘蛛の巣のように複雑に絡まり合っており、街灯の少ない裏側に外れてみれば、肝試しをするにしても立ち入ることを躊躇うほど暗く不気味な道がある。しかし、最近では街ぐるみの新陳代謝が活発に行われ、無個性な建て売り住宅が目立つようになってきたせいか、景観が統一されている区域が増え、踏み入ることすら躊躇うような闇路は少なくなった。
そんな我が家への帰路についている途中、角の一つを曲がると、よく見知った後ろ姿が向こう側に見えた。短くて跳ねた金髪に、首から下がった無骨なヘッドホン、黒いジャケットにデニムのショートパンツと、編み上げのロングブーツ。特徴的な後ろ姿は誰とも見間違えようがない。
黒瀬は気持ち足を早めて少女の背を追った。やがて黒瀬の足音に気がついた少女が振り向く。「よう、リン」互いの目が合ったタイミングで黒瀬はそう言って片手を上げた。リン、それが少女の名前であり、秋葉荘で黒瀬の隣の部屋に住む少女だった。「バイト帰りか?」
「──おう」振り向いた体勢のままそう言って、リンと呼ばれた少女は黒瀬が背負っているギターを一瞥した。黒瀬がリンに追いつくと、二人は揃って歩を進めた。「レンタローがギター担いでるとこ見るの久しぶりだな」
「まあな。久しぶりに持ち運んでみると、重くてやってられないな」そう言って黒瀬は肩と首を回した。ずっと負荷がかかっているせいで、さっきから首回りが痛い。
「いい年こいた男がギターの重さでヒイヒイ言うなよ……」
「お前のと一緒にすんなって」
「ま……それもそうだな」リンは素直に頷いた。彼女もギターを弾いているので、黒瀬の使っている楽器が殊更に重いことくらいは分かっていた。
黒瀬の使っているギターは、フェンダーUSA六十年製のジャズマスターのリーシュ品だ。 知っている人は知っているのだが、このジャズマスターというギターは重いだけでなく、ギター界屈指の欠陥ギターだ。サドルの溝が浅く、テンションが緩いせいで頻繁に弦が落ちるし、トレモロアームを使えばチューニングが狂い、多いだけで煩雑なスイッチ類は使っている人間のほうが少数であるという有様だ。そして名前の割に、ジャズで使用されることは殆どない。
しかし、それなのにも関わらずジャズマスターにこだわりを持つプレイヤーは少なくはない。なぜかと訊かれれば、多くのプレイヤーはまず「音が良いから」と言うだろう。それに、テレキャスターやレスポールなどといったメジャーなものよりも、明らかにマイノリティであるギターのほうが目立つし、もっと無邪気な──あるいは端的な言葉で表すならば『カッコいい』のだ。故に愛着が沸いてくるというのも一理だった。
世の中にはその欠陥を改造して弾き易くするプレイヤーも存在するし、新しい個体などは既に弾きやすいようにブリッジを変更されているモノも多い。が、ジャズマスタープレイヤーのレジェンドである田渕ひさ子は「そんな面倒くささとも付き合って、このギターを弾いてほしい」と言っている。そして、黒瀬連太郎は田渕ひさ子のギターサウンドに憧れてジャズマスターを選んだ男であり、当然、彼もジャズマスターの面倒臭さと真摯に付き合ってきたし、彼はその残念さを愛していた。
だから「なんでそんな面倒なギター使ってるんだよ」と、いつしか黒瀬のギターを弾いたリンが眉を顰めたことがあったが、それは当然の理だった。もちろん、そのとき黒瀬は「かっこいいからだよ」と答えたわけだが、理由なんてそれだけで十分だった。
「……にしても、この重さは考え物だな」と黒瀬。楽器は製造されてから日が経つほど、木の水分が飛んで軽くなると言うが、日本にあってはあまり関係のない話だった。「慣れたとは思っていたが」
「なんか持ってやろうか?」
「じゃあ」そう言って黒瀬はエフェクターボードをリンに渡す。リンがそれを受け取ると、黒瀬は空いた手でタバコを取りだして火を着けた。
「……タバコ吸うのかよ」歩き始めたリンが、タバコに火を着けた黒瀬を振り返り、呆れてため息を吐く。「早死にするぞ」
「俺は早く死にたいね」それは先刻、繁華街を歩いていたときの感情と直結した答えだった。バンドを辞め、音楽を辞め、才能も才気も、生きる目的すらなくなってしまった。その結果、ただ生活の為だけにしか生きる事が出来ないという一択だけが選択肢として残された。そんな人生は辛いだけだし、なによりも無価値だ。それならば、いっそ死んでしまった方がマシだ。
リンは「なんだよそれ」と黒瀬の言葉を唾棄した。
「死ねば──」と黒瀬は言った。死ねば生きるという事から解放される。生きるという苦痛から逃れることができる。死者には憂いも喜びもなければ、飢えも飽食もない。何をなし、何を犯したのかなんてことも意味がない。死んだ人間にとっては悪人も聖人も同じだ。マザー・テレサやイエス・キリスト、アドルフ・ヒトラーやジム・ジョーンズも。生きるものの末路は、灰か、骨か、糞かの三択しかない。「と俺は思ってる」
「……灰か骨か糞になる未来が、そんなに待ち遠しいか?」
「ああ」と黒瀬は短く答えた。「俺は毎日願ってるよ。寝てる間に誰かが俺の頭を──心臓でもいいな──打ち抜いてくれないかって」
「わかんねえな。アタシはあと二百年生きても時間が足りないって思ってる」
「俺も、できることならあと千年は生きたい」
「はあ? 結局どっちなんだよ。生きたいのか、死にたいのか」
「昔、インターネットの掲示板にこんなことが書いてあったんだよ」と黒瀬は遠い目をして言った。「俺たちは地球を旅するのには生まれるのが遅すぎたし、宇宙を旅するのには早すぎた──ってさ。もっともだって思ったよ。それに、凡人にとっちゃたかだか七十年そこらの寿命ってのは、何かを成すのには短すぎるんだ。でも生きている限り、何かを思わずにはいられない。呪いみたいなもんだよ。だから死は救いで、俺はそれが待ち遠しい。死は俺たちをノーマライズしてくれる。才人であろうと、凡人であろうとさ。だから、いわばこのタバコは緩慢な自殺だ。少しでも早く救われるためのな」
「……あっそ」
「それにさ、世界一の長寿者がどんなヤツか知ってるか?」
「知らね」
「ジャンヌ・カルマンつってな、フランス人なんだそうだが、百二十まで生きたらしい。そんで、そいつはかなりのヘビースモーカーだったって話だ」
「例外だろ」とリン。「まあな」と黒瀬もあっさり頷いた。彼自身、喫煙がいい習慣ではないことくらい自覚している。少し考えて、黒瀬は言った。「そんならさ、お前といるときくらいは止めるよ。それでいいだろ?」
「いいよ別に。今さら気ィ使われると気持ち悪い」
「でも嫌いなんだろ?」
「そういう訳じゃない」とリン。「心配してやってるだけだよ」
「……」他人に自分の健康を心配されるのは、なんだか妙な気持ちだった。
やがてタバコが短くなると、黒瀬はポケットから携帯灰皿を取り出して吸い殻を入れ、またポケットに戻した。
一連の動作のあと、やおら黒瀬は言った。「今日、バンド辞めたよ」
「……ふうん」
「なんだよ。もうちょい反応とかあるだろ」
「ああ……」リンはそう生返事をすると、しばらくなにも言わなかった。
黒瀬もこれ以上はなにを言っても仕方がないと諦め、無言で静かな夜道を歩く。二人分の靴音。ギグバッグのストラップが立てる細かい金属音。ときおり遠くから聞こえてくるバイクの呻りや、家々から微かに漏れ聞こえてくるワイドショーの音声が、余計に二人の間の沈黙を際立たせていた。
そうか、そんな沈黙の中でリンは思う。バンド、辞めちまったのか。
リンはいま十七歳で、高校二年生だった。黒瀬と初めて会ったのはまだ十四歳のときで、中学二年生の時だ。出会いのきっかけはほんの些細なことで、それを始まりとしてリンは黒瀬からギターを教えてもらうことになった。
三年だ。
三年といえばちょっとした付き合いで、リンも黒瀬も互いのことはそれなりに理解していた。だから、黒瀬は自分が音楽を辞めたことを悟られていないと思っているが、リンはずっと前からそのことに薄々と勘づいていた。バンドを辞めたという言葉を聞いて、いよいよか、と確信を抱いたくらいだった。
事実、黒瀬がギターを弾いている姿をここ数ヶ月リンは見ていない。しかし、リンはそのことを指摘したりはしなかった。誰が音楽を続けようが辞めようが個人の勝手なのだから。それをいちいち言うのは野暮というものだと彼女も理解していた。
「なあ、レンタロー」野暮だと理解しつつリンは言った。言わねば後悔することになると思ったからだった。「アタシとの約束、覚えてるか?」
「約束?」約束。黒瀬は考える。そのときのリンはいつに増して神妙だった。その様子からすると、まさか飯を奢るなんて安いものではないはずだ。が、どれだけ考えてもリンがそれだけ真面目な顔をして言うような約束など黒瀬には思い出せなかった。
「二年前だ」とリンは言った。「レンタローがシビれるような曲をアタシが作ることができたら、アタシらでバンドを組むって話──しただろ」
「ああ……」黒瀬は疲れたときにするため息のような声で言った。「そんなことも言ったな」
「あの約束はまだ、有効だからな」
「わかってるよ」黒瀬は空しくそう言って、リンに気付かれぬよう深く息を吐いた。
それから五分も歩くと、二人は互いの住まいである秋葉荘に到着した。赤く変色した塗炭の外壁と磨りガラスの使われた建築物は近年その殆どが淘汰され、周囲一帯ではこの秋葉荘くらいしか残っていない。秋葉荘が築何年なのか黒瀬もリンも興味がなく憶えていなかったが、大きな地震がやって来れば倒壊するのは素人目に見てもわかる程のボロ屋だ。既存不適格。こんな建築物が建っていて良いのかと思うが、それは実際に存在しているのだから、そういうことなのだろう。
二人は錆びた鉄の階段を軋ませながら登り、やがて自室の前まで来ると「じゃ」と短い挨拶をした。それぞれが隣り合ったドアを開け、互いの住まいへと戻っていった。
◆ 1─2 Room203
黒瀬連太郎は二十八歳で、彼女は居らず、フリーターである。二十二歳の時に大学を卒業した彼は、一応は会社に就職したものの二年で退職し、それからはアルバイトを転々としながら生活を送っていた。
夢を追う気概も意思もなく、かといって会社的な社会性もなく、漫然とフリーター生活を送っている死に損ないの二十八歳。収入で言えば一部上場で正社員として働いていた頃よりもずっと落ちてはいるが、生活の質で言えば大学の頃に上京して親の仕送りで一人暮らしをしていた時と大差なく、別段これといって不満もなかった。
しかし、その気になれば四日で覚えられるような仕事をして日銭を稼ぎ、やらなければいけない事もない日々は、まるで暖簾を腕で押したように手応えがない。ただ生きるためだけに生きている。生々流転とする世の中で、自分の時間だけが止まっているような錯覚。いつしか黒瀬にとって時間とは「自分で作り出して有効に活用していくもの」から「どうにかして潰していくもの」へと変わっていた。
昔──まだ黒瀬連太郎が学生だった頃の話だった。登校するために駅まで行ったものの、どうしても気が乗らずに学校をサボった日があった。そのとき、踵を返した先にあったカフェの二階席で紅茶を啜りながら、駅の改札に吸い込まれてゆく人々を黒瀬は眼下に見ていた。特に何か特別なものが見えるわけでもなかった。が、日常的に繰り返されている眼下の光景が剰りにも醜悪で、黒瀬はそこから目が離せなくなった。同じような黒い服に身を包み、同じ場所へと群れなして向かい、悪意とストレスを満載した鉄の箱に乗ってどこかへと運ばれてゆく駅前の光景。そして、そんな最悪の乗り物に撥ねられて死ぬ頭の狂った人間が日常的に現れる。それでも社会を動かし続けるために電車は走り、人々は悪意とストレスを持ち寄ってそれに乗って移動する。それから彼はこう思った。まるで蟻みたいだと。
蟻、と黒瀬は小さく呟いてみた。
蟻──確かに彼らは蟻なのかもしれない。それから、低きに流れる水のように、思考は自然に広がっていった。
蟻と人間の本質的な違いはなんだろうか。
人間とは……。
まずは当たり前の事実を整理していった。
人間は生きるために勉強をしたり働いたりする。努力や我慢を積み重ね、そこにある程度の社会性が加われば社会的な地位は自動的に上がってゆく。地位が上がれば贅沢な暮らしができて、より美しい異性を獲得することができるようになる。そのシステムは結局、種の繁栄、あるいは個人のよりよい生存という本能的なサイクルの一つに過ぎない。動物で言うところの「強さ」が人間で言うところの「社会的地位」なのだ。
社会的交流は縄張りに似ている。利害が一致しなければ諍いが起こり、社会的交流に於ける社会的価値がその人間の属する社会的な食物連鎖の位置になる。
しかし、それくらいなら蟻だってやっている。蟻は生きるために働く。食料のために他の虫の死骸を運んだり、生活をするために巣を作ったりする。より強い個体は群れを統率する。利害が一致しなければ同じ種で殺し合いをする。結局、どんなに人間が高等な理性や知能を持つ動物であろうと、人間の社会は蟻の社会に置き換えることができてしまう。どちらも、属する社会のサイクルの中で自らの生存のために日々を費やしているのに変わりはない。
だとするのならば、人間とはどのようにあって初めて人間としての本質を獲得し、人間としての価値を持つのだろうか。
当時の黒瀬は一つの結論に到達した。それは思想と表現の有無である。知性と理性を持つ人間は、例外なく個としてのフィードバックを持ち、それを根拠として独自の価値観や世界観を得ることができ、それは個としての基準となる。そして、その基準点を始まりとし、思想や哲学が──時には詭弁が──成長してゆく。要するに、何も思わずに生きられる人間など存在しないという、当たり前の事だ。
しかし、それは前提を定義したに過ぎない。
人が人としてあるためには──その前提を踏まえた上で黒瀬は考えた。表現がなければならない。真に重要なのは思想や哲学を抱いている事ではない。絵を描き、文字を編み、音を奏でて、それらの思想を形にすることだ。それは人間にか成し得ない事だし、思いや考えというのは言葉や形にしなければ存在しないのと同義だ。
だから、表現のない人間は本質的に精励刻苦する歯車である蟻と変わりはない。人々は、自分が哲学的ゾンビではないことを自ら証明し続けなければならない。──それが当時の黒瀬の結論だった。
そして現在──黒瀬は毎日ように堂々巡りをしながら考えていた。音楽を辞め、語るべき思想も意識を傾けるべき命題も見いだせず、ただただ生きるために生き、くだらない物事に時間を浪費している自分は一体何者なのだろうか、と。
まるで暗闇の中、前後不覚に陥ってしまったようだった。風すらそこには吹き込まず、どこに行けば出口があるのかもわからないまま、日に日に腐って時化って暗い場所で死ぬ。なにもかもを見失ってしまった今の自分は、あのとき最も無価値だと思っていた蟻のような人間そのままだった。
いつからこうなってしまったのか、それとも、これほどまでに墜ちていく運命だったのか。
まるで時間をかけて埃が累積してゆくように、日を追うごとに黒瀬の心には焦りや劣等感が積もってゆく。
ロックンローラーは二十七歳で死ぬ──その言葉だけが救いだった。
ふいに、隣室のドアが荒々しく閉まる音が聞こえてきた。それは「ガシャン」と「バタン」の中間くらいの音で、同時に少しだけ部屋が揺れて机や棚の上のモノが物音を立てる。学校からリンが帰ってきたのだった。
もうそんな時間か、そう思って時計を見ると、今日の日も午後の五時を回っている。惰眠を貪り、質の悪い食事をし、ゲームで時間を潰し、少し椅子の上でぼうっとしていたらこの時間になっている。また、なにもしないまま時間だけが過ぎて行っていた。
程なくして、隣からギターの音が漏れ聞こえてくる。それから小さく歌声も聞こえてきた。いつもの事だった。ギターも歌も悪くない。三年前に初めて会った時とは比べものにならなかった。もう、黒瀬がリンに教えることはなかった。
約束──と黒瀬は思う。そうリンは言ったが、今さら自分と組む必要なんて今のリンにはなかった。ギターの腕だって今に抜かれるのは目に見えている。
そう思えば、どうしようもない劣等感がこみ上げてくる。
バイトまではまだ時間があったが、黒瀬はいつもより三十分早く部屋を出た。これ以上、惨めな気持ちにはなりたくなかった。
◆ 1─3 不良少女
黒瀬がリンと出会ったのは、三年前の冬のことだった。
今と変わらず、当時も黒瀬はフリーターで彼女もいなかったが、音楽や人生に対する失望や諦念は今ほど深淵ではなく、いくつかバンドを掛け持って活動するくらいには精力的であった。インディーズのCDも売れていて、ピークとまではいかないものの、自分の人生はまだ捨てたモノではないと楽観できるほどの余裕もあった。
リンとであったその日の夜、黒瀬はいつものようにアパートの共通廊下に出て、前面道路の営みを眺めながらタバコを吸っていた。夜風は冷たく、タバコを挟んだほうの手は痺れるほど冷たかったが、黒瀬はこの時間が好きだった。紫煙を薫らせながら茫洋と何かを思索する時間は何事にも代えがたく、自分を豊かにしてくれるような気がしていた。
そうして、二本目のタバコに火を点けようとした時だった。
突然、凄まじい音を立てて彼の隣室のドアが吹き飛ぶような勢いで開き、驚きと衝撃で指の間に挟んだタバコが落ちた。次の瞬間には、開いたドアから金髪の少女が飛び出して「死ね!」と罵声を放ち、紐がほどけたスニーカーの底でドアを蹴りつけた。寝ていたら飛び起きてしまいそうなほどの音を立てて再びドアが閉まる。
なにを思う暇もなく、黒瀬はその一部始終をただ傍白として見ていた。
ウルフカットにされた金髪、首に掛かったオーディオ・テクニカの無骨なヘッドホン、黒いパーカーにダメージの入ったショートパンツ、ボロボロになったコンバースのスニーカー。
いくら他の住民に興味がない黒瀬でも、流石に隣人が母子家庭の親子だということは知っていた。しかし、今まで交流もなかったため、まさかこんな不良少女が隣に住んでいるとは思いもしなかった。
やがて黒瀬の存在に気がついた少女が、その容貌からかけ離れた碧く静謐な双眸で黒瀬を鋭く睨みつけた。黒瀬は動じもせず、無表情なまま少女に視線を返す。
一瞬、粗暴な言動と矛盾するようなその瞳の美しさに吸い込まれるような感覚を覚えた。否、矛盾を内包しているその危うさが美しいのか。
──もし、と黒瀬は思う。森の中の澄んだ湖に宝石を沈めたとしたら、こんな輝きを放つのだろうか。
それから、その少女が混血なのだと黒瀬はすぐに察しが付いた。髪の色は明らかにブリーチ剤で脱色した金だし、顔は整ってはいるが、アジア人的な整い方だった。要するに、その目の色以外、少女には異国人的な特徴はないのであった。
数秒の睨み合いの末、口火を切ったのは少女だった。
少女は盛った野良猫が威嚇するように低い声で唸った。「なに見てんだよ」
しかし黒瀬がその威嚇に動じることはなかった。世の中には手負いの獣のような人間が跋扈していることを黒瀬は知っている。今さら自分の胸ほどしか背丈のない不良少女にメンチを切られたところで何も感じはしない。
「あんだけ勢いよく扉が開いたんだ」黒瀬は飄々とした態度で言った。「そりゃ見るだろ」
その返答が気に食わなかった少女は、舌打ちをすると踵を返し、共通廊下の錆びた階段を軋ませながら降りていった。最後に少女が腹いせに鉄骨を蹴りつけたのだろう、ガンという音と共に小さな揺れが黒瀬の立つ廊下に伝わってきて、どこからかパラパラと錆びた鉄の破片の落ちる音がした。
台風一過。秋葉荘の共通廊下は静けさを取り戻す。
とんだ不良少女だ。
黒瀬はやれやれと息を吐いて、新しいタバコを箱から取り出した。
黒瀬と不良少女が再び邂逅したのは、それから数日後の事だった。
時刻は夜の十一時。黒瀬は近所を散歩していた。暗い夜道で時々すれ違うのは仕事帰りのサラリーマンくらいで、そのほかには誰も歩いていない。吐いた息は白く、タバコの煙と区別がつかない。
しばらく歩くと、近所の児童公園へ差し掛かった。大きくはないが、十人程度の幼児が遊ぶには十分な広さのある公園だった。近年、この辺りでは建て売りの新築住宅が乱立し、その甲斐あってか新婚の夫婦と子供が増えた。それもあって、古い児童公園が改築され、真新しくて小綺麗な公園が増えたのである。この児童公園もそうして生まれ変わったものの一つだった。
街灯に照らされた不眠症の遊具たちは、子供たちの知らない夜の顔をして、すっかりと闇の中に溶け込んでいる。遊具というのは昼よりも夜に親しい。像の形をした滑り台はどこか思案げで、誰かが置き忘れていったスコップの刺さった砂場は憂鬱そうで、赤いパイプのブランコは寂しげにたたずんでいる。そんな遊具たちの存在はどこか文学的に退廃して見えた。
気の向くままに公園の中に歩を進めると、鉄棒のほうにあるベンチに一人の少女が座っているのに黒瀬は気がついた。目を引く金髪に、小柄な体躯。先日、蹴破らんばかりの勢いでドアを開けて飛び出してきた隣室の不良少女だとすぐに分かった。少女は街灯の色あせた明かりの下でギターを抱えて何かを弾いていた。
こんなクソ寒い中よくやるな、と黒瀬は感心半分、呆れ半分で溜息を吐いた。
何か買っていってやるか──野良猫に餌を与えるような出来心がふと湧いた。
公園を出た黒瀬は、近くの自動販売機で温かい飲み物を二本買った。再び黒瀬が公園に戻ると、少女は黒瀬が来たときと変わらずギターを弾いている。黒瀬はしばらくの間、声もかけずにその姿を遠目に見ていた。あまり上手くはないのが小さく聞こえてくる音からわかった。コードが鳴らせていない。ストロークも甘い。が、厳寒の季節、夜の公園でギターを弾く不良少女の姿は、まるで印象派の絵画のように黒瀬の目に映った。
寒さのせいでうまく力が入れられないのだろう。六弦にピックが触れた瞬間に少女はピックを地面に落とした。「クソ」毒を吐き、落としたピックを拾おうと身をかがめた少女に近づき、黒瀬は「よう」となるべく気さくになるように声をかけた。
「……あんだよ」不良少女はピックを拾おうとした体勢のまま、野暮ったそうにそう言って、黒瀬を見上げた。少女の頬と鼻先は寒さで赤くなっていた。「──って、アンタか」
「お隣さんだよ」そう黒瀬は言って少女の代わりにピックを拾い、買ってきた缶のココアと一緒に少女に渡す。「こんな寒い中でよく練習できるな」
「……どうも」少女はぶっきらぼうにそう言うと、黒瀬からピックとココアを受け取った。「それで、なんか用かよ」
「寒そうだなって思っただけだよ」と黒瀬は自分の分の缶コーヒーを開けて言う。「こんなところじゃ寒すぎてまともに弾けないだろ」
「アタシだって好きでやってるわけじゃない。母さんがさ、近所迷惑っつって家じゃ弾かせてもらえないんだ」
「……確かにあそこの壁は薄いが、ギターの生音が迷惑になるほどじゃないだろ」
「母さんがうるさいんだから仕方がないだろ」
「この間、喧嘩してたのはそれか?」
「いや」と不良少女は皮肉げに笑った。「違う。もっと些細なことだよ。親子の喧嘩なんてそんなもんだろ?」
「違いない」と黒瀬が笑う。「喧嘩は些細なところからはじまるもんだ。なにかやらかしたときは喧嘩じゃなくて説教がはじまる」と黒瀬は言って、タバコに火を着けた。「俺は実家で暮らしてた頃、よく楽器の音がうるさいって親と喧嘩したよ」
「へえ、アンタも楽器弾くのか」不良少女は初めて興味のあるような反応を示した。「楽器って、なに弾くんだ?」
「お前と同じだよ。ジャズマスター使ってる」
「……ジャズ」不良少女は眉をひそめる。「ジャズ、なんだって?」
「ああ……ギターの種類だよ」それから黒瀬は、少女の膝の上に乗っているエピフォンのギターを見た。「お前が使ってんのはテレキャスターだな」
「へえ」少女はギターのボディを撫でた。その様子から、少女が自分の機材に愛着を持っていることが分かり、黒瀬はそこで初めて少女に好感を持った。少女は言った。「こいつテレキャスターっていうのか」
「もしかして、楽器はじめたばっかりか?」
「ああ」と不良少女は頷く。「パン注文の金と小遣い貯めて買ったんだ。教本も買った。でもぜんぜんダメだ。まるでわかんねえ。チューニングがこれで合ってるのかどうかすらわかんねえから、自分がちゃんと正しい音出せてんのかもわかんねえんだ」少女はそう言って、座ったベンチから黒瀬を見上げた。「なあアンタ、楽器弾けるんだろ? だったらアタシに教えてくれよ」
「……」図太いなコイツ。反射的に感想が浮かんだ。しかも断りづらいその様子に、ばつの悪くなった黒瀬は頭を掻いた。ただの興味本位で声を掛けてみただけなのに、面倒なことになってきてしまった。
「頼むよ」渋る黒瀬に少女が食い下がる。「暇なときでいいからさ。このままじゃ、せっかく金貯めて買ったのにガラクタになっちまうよ」
その真剣な様子に、これもなにかの縁だと思って黒瀬はため息を吐いた。それに、確かに面倒ではあるが、こういう突飛な出来事を、どちらかというと黒瀬は好む質だった。
「わかった」黒瀬は少女を見てため息交じりに言った。「教えてやるよ、ギター」
「マジ?」少女が碧い目を輝かせてベンチから身を乗り出す。言動しかり、容貌しかりで、黒瀬の少女に対する第一印象は最悪だったが、こうして話してみると、かなり突っ張った性格ではあるが、無邪気さもあって可愛いものだった。「ホントか? 本当に教えてくれんのか?」
「ただ」と黒瀬。「俺が教えるのは基礎までだ。そしたら後は自分でなんとかしろよ」
「ぜんぜん」と少女が言う。「それで十分だ。アンタ名前は?」
「黒瀬連太郎だ。お前は?」
「アタシは……」少女は一瞬口ごもってから言った。「アタシは、リンだ」
「それじゃよろしく、リン」そう言って黒瀬はリンと名乗った少女に手を差し出す。
少女は黒瀬の手を握り返し、少年のように笑った。「よろしくな、レンタロー」
◆ 1─4 エリクサー
時折、鏡の前に立つと、なぜ自分の目は碧いのだろうかと考えることがある。
リンはこの春に十七歳になったばかりで、この瞳とも十七年間付き合っている。しかし、ふとした瞬間に自分の目の碧さを不思議に思うときがある。周囲にいる人間たちの瞳は黒か茶色だ。だのに、自分の瞳は碧い。それはまるで周囲の人間と自分とを区別している印のように思う。実際、現在リンが属している学校という社会の中にあって、リンははぐれがらす的な存在だった。もともとがあまり社交的な性格でなかったせいもあるが、自分の中にある芯のようなモノに対して忠実であるリンの行動は安易に他人を寄せ付けなかったし、彼女のほうも別段そのことを気にしているわけでもなかった。ただ、社会というものは集団で動くことを前提として存在している。だから、そんな社会の中にあって一人というのはかなり生きづらいものだったが、リンからそちらのほうへと歩み寄る気は全くなかった。
そして、自分がそうした性格になった一端はやはり、この瞳にあるのだろうとリンは思う。もちろん、それはリンがこうまで捻くれることになった原因を作った些細な要因の一つに過ぎない。家庭環境や、今まで触れ合ってきた人々、聴いた音楽に、読んだ文章、見た景色に、覚えた知識──こういうものから今のリンは形作られている。
そうしてリンの思考はまた冒頭へと戻ってくる。
なぜ、自分の瞳は碧いのだろうか。
リンは自分の父親を知らない。生まれた瞬間から彼女にとっての親は母親一人だった。彼女の母親は日本人で、目も黒ければ髪も黒い。であれば、きっと父親のほうの遺伝のはずだ。しかし、母親に訊ねてみても自分の父親が誰なのかは分からなかった。彼女の母親は「心当たりはあるけれど、そのうちの誰かは分からない」と言っていた。ダニエル、ジェイムス、リチャード。いつしか彼女は自分の父親や瞳の色について母親に訊ねるのをやめた。それがダニエルだろうがなんだろうが、なぜ自分の瞳は碧いのかという疑問に対しての正論は「遺伝だから」なのだろう。しかし、顔も名前も知らない父親からの遺伝だという答えは、たとえ真実であったとしても彼女にとって腑に落ちないものだった。それなら、生まれたときは黒い目だったが、成長して性格が捻くれてゆくにつれて目の色も性格と一緒に周囲から捻くれていったというほうがまだ納得できるというものだ。
「……」そろそろ自分の顔にも見飽きた。
洗面器の鏡の前から離れて居間を抜け、寝室へ向かう。
寝室はこの狭いアパートの部屋の中にあって、リンが自由に使える唯一の空間だった。とはいえ、寝室全体がそうであるわけではない。リンが物を置くことのできるのは、六畳しかない寝室の端の、ほんの二畳ほどしかない小さな空間だった。その空間には主に、机と椅子と彼女の機材が置かれている。それを超えて店を広げてしまうと、夜に布団が敷けなくなってしまうのだった。しかし、夜でなければ彼女は部屋の真ん中で自由にギターを弾くことができたし、物を置くこともできた。狭くはあったし、あまり物を置くこともできなかったが、自分という存在が凝縮されているようなこの空間を彼女は嫌いではなかった。
多くなくていいんだ、とリンは思う。重要なのは、雑多なものよりも、本当に好きなものだけを選び取ってそれを突き詰めていくことだ。そうして一つのことを突き詰めた経験は、また他の物事にも生かすことができ、最終的にそれは多様性へと繋がってゆくのだ──と、そう黒瀬から貸して貰った本には書いてあった。
寝室に戻ったリンは、スタンドからギターを外した。張り替えたばかりのダダリオはもう錆びかけてきていた。
普段エリクサーを張っている分、気分でニッケル弦を張るとやはり劣化が早く感じる。
鳴りはこっちのほうがバリバリしていて好きなんだけどな、そう思いながら、リンは手を伸ばして机の上から買いだめしておいたエリクサーを取り、張り替えの作業を始める。
弦を外している最中、玄関ドアが開く音がして「ただいまあ」と間の抜けた声が居間の扉の向こうから聞こえてきた。母親だった。居間のドアが開く音。居間と寝室は引き戸の間仕切りがあるだけなので、寝室にいるリンが「おかえり」と呟くような声で言っても居間まで声は十分に届くのであった。
「ごはん買ってきたわよ」そう言って、リンの母親は居間のテーブルの上に惣菜の入ったスーパーのレジ袋を置いた。なにを買ってきたのか問うと「回鍋肉ときんぴらごぼう」と返ってきた。回鍋肉もきんぴらごぼうもリンの好物だった。「お米は炊いてある?」
「二合だけ」とリン。
「じゃあ、ごはんにしましょ」
リンは外した弦を纏めてゴミ箱に捨てた。
夕飯の後、寝室であぐらをかきながら弦交換の続きをする。居間のほうからは、彼女の母親が垂れ流しているワイドショーの音声が聞こえてくる。芸能人たちの下らないお喋りに、空虚な笑い声が湧く。なにが面白いのかわからない。第一、テレビを点けた張本人の彼女の母親でさえ笑っていないのだ。こんなものになんの意味があるというのだろう。
弦交換は半分まで終わっていた。いまは三弦を通してペグを巻いているところだった。
「ねえ、リンちゃん」何気ない口調だった。呼びかけられたリンは、ペグを巻く手を緩めて、テレビの画面を見るともなしに見ている母の横顔を見る。「……なんだよ」
「お母さん、結婚しようと思うんだけど」
一瞬の沈黙の後、リンはそれがまるでどうでもいい報告を受けたときのように、実に素っ気ない口調で「……あっそ」そう言って弦交換の続きを始めた。次は二弦だった。
「あっそ──って」
「なんでもいいよ」相変わらずリンは素っ気なく言った。「……その、つまり」二弦を巻く手を止めて、リンはその先の言葉を探す。上手い言葉が見つからなかった。「……つまり、アタシやその相手や、それによって生じるいろんな物事や関係に対する誠意があるなら、アタシはなんだっていいと思う」それに、とリンは言った。「なんとなくこうなることは察してた」
一年ほど前からだった。リンの母親は金曜と土曜の夜に帰ってこなくなった。当時、男ができたと直截に言われなかったものの、その言動からそれとなく察することはできた。別段、リンはそのことを不快には思ってはいなかったし、好きにすれば良いとすら思っていた。母親といえど他人だ。そんな他人の自由を束縛する権利が誰にあるだろうか。もちろん、そこにはある程度の責任はある。が、いま問題になっているそれは、母親の責任の外にあるとリンは思っていた。それに、女手一つながら自分をなに不自由なく育ててきた母親の幸せなのだ。ダメだと拒否する道理もない。「相手も、悪い奴じゃないんだろ?」
「ええ……いい人よ」リンの母親は頷いて答える。「今度、三人でご飯でも食べに行こうって相手の人と話していたんだけど」
「アタシはいいよ」リンは六弦からチューニングを合わせながら言う。「気疲れしそうだし」
「でも……そういう訳にはいかないでしょ? これから一緒に暮らすかもしれないんだから」
リンはため息を吐いた。身体が萎んでしまうような深いため息だった。「……わかったよ」
「ありがとう」
そうして会話が終わり居間を出たリンの母親は、キッチンに入り夕飯で使った食器を片付けた。食器の数は少なく、普段なら洗い終わるのに十分とかからなかったが、その晩ばかりはそれ以上の時間をかけてゆっくりと皿を洗った。考えるのは、娘の成長と自分の再婚のことだった。──否、厳密に言えば彼女は結婚をしてリンを産んだ訳ではなかったから、再婚というのは正しくはない。
彼女がリンを孕んだのは、十八年前、たまたま知り合った外国人の男に誘われたパーティーでのことだった。当時、毎夜のように遊び歩いていた彼女にとって、パーティーというのは「そういうもの」だった。数人の男女が集まり、マリファナが焚かれている部屋の中で踊って唄い、乱交をする。そこに集まる面子の六割は米兵で、パーティの場所やマリファナを用意してくるのも米兵だった。
記憶はほとんど残っていないが、リンを孕んだのは当時参加した、とあるパーティで間違いなかった。彼女は未だ、リンにこのことを話せていない──というより、話していいものなのかどうかの判断がつかない。話すことがせめてもの誠意になるのか、あるいは話さないことが娘の為になるのか。なにが責任で、なにが誠意になるのか。傷つけたくないから嘘を吐くのは、誠意とは言わないだろう。
しかし、と彼女は思う。もう十七歳なのだ。ついこの間まではチンピラみたいだったのに、最近では急に大人びてきたように思える。確かに、相変わらず言葉遣いは汚いし態度も捻くれてはいる。が、好きなことを見つけ、これまで国語の教科書すら読みたがらなかったのに小説まで読むようになった。そのせいか、近頃ではその荒い言葉遣いの中にも理知がうかがえるようなことが増え、下らないことで喧嘩をすることも少なくなった。遠い昔、自分がまだ十七歳だった頃よりもずっと今のリンは大人だった。話せないことなどあるだろうか。たぶんないだろう。最近ではめっきり訊ねられなくはなったが、彼女の出生についての裏話をいつまで経っても話せないでいるのは、やはり自分の甘えなのだと思う。それを告白することはひどく辛い。これまで二人で十七年間築いてきたものを損ねてしまうのではないかと怖くなる。
結局、自分が傷つきたくないだけなのだ。それでも、できることならもう少しだけ、その粗暴な態度の裏側に隠された優しさに甘えさせてもらおうと彼女は思っていた。
洗い物が終わり、居間に戻る。リンは隣室でギターを弾いていた。
三年前だ、とリンの母は思う。ちょうどリンがそのギターを始めたばかりの頃で、当時はそれが原因で何度も喧嘩をした。まず、リンがギターを買ってきた日。それは中学校の弁当代を使わずに貯めて買ってきたもので、それを叱ると、リンはしばれるほどに寒い冬の日の夜に部屋を飛び出していってしまった。次に、その音が近所迷惑になるからやめるように言った日。リンは夜中にギターを持って外に出て行った。翌日、リンは熱を出して学校を休んだのだ。
それから彼女は、この部屋の隣の住人のことを考える。
いつからかは彼女にはわからなかったが、リンはいつからかこの部屋の隣に住む黒瀬という男からギターを教えてもらうようになった。本を読み始めたのも確かその頃で、最初こそはなにか良くないことに巻き込まれるのではと不安ではあった。しかし、不良でしかなかった娘を今のように──暴走するばかりだったリンのエネルギーを正しい方向に導いてくれたのは、その黒瀬という男であるのは間違いがなかった。自分ではそうはいかなかっただろう。導くどころか、さらに暴走させてしまうだけだ。隣人の黒瀬とは何度か顔を合わせたことはあるが、一度、しっかりとお礼を言わなければいけない。
なんにせよ、と彼女は思う。リンの言う誠意にこれからも応えていかなければいけない。それが母親である自分の責任なのだ。
◆ 1─5 スクランブル
その日、黒瀬は足りない物を買いに渋谷に訪れていた。そして特筆することもなく無難に買い物を済ませて午後八時。秋葉荘に帰ろうと黒瀬が再び渋谷駅前に訪れ改札へ向かう途中、どこかで路上ライブをやっているらしく、ギターの音と歌声が聞こえてきた。
渋谷駅前で路上ライブ──よくあることだった。多いときは三組ほど演っている日もあるのだ。気にとめることもない。そう思い、黒瀬は改札の方へ向かうのだが、ふと小さく聞こえてくる歌声やギターの旋律が、黒瀬の耳朶にやけに印象的に響いた。デジャヴ。黒瀬は足を止め、路上ライブの音楽に耳を澄ませる。すぐにそのデジャヴの正体はわかった。
リンだ。そう気がついて、黒瀬はハッとした。ギターフレーズに聞き覚えがあるのは、リンがよく弾いていたものだったからだ。歌声は、むろん普段の喋り声とは違うが、はっきりとそれがリンのものだとわかる。
──アイツ、こんなところで演ってたのか。
せっかくだから聴いていってみよう、そう思い、黒瀬は音のする方へと足を向けた。
駅前、交差点前のハチ公広前。人波に隠されていただけで、楽器を弾くリンの姿はすぐそこにあって、彼女はいつもの黄色いフェンダー・テレキャスターを持って弾き語りをしていた。 周りには数人の見物人がいたが、リンはまるで一人で練習しているかのように淡々とギターを弾き、歌を唄っていた。それこそ、いつもの部屋の風景が都会の風景にすり替わっただけのように。そこには投げ銭の箱はなく、一枚のCDだって置いていなければ、自分が何者なのかを名乗るものもない。あるのはギターを持った一人の少女と、細々とした機材だけだ。
黒瀬は少し離れたところから、そんなリンの演奏を聴いていた。
黒瀬がやってきた時、リンは弾き語り用にアレンジされたナンバーガールの透明少女を演奏していた。リンの歌をしっかりと聴いたのはその時が初めてだった。悪くなかった。少し舌っ足らずなところはあるが、特徴的なハスキーボイスをうまく使っていて、引っかかるような高音のかすれ具合が印象に残る。その上、ギターも弾き熟せている。
透明少女が終わると、一言の挨拶も喋りもなく、ペットボトルの水を一口飲んだだけでリンは再びギターを弾き始めた。なんの曲だろうか、リフを追ってみるが、なんの曲かはわからない。なんだろうかと考えている内に、リンが歌い始める。
「嫌なことがあった
逃げ出した夏の日 アイスをかじって見上げる空
限りなく透明なブルー
溶けたアイスが地面に落ちて
棒に刻まれた文字は ハズレ」
しばらく聴いてみてわかったのは、その曲がリンの手によって作られたものであるということだった。
「……」黒瀬はし気の抜けたように言葉を失い、その曲に聴き入った。覚えず粗を探してしまうほどに曲の完成度が高かったからだ。
それがリンのオリジナルだと気がつけたのは、この数人の観客の中でも黒瀬だけだった。
何故それがリンのオリジナルだと気が付くことができたか──詩だった。リンの好きな小説の一つが村上龍の「限りなく透明なブルー」だし、リフのコードもリンがよく好んで弾くものだった。三年間もリンに付き合ってきた──あるいは壁一枚を隔てて彼女のギターを聴いてきた黒瀬にはそれがわかる。
「足の裏 溶けるアスファルト 歪む陽炎
わからなくなる
なぜこんな道を歩いているのか
放り出された訳じゃない
それしか道がなかった訳でも
意地だけだ それがアタシを道の先へと運んで行く」
そうして彼女の曲を聴いてゆく内に、黒瀬の中に暗い感情がふつふつと湧き上がってくる。
リンにメロディセンスがあることは前々から知っていた。周囲を納得させるだけの才気も持ち合わせていることも。
「アタシはいつか見つけるだろう
こんな日々のその先に
神様のメモ帳に記された たった一つの冴えたやりかた
空を仰ぐ アタシは眼を細める
痛いほどの青が広がる空 影すら焦がす太陽の光
あと一度 あと一度だけ戦ってみよう
そうしたら 眠るんだ──」
三年だ、と黒瀬は思う。わずか三年。自分がうだつの上がらない日々を過ごしている間に、リンは自分など追い越して遠くに行ってしまった。その暴力的なまでの才能に比べ、自分にはメロディセンスも才気もなければ、詩にして表現したいようなことも持ち合わせていない。
数年後の自分がこうなっていることを、数年前の自分が知ったらどう思うのだろうか──もう何回も繰り返した暗い自問自答がまた鎌首を擡げる──十歳近く年が下の少女の才能に打ちのめされ、表現することを諦め、かつて忌み嫌った人間に成り下がっている自分のことを、どう罵るのだろう。
もう、空っぽだ。
リンの唄が猛毒となって黒瀬の身体を駆け巡る。
今までいろいろな物を作ってみたが、自分や他人を納得させられるだけのモノは五つとして作ることができなかった。しかし、いま目の前でギターを弾いている少女は、黒瀬が十年以上かけてやっと数個作ることができるものを僅か数年でいくつも作り上げてしまう人種だった。 まるでそこに枯れることのない源泉があるかのようだ。
一方、自分はこれ以上なにを語れば良いのか分からない有様だ。汲めば汲むほど、その水源は痩せ細り枯れていく。
ふと、黒瀬は、自分がリンの曲に対して無関心になっていることに気が付いた。耳にすら入ってこなかった。今の黒瀬の心には光すら吸い込むほどの──底の抜けた深淵があった。膨らみすぎた感情が破裂したのだった。そこには時間すら流れない。
約束──そんな言葉の響きに、黒瀬は嘲るように口許を歪ませた。
黒瀬はリンに声をかけることもなく、背を向けてその場を去った。
路上ライブの終わりはリンの気分だった。その日は七曲。コピーしたものが四曲、オリジナルが三曲。腕時計で時刻を確認する。午後の八時半。おもむろにギターを弾く手を止めたリンは、ペットボトルから水を一口飲むと、周囲の観客になにを言うでもなく淡々と機材の撤収を始めた。それを見た観客たちは三々五々に人混みの中へと消えてゆく。その観客たちの中に、さっきまで黒瀬の姿があったことをリンは知らない。
リンがこうして路上ライブをするようになったのは、つい三ヶ月ほど前からだった。自分で作った曲の感触を確かめたいと思ったのがきっかけだった。最初は黒瀬に聴かせることも考えたのだが、見知った相手に聴かせることを考えるとなんだか小っ恥ずかしかった。それに、黒瀬とは約束のこともある。下手なものを聴かせるわけにはいかない。黒瀬に聴かせるのは、もっと手応えがあって作った曲にしようと決めていた。そして、その結果として行き着いたのが路上ライブという答えだった。
今回のはまあまあだったな──そう思いながら機材をキャリーに積み込んでいる時だった。「あ、あの」一人の少年が、そうリンに呼びかけた。
まさか呼びかけられているのが自分だと気がつかなかったリンは、黙々と機材をキャリーに積み込んでゆく。
「あ……あの、飯塚さん?」少年が再びリンに呼びかける。飯塚というのはリンの苗字で、思わぬところで自分の名前を呼ばれたリンは少年のほうに振り返った。リンの碧眼と少年の黒眼の視線がぶつかる。「やっぱり、飯塚さんだよね?」
リンは眉を顰め、訝しげに少年の顔を見た。その少年はリンと同じ高校生くらいの年齢に見えた。草食動物のように大人しげで白い顔に、紺の七分丈ニット。黒いスキニーパンツに灰色のキャンバスシューズ。背はリンよりも高いが、そもそもリンが小柄なので、自分より小柄な男と言えばまだ成長期の訪れていない中学生くらいだ。ともかく、その少年が知り合いでないことだけは確かだった。不審とまでは行かないが、信用はできない。リンの声が低くなる。「なんでアタシの名前知ってんだよ」
「なんでもなにも、同じクラスじゃないか」と少年は少し困ったような、それでいて不服そうな口調で言った。しかしクラスメイトの顔と名前などいちいち覚えていないリンにとっては、同じクラスだからと言われてもやはり少年が誰だかピンと来ない。
「名前は?」
「杉田だよ。杉田慧」
「あー……」確かにそんなヤツもいたな、とリンは思う。十秒経てば忘れてしまいそうな顔をしているせいで記憶に残っていなかったのだ。
「その反応、絶対に僕のこと覚えてなかったでしょ」
「……それで」覚えていない、そう正直に言ってしまうとこの会話が長引いてしまうと思ったリンは、はぐらかすようにして話題を変えた。疲れていたし、腹も減っていた。さっさと家に帰って風呂に入り、夕飯を食べて眠りにつきたかった。「その杉田慧がアタシになんの用だ?」
「いや、さっきの弾き語りすごくよかったから。途中からしか見てなかったんだけど、いつもここでやってるの?」
「まあ」曖昧に答えながら、リンはキャリーに纏めた荷物を紐で固定する作業に取りかかる。
「またやるときあったら言ってよ、僕、行くからさ。友達連れて」
「ああ」リンの返事は極めて淡泊だった。正直、友達など連れてこられても嬉しくないし、興味のない相手の面白くもない話だ。真面目に取り合うつもりもない。
「バンドとか組んでるの?」
「組んでない」
「ねえ、僕も軽音部でギター弾いてるんだ」
「へえ」軽音楽部。リンがまだ高校に入ったばかりのころ、それがどんなものなのか一度だけ見学に行ったことがある。結果から言うと、リンは軽音楽部という部活が嫌いだった。身内だけで完結した生ぬるい空気感に虫唾が走ったのを今でも覚えている。
「それでさ」杉田慧が続ける。「それで、もしよかったら俺とバンド組もうよ」まるで明るい未来でも語るかのような口調だった。一方、リンといえば、もはや杉田慧のほうすら向かず、紐で縛った荷物の最終点検をしていたし、頭の中では夕飯のことを考えていた。しかし、リンのそんな様子を気にとめることもなく杉田慧は言う。「軽音部の奴らも誘ってさ。きっと──」
「──悪いんだけどさ」と、リンは言って杉田慧の言葉を遮った。それ以上取り合うつもりはないと、リンは態度で言外に示した。「ギターはもう決まってんだ。アタシはそいつ以外とは演らないって決めてる」そう言ってギターを背負ったリンは機材を積んだキャリーと共に踵を返し、振り返ることもなく言った。「じゃ、疲れてるし、腹も減ってるからもう帰るわ」
◆ 1─6 ディストーション
真夏日なみの気温。とニュースキャスターが言ったところで黒瀬はテレビの電源を切った。 まったくひどい話だと思う。まだ外では蝉も鳴いていなければ梅雨も訪れていない。こうして自然が病んでいるのだから、世間が狂って人間が病むのも道理というものだ。
ちょっと迷ってから、黒瀬は開けていた窓を閉めて冷房を入れた。
あの渋谷駅前でリンが路上演奏をしているのを見かけた日から、それまで無気力的だった黒瀬の傾向は、さらに深まって虚無的になっていた。楽器を弾くどころか音楽を聴くのも苦痛だったし、ここ数日間まともな食事すらしていなかった。部屋は汚れてゆくばっかりで、机の端にあるカップラーメンの食べ残しや、缶酎ハイの飲み残しに黴が生えていることに黒瀬は気がついていない。しかし、それでも生きるために働くことだけはやめなかった。それも、生きることが死ぬことよりも簡単だったからというだけだ。
今日この日をどうやって生きていこうか、と黒瀬は思う。時間は必ず過ぎて明日になるが、今の黒瀬にはどうしても明日というものを想像することができなかった。不連続存在。その間の空白はどうやっても埋まらない深遠なもののように思えた。今日は用事もなければアルバイトもない。そのくせ、いつもより早起きをしてしまった。昨日と今日の空白を埋めるために酒とタバコで無理に身体を鉛のように重たくして早く寝たからだ。開いた窓の外を見ると、この真夏日の元凶たる太陽が、蒼穹の中点に燦然と位置している。
眩しい、そう思って目を瞑ると、そこには真っ赤な暗闇があった。太陽の光が薄い瞼の皮膚を透かしているのだ。
しばらくの間、黒瀬はその真っ赤な暗闇で渦巻く油膜のような虹色をした幾何学模様が浮かんでは沈んでゆく様子をじっと眺めていた。そうして回転椅子に深く背中を預けて時間を過ごしてゆく内に、自分の中からなにかが湧き上がってくるのではないかと黒瀬は期待した。しかし、どれだけ待ってもそのなにかが訪れることはない。
代わりに、黒瀬の元に訪れたのはリンだった。
いつものように玄関のチャイムを連打してやってきたリンは、まず冷房の効いた部屋にささやかな歓声を上げ、それから、荒れ果てた部屋の様相を目にして顔を顰めた。
「汚ったねえな──あ、おい。このカップラーメン何日前のだよ。黴生えてんぞ」
「流しに捨てといてくれ」リンのと目が合うことが怖くて、黒瀬は窓の外を見た。碧い瞳に自分の愚かさを見透かされてしまうような気がした。
「おいおい、アタシはお前のママや家政婦じゃねえんだぞ」言いながら盛大にため息を吐き、リンは黴の生えたカップラーメンを流しに捨てた。「なんかあったのか?」
「なんもねえよ」投げやりにそう言って、黒瀬は椅子に座った。「誰にだってあるだろ。なんとなく気力が湧かないときって。今がそれなんだよ」
「ふうん」さして興味もなさそうな相づちだった。「生理か?」
「んなわけねえだろ」多感な女子高生の科白とは思えない。まるで悪ガキだ。「……せっかくだから片付けるか。手伝ってくれ」
「仕方ねえなあ」二人はゴミの散乱した部屋を片付け始めた。とは言え、せいぜい一週間かそこらの量しかないゴミだ。ましてや掃除の手が二人分ともなればなおさら、掃除に要した時間は十分もなかった。空白が埋まり、明日への連続性が生まれる。
掃除が終わる頃になっても、相変わらずリンと目を合わせることができなかった。どうにか不自然にならないように喋るので精一杯だった。逃げ出したい一心で黒瀬が言う。「ゴミ出してくるついでにコンビニ行ってくるけど、なんか欲しいモンとかあるか?」
「コーラ」とリンは短く言って、それから思い出したように付け加えた。「ファミチキ」
「あいよ」黒瀬は両手にゴミの入った袋を持ってアパートを出て行った。
黒瀬がアパートから出て行った後、リンは鞄から一冊の本を取り出すと、それを本棚の適当な場所に差し込んだ。黒瀬の部屋の本棚は、まるで本屋の一角から持ち出してきたもののように背が高く、大きい。ゆうに七百冊は収納できるほどで、いつかこのボロアパートの床が抜けてしまうのではないかと思うときがある。
本棚には黒瀬が数年かけて集めてきた様々な本が収納されている。純文学、ライトノベル、哲学書や詩集、戯曲、それから漫画もある。実家にはもっと多くの本があるらしい。リンが普段読んでいる本は主にここから借りてきたもので、今日も読み終わった本を返し、新しいものを借りにきたのだ。
ヘミングウェイでも読んでみようか、無秩序に本の押し込められた本棚を見てリンは思う。老人と海なんていいかも知れない。なにより初めて読む作者の本だし、これくらいの長さがちょうどいい。
「……ん、なんだこれ」その時、本棚と床の隙間から一冊の本が角を覗かせているのを見つけた。きっと何かの拍子に本棚から落ちて入り込んでしまったのだろうと思い、リンはそれを手に取った。背表紙に記された作品名は『蘇芳/縹』。筆者は氷室コウスケ。表紙に積もった埃を払い落とすと、タイトルにある通り表紙は蘇芳と縹色の二色に塗り分けられていて、そこに筆者のものと思われる拙いサインが直筆で書き入れてあった。
いつか、物書きをしている友人がいると黒瀬が話していたことを思い出す。
まさかな、とリンが呟く。だとすれば、こんな風にぞんざいに扱うようなことはしないだろう。もし偶然下に潜り込んでしまったのだとしても、本棚から失くなれば気が付くはずだ。
リンは本をそっと本棚に戻した。その後で、思い直してリンは『蘇芳/縹』を引き抜いて鞄の中に仕舞った。黒瀬がわざわざ著者からサインを貰うほどの本がどんなものなのか気になって仕方がなかったからだ。
今ここで本を読み始めても良かったが、それよりもまだ少し汚い部屋を今のうちに掃除してしまうことにした。散らばった服、何かの部品やコード、定位置に収まっていないリモコン。
ふと、部屋の隅に置かれている四本がけのギタースタンドが目に付く。
スタンドに掛かっているのは、黒瀬がメインで使っているサンバーストカラーのジャズマスターを始めとし、白いストラトキャスター、アコースティックギター、黒いジャズベースが立てかけられている。
「……」リンはその四本の楽器を言葉なく見つめた。
積もった埃。錆びた弦。色のくすんだフレットや金属パーツ。特にひどいのがアコースティックギターとジャズベースで、スタンドから外して点検してみると、長い間手入れされていないせいで可哀想なくらいネックが反ってしまっていた。
「……アイツ」リンは呟いてスタンドからジャズマスターを外した。唯一、他の楽器よりも状態はマシだったが、やはり弦は死んでいた。なのにも関わらず替えの弦が置いてある気配はない。きっと最後に弾かれたのは、黒瀬がバンドを辞めたと言っていたあの夜のことだろう。
リンは数週間前の夜のことを思い出す。その夜、黒瀬の様子はいつもと少し違っていて、なにか含みがあるような話し方をしていたことをリンは覚えていた。
いや──とリンは思う。
それ以前から兆候はあったのだ。もしかしたら、と勘づいてもいた。実際、最後に黒瀬がギターを弾いているところをリンが見たのは思い出せないほど昔の出来事だったし、このところアルバイトや母親の再婚事情もあって忙しかったリンが黒瀬の部屋を訪れたのは久しぶりのことで、まさかここまで全く楽器に触っていないとまでは思っていなかった。
リンはギターをスタンドに戻し、ベッドを背もたれに座り込んだ。リンは茫洋とした眼差しでスタンドに掛かった楽器たちに目線をやった。
埃が積もり、弾き手がおらずダメになっていく機材を見るのは寂しい。それらはリン自身を今まで導いてきてくれたものの象徴だった。リンは黒瀬から音楽を教わった。そして、その黒瀬がリンに何かを教えるときはいつだってあのジャズマスターを筆頭に、今彼の部屋のスタンドに掛かっている機材達があった。それがいつの間にかにこうして部屋の隅に忘れ去られ、色あせたものとしてそこにある。それは間違いなく、今の黒瀬の心のメタファーだった。
あるいは、とリンは思う。今まさに音楽を辞めようとしている者からすれば、自分のような存在はこの上なく鬱陶しいのではないだろうか──。
思えば、今日だって一回も目が合っていない。
胸に、重たい鉛の霧が渦巻いているようだった。
リンにとって黒瀬は師であり、兄貴分であり、友人だ。いつかは相棒として肩を並べたいと無邪気に思っていた。──リンにとって黒瀬という男はそういった存在だった。
しかし、それは自分の一方的な思い込みに過ぎなかった。自分と黒瀬の思いは気づかぬうちに大きく、致命的にすれ違っていた。それはリンの視線の先にある埃を被った楽器たちを見れば一目瞭然だった。
やがて玄関の開く音がした。帰ってきた黒瀬はローテーブルの上にペットボトル入りのコーラとファミチキの入った袋を置いた。リンは特にそれに関心を払うこともなく、ただ「サンキュ」と静かに答えた。
ああ、と呼吸をするついでのような返事をしたあとで、やおら黒瀬はタバコに火を点けて椅子に座ると、無意識にパソコンの電源を入れながら煙を吐いた。その間も、リンの中では黒瀬に対する様々な問いが渦巻いていた。が、彼女自身、渦巻く無数の問いが何も生み出さないことをもう知っていた。
しかし、問わずにはいられなかった。そうしなければ気が済まなかった。
「ギター弾いてないだろ」口を衝いて出た言葉は結局、無数の問いの中でもっとも簡潔で核心的なものだった。
「弾いてないよ」一方、黒瀬にはリンがなにを言いたがっているか分かっていた。大方、自分が外出している間に機材の状態を見たか、そうでなければ、自分が音楽を辞めたことに前々から勘づかれていたのだろうと察した。いずれにせよ、そうして口火を切られてしまったからには、もう隠す必要のないことだった。ここから先はなにを言っても同じだ。それが嘘でも真実でも。そこには解決はないだろうし、今まで通りの関係もないだろう。だから、黒瀬は目を合わせぬまま、腑抜けたように表情だけで笑って言った。「もう、音楽は辞めた。これから先、俺が楽器を弾くことはない。ずっと前から決めてたんだ」
「……」リンは黒瀬から目を背けた。そんな腑抜けた顔は見たくもなかったし、耳も塞いでしまいたかった。
失望か、怒りか、はたまた当てのない後悔が彷彿としてリンを飲み込んだ。
一方、黒瀬から見て、なにも言わないリンは不気味だった。音楽を辞めた理由をしつこいくらいに詮索してくるものだろうと黒瀬は思っていた。そうでなければ「ふざけるな」と言って、壁を殴るか、もの凄い勢いでドアを閉めて帰るかはするだろうと考えていた。付き合いも三年となると、それくらいの予測は咄嗟にできる。しかし、黒瀬が思っているほどリンは子供ではなかった。事実、黒瀬の言葉が引き起こしたのは、詰問でも嵐のような物音でもなく、互いを推し量れないほどの重苦しい沈黙だった。
リンが不意に立ち上がる。ゆらり、幽鬼を思わせる動作。項垂れ、前髪が影になって顔に落ちていてその表情は窺い知れない。
「……このクソ野郎」リンは小さな声を部屋に響かせて去って行った。
玄関の奥で静かにドアの閉まる音がした。
そうして黒瀬は一人、手に取れそうなほどの質量を持った暗い蟠りと、深い谷の底のように孤独な沈黙と共に部屋に取り残された。
クソ野郎──恐ろしく単純なその罵り文句は、リンの言いたかったこと全てが煮詰められた言葉であり、黒瀬が今まで他人から受け取った言葉の中で最も質量のある言葉であった。それは軛のように、黒瀬の心に突き刺さって抜けない。
音楽を辞めたと告白して清々した──とてもそんな気持ちにはなれそうにはなかった。
自分の中でそれほどリンという少女の存在が大きくなっていたことに、黒瀬は自虐的な笑みを浮かべた。全く、情けなくてひどい話だった。
しばらく後で、爆音が隣室から押し寄せるようにして漏れてきた。歪んで潰れきったEのコードが滅茶苦茶に掻き鳴らされていた。微かに、その音の中から吠えるようなリンの慟哭が聞こえてきたような気がした。やがて音は徐々に減衰してゆき、耳鳴りのようなフィードバック音に変わると、張り詰めていた糸が断ち切られるようにして突如として止んだ。音が鳴ったのはそれっきりで、あとは只管に無音だった。
黒瀬は深く椅子に凭れて眼を瞑った。窓の外の光が瞼の裏に赤い暗闇を作る。そこに浮かんでは沈んでいく油膜のような虹色の明滅を眺めながら、黒瀬は心に突き刺さった言葉の重みと、歪んで潰れきったギターの音と、その後のフィードバック音をタバコの煙と共に反芻した。
◆ 1─7 不良少女2
リンの姿を見なくなってから一週間以上が経っていた。
梅雨の季節。粘り気のある空気と、曇りと雨ばかりの陰鬱な風景が数日間続いていた。
うろんな日々だった。
音楽を辞めるということは──ボンヤリとタバコの先端で揺れる煙を見ながら黒瀬は思う。音楽を辞めるということは、他人との繋がりを切るという結果に直結する。音楽で知り合った人間は、それなくしては今まで通りの関係性を保つことができないのだ。それほどに、音楽は他人との繋がりを深くしてしまう。
それは黒瀬とリンにも当てはまっていた。
結局、自分とリンの関係性もその例外ではなかったというだけの話だ。
ただし、よくよく考えてみればそれもそのはずだった。リンとはそれほど年が近いわけでもなければ、昔からの知り合いというわけでもない。ただアパートの部屋が隣同士で、たまたまギターを教えることになったというだけの関係性しかないのだ。音楽という繋がりがなければ縁が切れるのは当然の帰結と言えた。
しかし、少なくとも黒瀬はそう思ってはいなかった。具体的にどういった関係性だったのかと問われれば答えるのは難しかったが、とにかく、自分とリンの間には音楽以外の繋がりもあると思っていた。が、どうやらそれは自分の思い込みであったらしい。
三年──何も生み出すことなく、それほどの時間が流れたのだ。景色が過ぎ去りその果てに残ったのは、大きな虚と倦怠感だけだ。
来世はきっと蟻だな、と黒瀬は思う。きっといつまでも自分は悟りを開けない。
フゥと紫煙を吐いた黒瀬は、リンとまだ出会ったばかりの頃に思いを馳せる。
過去から習うのではない。過去をただ、どうしようもない後悔と共に振り返る。
夜の公園で黒瀬がリンにギターを教えると約束をした翌朝のことだ。その頃、ラブホテルでアルバイトをしていた黒瀬は完全に昼夜が逆転していたから、黒瀬にとって朝とはまだ深く眠りについている時間だった。
そんな朝、黒瀬の部屋にまるで機関銃を思わせるようなチャイムの連打音が鳴り響いた。弾丸の驟雨が降るようなその音に一も二もなく飛び起きた黒瀬は、遮光カーテンの隙間から朝の白い光が漏れているのを見て、それから携帯電話で時刻を確認してから盛大に顔を顰めた。朝の八時。こんな朝に誰が何のようで部屋のチャイムを連打しているのか。頭蓋骨の中で暴れているけたたましいチャイムの音に殺意を覚えながらベッドを出た黒瀬は、ドアの向こうにいるのが誰であろうと怒鳴りつけてやるつもりで玄関へ向かい、実際に「いい加減にしてくれ!」と寝ぼけた声で怒鳴りながら玄関のドアを開け放った。
そこには昨夜公園でギターを弾いていた不良少女のリンがポケットに手を突っ込んで立っていた。背中には安っぽいギターケースを背負っている。人を暴力にも近しい音で叩き起こしたというのに、実に業腹な態度だった。
「よっ」と不良少女のリンが悪気もなく気さくな表情で言う。
「よっ──じゃねえよ」寝癖だらけの頭を掻きむしって黒瀬は言う。「いま何時だと思ってんだ。八時だぞ」
「普通の人は起きてる時間じゃねえか」
「世の中には色々な事情の人間がいるんだよ」皆が皆、日の出ている内に働いている訳ではないのだ。「それに今日は水曜日だ。お前は学校だろ」
「学校なんて行かなくても構わねえよ」
それ以上の会話をするのも億劫だった黒瀬は、言葉の代わりに盛大なため息を吐いた。まるで身体が萎んでしまうように感じられるほど盛大なため息だった。「お前が学校に行こうがなんだろうが俺には関係ない。俺はいますごく疲れてるし、眠いんだ。来るなら夕方以降にしてくれ。わかったな」そうまくし立てるように言って、黒瀬は容赦なく玄関のドアを閉めた。
夕方、既に起きていた黒瀬は部屋の片付けを済ませたのち、リンがやってくるまで虚ろな目をしながら画面を睨み、手にはコントローラーを握りしめてテレビゲームをしていた。やがて、朝と同じように耳を劈くようなチャイムの連打音が響き、黒瀬はコントローラーをベッドの上に放り投げて玄関へ向かった。
「インターホンを連打するな!」そう怒鳴りながら黒瀬は玄関ドアを開け放った。そこには、安物のギター用ソフトケースを背負ったリンが立っている。
「よう、来たぜ」
「次、ウチのインターホンを連打したら二度とドア開けないからな」
「悪かったって」そう言うリンの表情には、やはり朝と同じく一切の悪気はなく、反省の色もなかった。傲岸不遜なガキだと黒瀬はため息を吐いた。次に来るときもコイツはインターホンを連打するだろうし、きっと俺がドアを開けるまで止めないに違いない。
「それで」とリンが言った。「スタジオにでも行くのか?」
「行かねえよ。基礎の基礎を教えるくらいなら俺の部屋で十分だ」
「それならよかった。ギター買ったせいで金がねえんだ」
「学校は行ったのか?」
「行ったよ」とリン。「どうせ家に居たって暇だしな」
「ふうん。──ま、入れよ。寒いだろ」
「うい」言って、玄関に上がり込んだリンは薄暗くて短い廊下を抜け黒瀬の居室に入る。他人の家に招かれるのはリンにとって初めての経験だった。というのも、その昔たった一人だけいた友人を除けば、リンには友人がいた経験がなかったからだった。だから、幅の広いデスクや、高性能そうなパソコンや、大きな回転椅子や、音楽に使うのであろう様々な機材や自分の背丈よりも大きな本棚は今まで全く縁のなかったもので、まるでリンは飼われて初めて家に連れてこられたペットのように落ち着かない気持ちになった。
「ボケッとしてんな」黒瀬は部屋の隅からスツールを一つ持ってきてリンに渡し、自分はいつもの回転椅子に座ると「さっさと始めるぞ」そう言った。
リンは少しどもりながら「おう」と返事をし、渡されたスツールを床に置いて座る。
「で、どこから教えれば良い?」
「チューニングから教えてくれ」
「わかった」と黒瀬。「じゃ、まずは自分でチューニングしてみな」
リンは頷いてギターを取り出し、言われた通りにチューニングを始めた。六弦から一弦へEADGBEと音が揃ってゆく。特に問題はなかったので、次にリンがどこまで弾けるのかを試すために、教本に載っているソルフェージュを弾かせてみることにした。
「アンプの使い方はわかるな?」
「シールド挿して、電源入れればいいんだろ?」
「そう。抜く時は電源を切ってからにしろ。アンプが壊れる。シールドはそこにあるのを使って良い。あとで巻き方も教える」
リンは頷き、セッティングを済ませて黒瀬の言うとおりに教本のソルフェージュを弾いた。性格故か緊張はしなかった。むしろ、自分のものよりも数段いい機材を使っているせいか、いつもよりも巧く弾けている気がした。
そうして一通り弾き終わった後で「思ったよりできてるな」、それが黒瀬の感想だった。
「マジで?」
「さすが真冬の深夜に外で練習してるだけある」と黒瀬は皮肉げに言った。「そしたら次はストロークだな。今のままだと、まだ鳴りが甘い。瞬間的に六本の弦を鳴らすんだ。こう、ジャッっと。あとは、コードチェンジをもう少し素早くできるように練習すればいいんじゃないか」
「わかった。他はなんかないのか?」
「今はそれだけでいいよ。あんま急いで詰め込む意味もないしな。それより、なにか弾いてみたい曲とか、好きなバンドとかないのか?」
「うーん」とリンはうなった。「好きなバンドはあるんだけど、なんていうかな。誰かの真似っていうよりかは、こう──アタシの中で持て余してる感情……みたいなものを表現してみたいんだ」でも、とリンは続けた。「そうだな、レッド・ツェッペリンとか、エリック・クラプトンとかはカッコいいと思うし好きだよ」
「へえ……意外にいい趣味してんな」
「レンタローはどういう音楽が好きなんだ?」
「ナンバーガールが一番好きかな。俺は」
「日本のバンドか?」
「そう。もうずっと前に解散しちまったけどな」黒瀬が高校生の頃、絶頂時に突如として解散したバンドだった。黒瀬をロックンロールの道に引きずり込んだのはジミ・ヘンドリックスでもカート・コバーンでもなく、ナンバーガールだった。ギターの、割れたガラスの鋒のように限りなく透明に近い音は黒瀬の青春の音だった。「間違いなく、俺が一番好きなバンドだ」
「へえ。聴かせてくれよ」
「いいけど……」そう言って椅子から立ち上がった黒瀬は『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態』をCDラックから引き抜いてリンに渡した。「家で聴けよ。ヘッドホンで音楽聴いてるくらいだ。CD再生できる環境はあるよな?」
「まあ、一応」
「CDはまた次来たときに返してくれれば良いから」
「わかった」CDを受け取ったリンは、それをギターケースの中に仕舞った。「それでさ、ピッキングもそうなんだけど、弾けるヤツのを一度見て参考にしておきたいから、レンタロー、ちょっと弾いてみせてくれないか?」
「じゃ、ちょっとギター寄越せ」
「自分の使えば良いじゃんかよ」
「いいから」そうしてリンからギターを受け取った黒瀬は、馴らすようにして適当なフレーズをいくつか弾きながら、ノブとスイッチを弄って自分好みに音を調節してゆく。「そういえば、このノブとかスイッチの意味ってわかってるか?」
「そこ捻れば音が出るってことくらいしかわかんね」
「ここがスイッチだ。手前側に倒すとリア・ピックアップ。つまり後ろの方にあるピックアップで拾った音が出力される。トレブルに寄った、硬い音が出る。奥手側に倒すとフロント・ピックアップ。リアとは逆のほうにあるピックアップで、甘い音を出したいときに使う。そして、真ん中がリアとフロントのブレンドされた音が出る。テレだと、基本的に使うのはフロントかセンターだな。リアだとキンキンしすぎる。……で、ノブだ。捻れば音がでかくなるほうがボリューム。もう片っぽがトーンで、これを上げるとキラキラした音になる。高いギターになればなるほど、ここら辺の効きが良くなってくるし、ブランドによって特徴が出てくる」
「ふうん」
「ま、そこら辺は使っていけばそのうち分かるようになる」そう言って、黒瀬はほとんど手癖のようなフレーズを弾いた。そんな黒瀬の姿を、リンは食い入るようにして見た。目の前で何気なく行われていることの全てが、自分にはできないことだった。コードチェンジもままならなければ、ピックもまだまだ巧く使えないし、知識もない。しかし、その全てを黒瀬は持っていた。憧れないわけにはいかなかった。
その日から、リンは毎日のように黒瀬の部屋にやってきた。そんなリンに、最初こそは呆れていた黒瀬だったが、回数を追うごとに段々と気にならなくなっていった。まるで夏の日に暑さを凌ぎに実家の縁側の影にやってくる猫を相手にしているような──そんな気分だった。ギターの練習をしているリンをよそに、黒瀬はヘッドホンを付けて打ち込み音源を作ったり、曲のミックスをしたりしていれば、リンの存在は大して気にならなかった。
しかし、それよりも特筆するべきは、ギターの上達速度だった。黒瀬が指摘した点は一週間と経たずに改善されていたし、コードも曲も次々に覚えていった。
やがてリンが黒瀬の部屋に入り浸るようになって一年が経つと、リンの受験勉強を黒瀬が教える、というようなこともあった。「ロックンロールに学歴なんて関係ない」などといけしゃあしゃあと宣っており、中学校の成績が平均を大きく下回っていたリンだったが、黒瀬による集中的な詰め込みのおかげで、なんとか平均より少し下の高校に合格することができた。受験日や、合格発表の通知が家に届いたときなどは、リンよりも黒瀬のほうが緊張していたくらいだった。
リンが高校へ入学する頃になると、音楽について黒瀬が教えるようなことはほとんどなくなっていた。時折、スラップやタッピングについて質問されたり、作曲で打ち込みをしているときに、操作方法や表示されている単語の意味などを訊かれるくらいだった。
そうして、黒瀬とリンが出会ってから二回目の夏が訪れた。
黒瀬は売れない二十七歳のバンドマンで、相変わらず彼女は居らず、フリーターだった。
その頃からだった。これまでの自身の活動に対して疑問を持ち始めたのは。
売れる、売れない。そんなのは二の次で、聴いてもらえれば万々歳。そういったオルタナティブ・ロックに対する考えが、自らの才能に対する言い訳に過ぎないのではないかという考えが鎌首をもたげ始めた。
他人にとって価値のあるものだけに芸術性は宿るのだろうか。そんなことはない。大多数の他人にとって価値のないものでも、自らの哲学を形にして発信するということは大いに価値のあることだ。発信し続ける限り、たとえ少数でもそれを受信してくれる人間はいる。しかし、現状でなにも手応えがないのは確かだった。自分の表現がどこに届いているのかわからない。だから、そもそも誰かに届いているのかすらわからない。それは、なにもない暗闇に向かって吠え続けているだけの無意味な行為となにが違うのだろうか。
そうこうしている間にも友人たちは出世し、結婚をして家庭を築き、気が付けば黒瀬は時間の流れの中に取り残されていた。もはや腐肉のようになったモラトリアムの幻想を抱き、そこから一歩も踏み出せていないまま。焼けつくような焦燥感や劣等感は焦げ付いて影となり、黒瀬の行く先にいつだってつきまとった。
そうして曲が書けなくなった黒瀬は、音楽に対して冷めた見方をするようになっていっただけでなく、より穿った厭世的な思考をするようになっていった。
そんな中の出来事だった。
「なあ、レンタロー」その日もいつものようにリンが部屋に来ていた。とはいえ、高校へ入学した途端にアルバイトを始めていたので、リンが黒瀬のところに来る頻度は以前よりぐっと減っていた。
「なんだよ」
「いつかアタシが作った曲で、ギター弾いてくれよ」
「……ああ」黒瀬は頷いた。その時はまだ、それも悪くないかもなと楽観的に思えるくらいには余裕があった。「お前の作った曲がカッコよかったら弾いてやるよ」
「よっしゃ! 約束だからな。やっぱやめたとかナシだからな」
「わかったよ」と黒瀬は苦笑しながら答えた。
それからも色々なことがあった。
リンが本を読みたいと言い出したり、友人が新人賞を獲ったりした。会社でのキャリアを元にベンチャー企業を立ち上げた友人もいた。気がつけばリンは自分よりもギターが巧くなっていて、その暴力的とも言えるほどの才能を表し始めていた。人々は、自分の知らない場所で自分が想像もできないような努力を重ねていた。そして自分は気がつけば追い越され、追い越す努力もできないまま同じ場所に立ち尽くしていた。カート・コバーンのように死ぬことも出来なければ、リンや大学の同期や友人たちのように進むこともできない。
そうして、いつの間にか二十八歳になっていた。
努力も、理解も諦めた。ただうろんなだけの、二七歳の終わり。
唯一の自己表現の手段であったロックンロールは手放し、ろくな仕事もせず、言い訳と劣等感の中へ澱のように沈んでゆくだけの日々。
◆ 1─8 夜の怪物
黒瀬が音楽に冷めていたことなど、とうに分かっていたことだった。いつの間にか交わした約束は時候になってしまっていて、黒瀬と音楽がやりたいという些細な夢は知らぬ間に叶わぬものとなってしまっていた。
あれから、一週間あまりが経つ。
季節は梅雨へと入った。嫌な季節だ。ギターのネックは反るし、彩度を奪われた空はいつでも仄暗い。黒瀬の顔はあの日から一度も目にしていない。そもそも生活する時間帯が違うのだから、会おうと思わなければリンと黒瀬が顔を合わせることなど滅多にない。
毎日が鬱屈としていた。
──本当にこれで良かったのだろうか。
あの日、とリンは思い返す。自分は決定的に間違った態度を取ってしまったのではないだろうか。音楽を辞めるか続けるかは個人の自由だし、もっと、不器用なりに何かやりようがあったのではないだろうか。
仲直り、という平和惚けした幼稚な単語がリンの脳の表層に上がってくる。が、今まで友達も居らず、喧嘩と言えば売られて買って殴り合うようなものしか経験のないリンには、どうすれば黒瀬と今まで通りの関係に戻れるのか見当もつかなかった。
リンはため息を吐いてピックを弦の間に挟み、ギターをスタンドにかけた。考え事ばかりが頭の中に渦を巻いているせいで、曲を書くどころかギターの練習にすら身が入らない。ただ手癖を無意識に繰り返す時間は虚しさが積もるばかりで何の意味もない。
結局、母親が再婚する話をできていなければ、二週間後には引っ越しをする話もできていなかった。つい数日前には母親の再婚相手である男との挨拶も済んでいるのだ。このままいってしまえば、黒瀬と自分の関係はこれで終わりになってしまうだろう。
このままではダメだ、とリンは思う。しかし、どうすればいいのかもわからない。素知らぬ顔でまた部屋に行って、なにもなかったように振る舞えば案外どうにかなるかもしれない。が、不器用なリンには無茶な話だった。それならば、謝ればいいのだろうか。あの時は悪かったと言えばいいのだろうか。それは納得がいかない。そもそもそれは解決ではない。
考えていると腹が減る。ふいにラーメンが食べたくなった。
時計の針は夜の十一時を回っていた。寝て空腹を誤魔化してもよかったが、夜中に食べるラーメンの味を考えると我慢ができなかった。窓を開けて顔を出してみると、さっきまで津々と降りしきっていた雨は止んでいた。空気中の埃を洗い流され熱を奪われた夜気は、湿気こそ多いが部屋の空気よりかは澄んでいた。気分転換をするのにちょうど良い時分だ。それに、考え事というのは歩いているときのほうが捗るというものだ。
リンは部屋着から外行きの服に着替え、スニーカーに足を突っかけてアパートの部屋を出た。
玄関ドアを開けて共通廊下に出る。ふいにタバコの臭いが鼻先を流れる。反射的に顔を上げると目の前には錆びた欄干にもたれ掛かってタバコを吸っている黒瀬がいた。不意打ちのようにして二人の視線がぶつかる。
刹那、互いに言葉を失った二人の間に沈黙が横たわる。
咥えタバコのまま黒瀬が言う。「奇遇だな」
「ああ……」咄嗟に目を逸らしてリンが言う。上手く言葉が出てこなかった。リンはままならない自分の心に手を焼きながら、やっとの思いで言った。「久しぶり」
「どっか行くのか?」リンがなにか言おうと口を開いた矢先に、黒瀬が言った。
「ラーメンでも食ってこようかなって」それから、数瞬の逡巡の末にリンが言う。「……今日はもう飯食ったのか?」
「まともな飯なんてここ最近食ってないな」そう言って黒瀬が笑う。シニカルな笑みだった。そこでやっとリンは黒瀬の様子に気が付いた。黒瀬の顔を最後に見たのは一週間前だったが、その時よりも明らかに痩せていた。そう思えば、いつも通りに見えた黒瀬の姿が急に病的に目に映った。顔色は悪いし、その双眸は明らかに落ち窪んでいる。
「……大丈夫か?」流石に心配になってリンが言った。
「大丈夫だよ」と黒瀬。
「なあ、本当に死にそうな顔してんぞ。マジでいつから飯食ってないんだ?」
黒瀬は力なく笑って言った。「忘れちまったよ。いつまでが今日で、いつからが明日からなのか。仕方ないんだ。こんな生活をしてるとな」
「……」
「……なあリン」
「なんだよ」
「お前が作った曲、聴いたぜ。渋谷のハチ公広場のとこでさ」
「見てたのかよ」
「ああ……」
「でも、そうならそうと、なんで声かけてくれなかったんだよ」無意識に棘のある言い方をしていた。「そんなにアタシの曲、ひどかったか?」
「いや、なんて言うかな」黒瀬は可笑しくて仕方がないという様子でくつくつと喉で鳴らすようにして笑った。項垂れるようにして俯いているのと、長い前髪のせいで黒瀬の表情は窺えなかった。それから一頻り笑った後で、黒瀬は突然黙り込んでしまった。
だらんと下げた黒瀬の指が挟むタバコから、一塊の灰が落ちる。
「おい」不気味な沈黙に耐えられず、リンが口を開く。「なんなんだよ……」
それから深いため息を吐いた黒瀬は、ひどく落ち込み、奈落の底を思わせるような暗い声で言った。「聴いて……いられなかったんだ」
「それってどういう──」
「──そのまんまの意味だよ」リンの問いに黒瀬の声が被さる。「お前の曲を聴いて、俺にはあんな曲は作れないなって思った。それくらい良い曲だったし、俺には才能もセンスもないなって思い知らされた。だから、聴いていられなかった。簡単な話だろ?」独白するようにそう言って、黒瀬は欄干に凭れるようにして座り込んだ。その姿はまるで羽を毟られた蜻蛉のように痛々しい。黒瀬は続けて言った。「正直、死にたくなったよ。お前に嫉妬してる俺も、才能とか音楽を言い訳にして現実から逃げ続けてる俺も、もう本当に嫌なんだよ……」
「……なあ」
「俺はさ、お前が怖いんだよ。お前を見ると俺はもう終わっちまったヤツなんだなって思っちまうんだ。なあ、見たことあるか? 夢の中でおっかないヤツが後ろから追っかけてくるんだ。俺は必死で走ってるつもりなのに全く前に進まないんだ。そんな気持ちになるんだよ」
「アタシが……」憶えず声が震えた。「アタシがアンタをそこまで苦しめちまったのか?」
「俺が勝手に苦しんでるんだよ。……頼むから、一人にしてくれないか」
「それは……できねえよ。今アンタを一人にしちまったら、アンタと二度と顔を合わせることができなくなるような気がするんだ」あるいは、一瞬でも目を離した隙に、自分の手の届かぬどこか遠い場所へと行ってしまうような気がした。「アタシは……知らなかったよ。アンタがそこまで……弱ってたなんてさ」それに、黒瀬が惨めさに打たれて葬家の犬のように落ち込むなど今まで考えもしなかった。一方的に、黒瀬は誰よりもタフなのだと思い込んでいた。「アタシは、なにも分かってなかったんだな……」
「俺は一人になりたいんだ。頼むよ……」
「アンタを一人にはできない」
「頼むから……」
「一人になってどうするんだよ」
「……」
「アタシはアンタが──」
「……探しに」ぼそりと黒瀬が呟いた。
「あ?」
「探しに行くんだ」黒瀬ははっとして顔を上げた。
「何を」
「夜の怪物を」それから、黒瀬は焦点の定まらぬ双眸でリンの顔を見上げた。その瞳は、直視すればその深淵に吸い込まれてしまいそうなほどに空虚だった。「──夜の怪物を探しに行くんだ。マーシャルの悲鳴を、ブルースドライブの刃物を──食われた俺の一部を奪い返しに」 そんな譫言を術祖のように呟いたかと思うと、立ち上がった黒瀬は幽鬼のような足取りで202号室へと入っていった。リンもその後を追って黒瀬の部屋へと入って行く。
玄関の敷居を跨いだ瞬間、ヤニとアルコールが混じった臭いがリンの鼻をつき、思わず呻いて息を止めた。
窓からの月明かりと、街灯の光に照らされた室内は狂気的なまでに荒れ果てていた。
散乱した空き缶。灰と吸い殻が溢れた灰皿。一週間前のファミチキは机の上で腐って異臭を放ち、床の上はゴミと脱ぎ捨てられた服で踏み場がなかった。
その中で窓際のスタンドに立て掛けられ静謐な月の燐光を纏ったジャズマスターだけが、なににも犯されることなく毅然としてそこに在った。それは祭壇だった。何者にも汚すことのできぬ、黒瀬の祭壇。それに惹かれるようにして、黒瀬はギターの前へと歩んでいった。
「コイツが……」その呟きは、すぐ後ろにいたリンですら聞き取れないほど儚かった。
黒瀬がスタンドからジャズマスターを取り外す。薄く積もっていた埃が舞い、燐光が散る。
「……探しに行くのか?」とリンが問う。
黒瀬は何も言わずに、ギターをケースに仕舞い、次いでエフェクターボードからブルースドライブを毟り取ってケースのポケットに突っ込んだ。その横顔から垣間見た黒瀬の瞳は、さっきとは一転してギラギラと輝き、一種異様な雰囲気を纏っていた。
リンは急いで部屋へと戻り、テレキャスターを準備した。部屋を飛び出すと、黒瀬はもう秋葉荘の階段を降り始めている。
「なあ、どこ行くんだよ」黒瀬に追いすがるようにしてリンが言う。
「まずは怪物を倒さないと」
「本当、どうしちまったんだよ……」悲痛な声音でリンが言う。黒瀬は構わず夜道を歩き続けた。住宅街を抜け、寂れた商店街を通る。歩を進めるごとに危うくなって行く黒瀬の足取りと、情けないほどに丸まった背中をリンは追いかけて行く。
ただひたすらに、訳も分からず歩いていた。
さっきまで秋葉荘の廊下でリンと話をしていたような気がしたが、記憶が曖昧なせいでそれが現実なのか妄想なのか判別が付かなかった。最近はずっとこんな調子だった。時間があまりにも不連続的に過ぎて行くせいで、現実と妄想の区別がつかなくなっていた。いま夜道を歩いているという状況も、前後の関係性があまりにも希薄で現実感がなかった。
いずれにせよ──これが現実にせよ妄想にせよ、どうしてこんな夜中にギターを背負って歩いているのか朦朧とする意識の中で考えた。自分が何かを探していて、どこかに行こうとしているのだということは分かっていた。そして、それは立ち止まっていては決して見つからず、辿り着かない場所であるということも分かっていた。
途中、後ろから「どこに行くんだよ」とリンの声が聞こえた。それは今まで黒瀬が自問自答し続けてきた問いであった。自分はどこに行こうとしているのか。否、どこにも行きたくなかったのかも知れない。モラトリアムの幻想の中にいつまでも引き籠もっていられたのなら、それほど幸せなことはない。寄り添うものもなく、自分で自分の面倒を見続けなくてはならない現実と向き合って行かなければならないのはひどく苦しい。
しかし、それだけではないはずだった。
本当は、もっと渇望していた場所があるはずだった。
ふいに夜空を仰ぐと、紫と灰色の混じり合った空の中天が小さく光り輝いていた。それは星でも航空機の光でもない。
月だ──と黒瀬は思い至った。いつだって俺は泥の中から月を臨み、いつしか月に至れるように手を伸ばし続けてきた。が、それを阻む者がいた。怪物だった。怪物は月へ至る梯子を破壊し、何もかもを喰らい尽くすと闇夜の深淵に消えていくのだ。
探していたのは怪物で、目指しているのは月だ。
怪物は都市に棲んでいる。矍鑠と光る無数の目を持ち、体毛は紫がかった黒で、都市に住まう人々の欲望や絶望を喰い、月への梯子を登ろうとする人間が現れれば容赦なく梯子を破壊して絶望へと貶めてその魂を糧とする。しかし、怪物の姿を見ることができるのは限られた人間だけだ。多くの人間はそこに怪物が存在していることにすら気が付くことができない。
今日しかない──と黒瀬は確信を抱いていた。俺の前に再び怪物が現れるなら今日だ。この巨大な絶望が怪物を呼び寄せる餌となる。
どこからどう移動したのかは憶えていない。
黒瀬はとうとう怪物の住まう街へと辿り着いた。
途中、何度もリンの声が聞こえた気がした。しかし、幻影とも知れぬ相手に構っているような余裕はないし、振り向くのはひどく億劫だった。
そこは新宿駅前だった。広場は沸騰したように人々が揺れ、喧噪が行き交っていた。王冠を持たぬ浮浪者。蜻蛉を待つ女郎蜘蛛。鋭い牙の代わりに色とりどりの髪を生やし、皮膚に模様を刻み込むことを憶えた草食動物。自分が二本足で歩く動物だった事を忘れてしまった哀れな獣たち。
人の街の中にあって、そこには異形が跳梁跋扈していた。
自分はまだ、ちゃんと人の形を保てているのだろうか。
ふいに目眩が黒瀬を襲った。都市の眩しさのせいだった。黒瀬は蹈鞴を踏んで、なんとか都市のアスファルトの上に立つ。気を抜けば倒れるか、獣へと墜ちてしまいそうだった。
黒瀬は淫靡に紫がかった夜空を仰いだ。
怪物の矍鑠たる目が黒瀬を狙っていた。
「今日こそは返してもらうぞ……」
怪物が獰猛に喉を鳴らしていらえを返す。
瞬間、都市の全てが自分の敵に回るのを黒瀬は直感した。
「返せよ……」モノリスに切り取られた小さな夜空に向かって黒瀬が呻る。「俺の──」
その時、アスファルトの地面が泥と化した。怪物が黒瀬を飲み込もうとしていた。たまらず身体のバランスを失った黒瀬の身体が仰向けに倒れる。
傾く視界と、混濁する意識。刹那、黒瀬は狭い夜空に浮かぶ小さな月へと手を伸ばす。が、届くはずもない。既に梯子は破壊されてしまっていた。泥が黒瀬を飲み込むその瞬間、怪物が嗤った。そのまま死ぬまで苦しめと。
無感動な諦念と共に、黒瀬はその嘲笑を甘んじて受け入れた。それほど泥は温かく、柔らかい。黒瀬は為すがまま泥の中へと身を沈めていった。
倒れ行き、意識が途切れる寸前、どこか遠くの方で自分の名前を呼ぶ少女の声を聞いたような気がしたが、もはやそれが誰なのか黒瀬には分からなかった。
◆ 1─9 鬼哭啾々、雨の声
白いな──目を覚まし、真っ先に思い浮かんだ感想がそれだった。白いのはトラバーチン模様の天井だった。それから一瞬遅れて、自分が今病院のベッドで寝ているらしいと自覚する。手首には点滴の針が刺さり、頭には包帯が巻かれていた。
半身を起こして分厚い遮光カーテンを開けた。窓の外では雨が降っていて、病院の中庭が俯瞰できた。正面には病んだように鄙びた別棟の外壁。見下ろすと所々が禿げた人工芝に、誰も座っていないベンチが四つ雨に濡れている。一階の渡り廊下を看護婦が病人の車椅子を押しながら歩いているが、項垂れた病人は自分の内側を見るのに精一杯で陰鬱な病院の中庭など見向きもしない。
ふいに病室の引き戸が開く音がして振り返る。
制服姿のリンが立っていた。跳ねた金髪の先が雨に濡れている。
「……よう」微妙な間の後、青い目を伏してリンが言う。
「……リン」
「アンタ、昨晩ぶっ倒れたんだぜ」
「俺は……」
「栄養失調だってよ」
「なんで……」
「──怪物は見つかったか?」そう言ってリンが青い目を黒瀬に向ける。
「怪、物……」そう言えばそうだった──と黒瀬はようやく思い至った。何もかもが朧気で現実感はなかったが、あの夜、自分は怪物を探しに行ったのだ。
「……なあリン、怪物ってなんだと思う」
「知らね」
「だよな」そう言って黒瀬は虚ろに笑った。怪物が何かなんて、黒瀬以外の他人に理解できるわけがなかったし、わざわざ怪物とは何かなどと野暮なことを語る気もなかった。
「それじゃ……アタシ、もう行くよ」
「ああ……」それから、踵を返して部屋を出て行くリンの背中に言った。「悪かったな。色々と迷惑掛けて」
リンは何も言わずに去って行った。足音が静かにリノリウムの床を鳴らす音を黒瀬は茫洋とする意識の中で追った。
退院は翌日だった。黒瀬自身、病院という場所が好きではなく、何日も入院していられるほどの金銭的余裕もなかった。検診の際に勧められたカウンセリングも断った。まさか自分が何かの精神疾患を患っているとは思わなかったし、そう医師に思われていることが不快で仕方がなかった。
入院の費用に関する書類を持たされ、倒れていたときに持っていたというジャズマスターを渡されて病院を出た。それだけが荷物だった。財布もなければ、身分証もない。きっとリンがいなければ事態はもっと面倒なことになっていただろう。唯一の救いは、病院から秋葉荘までの道程が歩いて帰ることのできる距離だったことだった。
相変わらず外では雨が降っていた。
秋葉荘への帰り道で様々なことを考えた。
錯乱の最中に見た数々の妄想。リンの言葉。ロックンロールと劣等感。意識を失う寸前、遮二無二伸ばしたの手は何も掴むことができなかった。得ることができたのは憐憫を帯びたリンの青い眼差しと、狂乱の後に残る虚しさと現実だけだ。
いっそ、点滴など打たず、干からびるように殺してくれればよかったのだ。
秋葉荘に着いて部屋のドアを開けるとひどい臭いがした。ゴミや服を蹴散らすようにして部屋を進んで行き、窓を全て開け放った。ギターを適当な場所に置いて、目についたモノを片端からゴミ袋に入れた。空き缶、弁当やカップラーメンの容器、汚れた服、絡まったコード、雑書類、それからシンクの中の食器。四十五リットルのゴミ袋が三つできあがり、黒瀬はそれをベランダへ放り投げた。
充電ギリギリの携帯には夥しい程の着信が来ていた。全てアルバイト先からで、誰も自分に用などないのだとつくづく思い知らされる。なんにせよ、今ごろアルバイト先に連絡をしたところで首を切られるのは目に見えていた。黒瀬は携帯を放り投げ、静かに息を吐いた。
これで晴れて無職になった。──清々したような、それでいて紛いなりにも地に着けることができていた足が離れてゆく浮遊感に不安を覚えたが、生活を変えてみるいい転機だと捉えればすぐにそんな不安も消えた。そもそも、と黒瀬は思う。この先も生きていくという選択をすること自体が間違いなのかも知れないが。
ギターをケースから出してみると、ネックが折れていた。倒れたときに体重を掛けて折ってしまったのだろう。なんとか首の皮一枚は繋がっているといった体だったが、こうなってしまってはネックを替えない限り使い物にならない。
このままゴミに出して処分しよう──無感動にそう思った。どうせもう弾かないのだ。大枚叩いて修理する意味もない。ネックが生きていればまだ価値はあったが、これでは売ってもジャンク扱いで大した値段にはならないだろう。そう思ってベランダのゴミ袋の中に突っ込むようにしてジャズマスターを捨てた。なんの感情も湧き上がってこなかった。
全て捨て終わった後で、著しく解放感が湧き上がってくるのを自覚した。表現することを捨てるだけでこんなにも気持ちが軽くなるなど、今までの自分では想像も付かないことだった。むしろ、なぜ今まで音楽に執着していたのか。別に、表現などなくても楽しく生きていく術は幾らでもあるではないか。
それから、コーラとパンを買うために近所のコンビニへと出かけた。仄暗い空から落ちてくる雨は細くて柔らかく、街を優しく静かに濡らしていた。もうすっとこんな日が続いている。昨日と今日の境目が曖昧になったと思えば、今度は昼と夜の境界線すら曖昧になってしまいそうだった。
これからどうしようか──黒瀬は考える。まずは新しい勤め先を探さなければいけないだろう。それができなければ死ねばいい。あるいは、僅かな貯金を使って秋葉荘の部屋を引き払い、実家に戻ってゆっくりと体勢を立て直してもいい。もうここ数年の間、家族の顔など見ていなかったからちょうどいい機会かも知れない。もし、そうすることになれば東京に戻って来ることは二度とないだろう。この街の騒擾や雑多さを黒瀬は気に入っていたが、生きて行くには窮屈な場所すぎた。そうなれば、リンと会うこともなくなる。
クソ野郎──静かな雨音を縫って、リンの言葉がリフレインする。それから、あの憐憫を帯びた碧い双眸が。
結局、なにもかもを壊してしまった。約束や信頼、果ては生活に至るまでの全てを。そして今、自分はそんなものたちの瓦礫の上に立っていて、後片付けをしないまま逃げて行こうとしている。
行く先の道、茶トラの野良猫が雨宿りもせずにブロック塀の上を歩いていた。毛の濡れて痩せた野良猫は見るからに惨めだった。コイツとなら仲良くなれるかもしれないな、そう思って黒瀬は傘を差し出そうとするが、野良猫は拒絶するようにして塀の向こう側へと逃げていった。
「……なんだよ」そんなに邪険にすることないだろ、心の中でそう毒づく。
レインコートを着た郵便配達員が、黒瀬の真横をカブで通り過ぎていく。
……本当に、これでよかったのか。
押し寄せてくる感情があった。それはアルバイトや音楽という軛から解放されたときの、あの奔放な気持ちではなかった。押し寄せてきたのは不安や後悔だった。
雨の降りしきる中、黒瀬は野良猫の立っていたブロック塀の前から動けなくなった。
無価値なゴミのように袋に入れられ、雨に降られて死にゆくジャズマスターの姿が、リンのギターの慟哭が、ここで過ごした生活の全てが頭から離れなかった。本当にそれは自分を苦しめただけだったのか。
わからなかった。もう音楽を続けたって空しいだけだし、リンと関わったところで苦しいだけだとわかっているのに、なぜいつまでも手放すことができないのか。あの日々が、愛おしかったとでも言うのだろうか。
考えているうちに、解放感は徐々に反転していった。代わりに生まれたのは、自分に対する怒りと後悔だった。
なぜ、自分の感情ですら侭ならないのか。
「クソ……」顔色を変えた黒瀬は傘を投げ捨て、来た道を全力で引き返した。水溜まりも構わず踏み抜き、秋葉荘へと駆けて行く。「俺は──」
自分は何をやっていたのだろう。
夢から醒めたような気分だった。
劣等感と焦燥感の果てに錯乱し、妄言を吐き、終いには自暴自棄になって全てを破壊し、瓦礫の山に立ってニヒリズムに浸っている──そんな自分の像に、吐きそうなほど強烈な嫌悪感が込み上げてきた。
今まで、音楽が自分を裏切ってきたのだと思っていた。が、それ以前に音楽を裏切ったのは自分だったのだ。月の梯子を破壊したのも、掻き消されてしまった慟哭も。怪物は自分自身なのだと、実はずっと気が付いていた。分からない振りをしていた。そうすればいつまでも言い訳を並べて惰性の中で甘えていられるのだと知っていたからだ。
しかし、徐々に募っていった焦りが劣等感を生み、いつしか自分が分からない振りをしていたことを忘れてしまっていた。原因の全てを、才能や自分の作り出した怪物に押しつけていた。嘘を吐き続けていると、それがやがて真実になってしまうように。思い込みが一つの世界を蝕んでいくように。自分が作り上げた妄想の怪物に怯えてしまうように。
秋葉荘の自室に戻った黒瀬は、急いでゴミ袋からジャズマスターを取り出し、丁寧に水気を拭き取った。ネックが折れたのなら直すだけだ。才気がないのなら、足掻くだけだ。劣等感や焦燥感で押し潰されそうになっているのならそれも好機だ。腐って時化らせてしまう前に、その感情を音楽にして嘆いてやれば良い。
オルタナティヴロックは、まだ死んでいない。
売れる、売れないは二の次だ。音楽は他人のために在るものではない。他でもない自分自身の衝動や思想を形にする為に在るものだ。他人が付ける価値に振り回された瞬間、オルタナティヴロックは死ぬ。
そんな簡単なことを、今まで忘れてしまっていたのか。
いつしか、泥より出で月に向かって美しい華を咲かす蓮になることができれば、陽炎も雷も水の月も掴むことができるかもしれない。
まずは一曲。それからリンに会って約束を果たそう。
話はそれからだ。
◆ 1─終
いよいよ引っ越しの日が近づいてきていた。
元から物が少なかった部屋から更に物が減り、代わりに段ボールが壁際に積まれている。
「……意外に、広かったんだなこの部屋」部屋を見回してリンが呟く。
五日後には秋葉荘を引き払い、別の家に住んでいることを考えると、その不連続性のせいかいまいち現実味がない。
なんにせよ、とリンは思う。いい機会なのかもしれない。どのみち黒瀬との間には致命的なまでの隔たりが生じてしまっていて、ここに住み続けたところで互いに良い影響を及ぼさないことは目に見えていた。
「……いいさ、アタシだけでも上手くやっていく」そう呟いた言葉は、思いのほか弱々しく、どこからどう聞いても空元気にしか聞こえなかった。
自分だって、情けないのだ。
その時、玄関のドアからカラリと乾いた音を立てて何かが投函された。チラシにしては受け箱が立てた音は硬い。なんだろうかと思って箱を開けてみる。中にはCDが一枚。その表紙には、意外なほど達筆な字で『黒瀬連太郎』と記してあった。
そのCDがどのような意図でポストに入れられたものなのか。
リンは急いで引っ越しの段ボールに仕舞ったプレーヤーを取り出し、それにヘッドホンを繋いだ。ディスクの中に入っているのは『無題』の一曲だけで、それは未だリンの知らない黒瀬の曲だった。
この間の黒瀬の状態からして、それが新曲だとは考え辛い。そもそも黒瀬が倒れて入院したのは一週間前の出来事なのだ。かといって、黒瀬が過去に書いた曲だとも考え辛い。それならわざわざCDに焼いてポストに入れる意味などない。
では、この『無題』とは何なのか。
もしかしたら曲ではないのかもしれない。いずれにせよ、聴いてみれば分かることだった。
恐る恐る、プレーヤーの再生ボタンを押す。
果たして、ヘッドホンから流れてきたのは、未だリンの知らぬ黒瀬の新曲だった。
『着飾った退廃ばかり唄ってる世の中じゃ
生きる希望なんて どこにもない
なにもかもが忘れ去られて行く
ここに居場所なんて どこにもない
まるで一夜限りの恋人とダンスを踊るように
ヒーローは既に死んでいった
長い後日譚
ヘドニズム 黒い海に沈む
真っ黒に焦げ付いた夢や希望がただ重くて苦しいんだ
逃げ出せない
生きるためにだけ生きている そんな人生は苦しいだけ
夢が醒めた世界で藻掻くように息をしてる
腐った過去を抱いて眠るよ
いつかに見た朝焼けが俺の原風景で
夏の空の青と白んだ月
美しい思い出が俺を縛っていて
いつまでも過去を超えられないまま今を生きている
物足りない
ただ──色あせた過去 愛おしくて
灰を飲むように 波に揺れるように 雨が降るように
劣等感は強く
夜を仰ぐだけ 星に願うだけ 月を望むだけ
風が戦ぐように 少女が駆けるように また立ち上がれるように
陽炎を掴む
日々が愛おしいように この場所に居られるように まだ生きていたいんだ
無力なままでも……』
そうして四分弱の曲が終わり、CDの回転が徐々に死んでいく。
「……」オーバーフローした感情は、語る言葉を見つけられなかった。
しばらく余韻に浸るようにして動かずにいたリンだったが、やがて静かにヘッドホンを取り、倒れるようにして和室の畳の上に仰向けになった。頭の中で黒瀬の曲がリフレインして鳥肌が立ち、リンを震わせた。
「敵わねえな」やっとの思いでリンは呟いて、力なく笑った。「……アイツは、ウソつきだ」
才能もセンスもないだなんて嘘っぱちだ。終わっちまった人間だなんて自虐はあまりにも傲慢だ。そんな人間が人を震わせるほど力のある音楽を作れる訳がない。間違いなく、リンにとって黒瀬とは、ここで終わってはならない人間だった。
畳から起き上がる。
やっと感情の整理が付いた。リンは玄関を出て、202号室のドアの前に立つ。
言いたいことが山ほどあった。
202号室のチャイムが鳴った。
誰がやって来たのか想像はついていた。いつもの急かすようなチャイムの連打ではなかったが、リンがやって来たのだろう。
何を言われるのだろうか。
ベッドから起き上がった黒瀬は、のろりとした動作で玄関へ向かうとドアを開けた。そこにはやはりリンがいた。自分を見上げる青い双眸に、プリンになった金髪。「……よう」
「聴いたぜ」やおらリンが言う。「……よかったよ」
「それならよかった」腑抜けたような気の抜けた笑い。
「なあ、あの曲が最後とか言わないよな?」
「……」
「なあ、レンタロー?」
「……ジャズマスターのネックが折れてたんだ」と黒瀬が言った。それはリンの言葉に対する直接的な返答ではなく、黒瀬なりの婉曲的な前置きだった。「きっとあの夜、ぶっ倒れたときに折っちまったんだろうな。それで、色々考えたんだ。……なあリン、怪物って結局なんだったんだと思う?」
「そんなの……アタシには分からねえよ」
「嘘だったよ」
「嘘?」
「十把一絡げに言うとそういうことだった。嘘──それが怪物の正体だったんだ」
リンは困ったような顔で首を左右に振った。「やっぱりアタシにはよく分からない」
「実は俺にもよく分かってないんだ」
「なんだよそれ」
「ま、とにかく俺はもう大丈夫だって話だよ。色々と迷惑かけたな」
「……今度うまい飯でも食わせてくれよ。それでチャラだ」
「任せとけ」
「それでさ──」
「……ああ」リンの言わんとすることを察して黒瀬が答える。「俺、曲はこれからも作り続けるよ。俺の為に、俺が納得できる形でさ」
リンが顔を上げる。憑きものの落ちたような黒瀬の顔が目に映る。
「それで、もう一つ」黒瀬が続ける。「今さらかよって思うかも知れないし、散々やらかした後だからお前は俺に呆れてるかも知れないが……。俺、お前とバンドやるよ。これは約束っていうんじゃなくて、単純に俺の気持ちだ。だから、振ってくれても構わない」
「バカ。振るわけねえだろ」
「それじゃ、まずはバンドメンバー集めないとな」
「そうだな」とリンが頷く。「あの曲のギターも後で教えてくれよ」
「いいぜ。教えてやるからギター持って来いよ」
「ああ」そう言ってリンがギターを取りに201号室へと戻っていく。
ドアが閉まる音。
息を吐く。自分の身体が少しだけ震えているのが分かる。
タバコに火を点けた。ふと空を見上げてみると、ここ数日降りしきっていた雨はいつの間にか止んでいた。優しい雨に濡らされた街が、分厚い雲の切れ間から差し込む陽光に照らされて眩しく輝く。吹く風はまだ白南風には遠いが、向こう側の空は雲が払われて既に青く、夏がすぐそこまで迫っているのを感じた。
「もう、そんな季節か」そう独りごちる。きっと今年の夏も暑くなる。
やがてギターを持ったリンが戻ってきた。いつもの黄色いテレキャスター。久しぶりにスタジオ行こうぜ、そういうリンの声はいつもより数段弾んでいて、そこに黒瀬が優しく苦笑しながら答え、二人分の足音が重なる。
ズレる度にチューニングを合わせる。答えのない問いを思索し、名前の付けられない感情が増えていく。夢は薄れて時には傷跡になり、巡る血のように日々は続いていく。
他人の価値に振り回されないように。
嘘に踊らされないように。
過去に縛られて動けなくなることがないように。
伸ばした茎や葉が枯れようとも、球根が生きていればまた泥から這い上がれるように。
自分が納得できる形で自分の認めた価値や思想を表現し続けていくことが、自分の人生が認めた唯一の救いなのだから。
オルタナティヴロックは、まだ死んでいない。