7.メーと鳴くのはヤギか羊か
期末試験の結果が出揃い、7月も半ばを過ぎると梅雨が明けて本格的な夏が始まる。
平日のど真ん中である今日は、テスト明けの脱力感と厳しい暑さ、それに夏休み直前という要素が相まって、学校へ来てもまったくやる気が起きない。
そんな日の昼休みにおなじみの『五階』へ赴いた俺と澄恵は、「だるい」と「暑い」を連呼しながら、持参した団扇を片手に弁当をつついていた。
欲を言えば冷えたそうめんでも食べたいところだが、弁当を作ってくれる親に文句は言えまい。
と言うか、夏場にクーラーのないこの場所で弁当を食べること自体がキツい。真冬も似たような理由でここは使えないだろう。
明日からは我慢して教室で昼食をとることに決めた俺と澄恵は、とりあえず弁当をたいらげて自販機で買ってきたジュースをガブガブ飲む。
俺も汗だくだが、髪の長い澄恵はよけい暑そうだ。
なんとなく気を利かせて団扇で煽いでやると、黒髪をワサワサと靡かせた澄恵は「あぁ~(裏声)」と嬉しそうな奇声をあげる。そして、俺が手を止めると獣のように「うぅ~(低音)」と唸って威嚇を始める。
俺はそのギャップが面白くて、煽いでは止めるという行為を繰り返す遊びを続けていた。相変わらず澄恵の無邪気な言動には心がくすぐられる。
とまあそんなわけで、俺がメモ用紙を食べるという奇行に走ってから一晩が経ち、俺と澄恵の関係は一応いつも通りの状態に戻った。
あの時はかつてないほど気まずい雰囲気になったが、俺が壊れた機械のように謎の言い訳を繰り返していたら、そのうち澄恵も無理やり納得してくれた。
まあ、納得したと言うより、触れないことにしたという表現が正しいだろう。
俺は思いがけない衝動的行為で、人として大事な何かを失った気がする。
だが、あの奇行による恩恵もあった。
ドン引きした澄恵が昨日の件に触れなくなったことで、俺が書いたお願いの中身を追及されずに済んでいるのだ。
俺はプライドを犠牲にすることで、『ほっぺにちゅー』というクソ恥ずかしいお願いを闇に葬り去ることに成功した。
……しかし、本当にそれでよかったのだろうか。
当初の予定では『ちゅー』を要求することで、俺のことを澄恵に意識させるつもりだったが、何もなければ互いの関係は平行線だ。
仮に、メモ用紙を破棄せず『ちゅー』をお願いしていたら、澄恵はどんな反応を見せただろうか。
素直に応じてくれるか、渋々応じてくれるか、それとも全力で拒否するか……正直なところ、まったく想像がつかない。
俺と澄恵は驚くほど仲がいいが、澄恵が俺のことを異性としてどこまで意識しているかは未知数だ。
口では恋愛対象として見ていないと主張しているが、本当にそうなのだろうか。
そんなことを考えつつ澄恵を団扇で煽いでいると、ふと澄恵が困惑した様子で俺の顔を覗き込んでくる。
「カゲくん、どったの? なんか今日優しいじゃん。そんなにボクばっかり煽いでると疲れるでしょ」
確かに、普段の俺なら「自分で煽げ」と突っぱそうなものだが、あんまり暑そうにしている澄恵がかわいそうで、ついつい気を遣ってしまった。
すると、澄恵はいきなりスカートのポケットをまさぐり、くしゃくしゃになったレシートらしき紙を取り出して俺に差し出す。
「はいこれ」
「なにこれ?」
「煽いでくれたお礼。カゲくん、紙食べるの好きでしょ? 食後のデザートにどうぞ」
「わーいありがとーいただきまーす(怒)」
やけくそになった俺が奪ったレシートを口に含もうとすると、澄恵は慌てて俺の体に飛びかかって止めようとする。
「わーわー! 冗談だって! もう紙なんか食べなくていいから! お腹壊しちゃうから!」
そう言えば、昨日はメモ用紙を食べたが腹の調子は問題なかった。
世の中にはティッシュを食べたりシャンプーを飲んだりする嗜好を持つ者もいるらしいが、俺の胃腸はそこそこ頑丈らしい。
そんなことを考えているうちに澄恵は俺から無理やりレシートを奪い取り、どこか呆れた視線を向けてくる。
「カゲくん、そんなにお願いの中身見られたくなかったの? 別に紙なんか食べなくたって、変なこと書いてあってもネタとか冗談とか言ってごまかせばよかったのに」
ど真ん中ストレート級の正論だ。
仮に『ほっぺにちゅー』が露呈したとしても、澄恵の反応がかんばしくなければ、ネタだったと言い張って逃げ切れた気がする。
そうすれば「実は本気で『ちゅー』してほしかったのかも?」という含みを残しつつ、いつものように漫才的なノリで流すことができただろう。というか、間違いなくそうするべきだった。
しかし、今さら後悔しても遅いというものだ。
失敗は教訓とし、めげずに澄恵と距離を縮める作戦を考えていけばいい。そろそろ夏休みも始まるし、澄恵と二人きりで遊ぶ機会もあるだろう。
今回の件は、俺のネタレパートリーに『紙が好物』という属性が加わっただけだとポジティブに捉えよう。
「スミちゃん。最近の紙は薬みたいな味がするから食べないほうがいいゾ」
「食べないよ……それに、最近の紙って化学薬品とか使ってるから、ヤギが食べてもお腹壊すんだよ」
へえ、そうなのか。澄恵はおバカだが、動物のことには詳しいらしい。
俺は「メー」と鳴くのがヤギか羊かもわからない。
そういえば、澄恵は動物が好きだった。澄恵の家には昔から飼い犬と飼い猫がいるので、その影響もあるのだろう。
夏休みになったら、一緒に動物園なんかに行くのもいいかもしれない。まあ、俺に誘うだけの勇気があればの話だが。
と、そんなことを考えているうちに、昼休みもあと少しだ。
ここにいると暑いので、少し早めに戻るのもアリだろう。俺がそう提案しようとすると、先に澄恵が口を開く。
「カゲくんカゲくん。やっぱり、勉強教えてもらって何もしないの悪いから、ボクが肩もんだげるよ」
「いや、もうすぐ予鈴鳴るぞ……スミちゃん、あんまり長く肩揉みしたくないからってタイミング見計らってたでしょ」
「いや~そんなことないよ~」
なんとも白々しい返事だ。
しかも、こんな暑いところで肩揉みされても、さらに暑苦しくなるだけだ。マッサージをする気があるなら涼しい場所で背中でも押してもらいたいところだが、厚意を示す気があるのなら素直に受け取っておこう。
俺が背を向けると、澄恵は小さな手を俺の両肩に乗せる。
そして、不意に俺の耳元へ顔を近づけて静かにささやいた。
「これ、お礼だから」
その瞬間、俺の左頬に水っぽくこそばゆい感触が伝わる。
驚いた俺が振り返ると、すでに立ち上がっていた澄恵は階段を2、3歩下りていた。
「先に教室もどってるよ。それと、さっきのは本当にただのお礼だからね」
顔を見せずに背中でそう告げた澄恵は、俺にかまわずその場を去っていく。
それから俺は、澄恵に何をされたのか冷静に考えてみた。
どう考えても、あれは『ちゅー』だった。と言うか、視界の端に澄恵の顔が映っていたので、『ちゅー』で間違いない。
そうか、俺は澄恵に『ちゅー』されたのか。なるほど。
「えっ?」
それから、脳がオーバーフローを起こした俺は、予鈴が鳴るまでその場に立ち尽くした。
 




