5.景吉のお願い
澄恵との勉強会1日目が終わり、日を跨いで学校が終わってから2日目の勉強会が始まった。もちろん、会場は俺の家だ。
ちなみに、昨日は夕食時だけ澄恵を家に返し、それから九時くらいまで一緒に勉強を続けた。はやり二人で相互監視をしていると勉強がはかどる。
講師役である俺も自分の勉強をする時間は十分にあったので、かなり有益な時間になった。
そして2日目の今日は、勉強を始める前に勝った時のお願いを二人で決めるとこにした。
かわいらしいメモ帳を取り出した澄恵は、1枚を切り離して俺に差し出す。
「ここにお願い書いて、覗かれないように折ってからシールで閉じとこうよ。メモ帳とシールはボクのだから、これをカゲくんの家に保管しておけば工作できないっしょ」
澄恵にしては随分と手が込んでいる。まあ、こういう遊びは凝った方が面白いというものだ。
それはいいとして、メモ帳を手渡された俺は書く中身に困ってしまった。
昨日一晩考えてみたが、結局いいお願いが浮かばなかった。
正確に言えば澄恵にしたいお願いはいくらでも思いつくが、倫理感やプライド的にためらうものばかりだった。あまり攻めたお願いをしてドン引きされるのも本末転倒だろう。
そんなふうにして悩んでいると、俺に背中を見せてメモ帳に筆を走らせていた澄恵が声をかけてくる。
「カゲくん、もう書けた~?」
焦った俺は、悩んだ末に思いついた言葉を走り書きしてメモ帳を折る。
それから澄恵が向き直り、ローテーブルの上に中身の見えない2枚のメモ用紙が出揃った。
そこに澄恵がシールを張ることで封がされる。
すると、澄恵はおもむろに俺が書いた紙を手にとり宙にかざした。
「さてさて、カゲくんは一体どんないかがわしいお願いを書いたのかな~?」
慌てて紙を奪い取った俺は、2枚をまとめて鍵のかかる引き出しの中に淡々としまう。
紙の封が切られるのは、テストが終わったあとだ。
「これでテスト後の楽しみはできただろ。さっさと勉強始めるぞ」
「ほいほい~」
それから、俺と澄恵は揃ってローテーブルの上に教材やノートを広げ、勉強の準備を始めた。
その間に俺は、冷静になって先ほど紙に書いたお願いの中身について考える。
いやいやいや、どう考えても『ほっぺにちゅー』はおかしいだろ。
俺は、無難なお願いと攻めたお願いのどっちを書くか悩んだ挙句、なぜか『ほっぺにちゅー』などという7文字を書き殴っていた。
と言うか、『ちゅー』なんていかにもなお願いをしたら、澄恵のことが好きだと言ってるようなものじゃないか。
『ほっぺに』と条件をつけたのは最低限の理性が働いた結果と言えるが、焦りと勢いで願望が前面に出過ぎてしまった。
……いやしかし、これをきっかけにして俺の気持ちを澄恵に意識させるのはアリかもしれない。
ここのところ俺は様々なアプローチを試しているが、どれも決め手を欠いている。正確に言えば、ヘタレすぎて積極的になれていない。
だが、『ほっぺにちゅー』という攻めたお願いを紙に書いてしまったことで、俺は後戻りができなくなった。これは新たな一歩を強制的に踏み出すチャンスとも言えよう。
むしろ成績がよければ澄恵から『ちゅー』してもらえると考えれば、やる気が出るというものだ。
計250点のハンデを与えたこの勝負は、正直なところ俺にとってかなり不利な戦いになる。今から勝った時の心配をしているようでは、勝負を制すことなどできないだろう。
そんなことを考えつつ、俺はローテーブルを挟んで正面に座る澄恵の表情をチラチラと眺める。
夏服を纏った澄恵は、小動物のようなかわいらしさがある。長い前髪の隙間からのぞく瞳はくりくりとしていてチャーミングだ。と言うより、澄恵の全てが魅力的に思えてくる。
恋が病とはよく言ったものだ。
「カゲくん、どったの? ちゃんと勉強してるから、そんなに監視しなくていいよ~」
「う、うむ。ならよろしい」
とりあえず偉そうな態度をとってごまかしたが、まさか視線に気付かれるとは思わなかった。
最近の俺は無意識のうちに澄恵へ見惚れているので、今後は気をつけよう。
それから俺と澄恵は昨日に続いて勉強を始めた。
澄恵に勉強を教えていること言っても、基本は課題を与えるだけで解き方を丁寧に教えるようなことはあまりない。
そもそも、赤点レベルの澄恵に必要なものは単純な暗記努力であり、問題の解き方を解説するような段階に達していないのだ。
澄恵自身も、俺を頼るというよりは、サボリ防止で一緒に勉強している側面が強いのだろう。
そうこうしながら1時間半ほど勉強していると、澄恵は唐突に「んんん~」と唸り声をあげ、後方へ倒れ込む。
「んあぁ~もう限界……がんばったからご飯まで休憩していい~?」
こうして最初に根を上げるのは、いつも澄恵の方だ。
とは言え、1時間半も頑張ったなら十分だろう。
俺が「いいよ」と告げると、澄恵は「わ~い」と無邪気に返事をし、何のためらいもなく俺のベッドへ潜り込む。
それから数分もすると、澄恵はスヤスヤと寝息を立て始めた。よくもまあ他人の寝具でここまで堂々と寝られたものだ。
普段から澄恵は、疲れるとすぐに睡眠を取りたがる。成績が悪いのも、授業中によく居眠りをしているからだ。
こうして勉強の合間に俺のベッドで寝るのも、別に珍しいことではない。言うなればいつものことだ。
とりあえず勉強を中断した俺は、ベッドに近づいて寝ている澄恵の様子を観察する。
布団にくるまり丸くなったその姿は、どこまでも子供っぽい。というか睡眠リズムが幼児のままなのではなかろうか。
こうして他人にベッドを占拠されると嫌悪感を抱きそうなものだが、毎度のことながら相手が澄恵なら何とも思わない。むしろ、ベッドに澄恵の匂いが残ってちょっぴり興奮してしまう。
澄恵は髪が腰くらいまであるロングヘアなので、シャンプーやリンスの匂いが残りやすいのだろう。
ベッドに潜った澄恵の長い黒髪は、まるでホラー映像に使われる小道具のように乱れ広がっている。
俺は、髪が傷まないよう優しく引き出して枕の上側にまとめて流してやった。相変わらず澄恵はこういうところがだらしない。
そうこうして俺が髪や体を多少触っても、気持ちよさそうに眠る澄恵はまったく起きる気配がない。それだけ気を許しているのかもしれないが、逆に言えば異性として意識されていないのだろうか。
今なら、澄恵の体に多少いかがわしいことをしてもバレないだろう。
そこで俺のとった行動は、スヤスヤと眠る澄恵のぷにぷにほっぺを指で軽く撫でるだけだった。
もちろん俺にも男として人並みの欲求がある。だが、澄恵を傷つけてまでその欲求を満たしたいとは微塵も思わなかった。
俺は決して、澄恵の体が目的で澄恵を好きになったわけではない。
澄恵は俺にとって、かけがえがなくて、尊くて、大切な存在だ。そんな俺が願うのは、己の欲求を満たすことではなく、澄恵を幸せにすることだ。
人を好きになるって、つまりそういうことだろう。
だから俺は、まるで大事な宝物を扱うかのように、優しく澄恵の頬を撫でる。
澄恵をもっと笑顔にしてやりたい、元気にしてやりたい、幸せにしてやりたい、そんな気持ちを込めて、優しく愛でてやる。
「かげよし……」
ふと、澄恵が俺の名前を寝言でつぶやく。
普段は「カゲくん」とあだ名で呼ぶクセに、なんでこんな時だけ普通に呼ぶのだろうか。
「澄恵」
俺もならって名前を呼んでみると、目をつむった澄恵は静かに唸って再び寝言をつぶやく。
「す……」
す? まさか、その後の言葉は――。
「す……すしざんまい……」
俺は澄恵の鼻を詰まんでやりたくなる衝動を抑え、半笑いを浮かべつつ布団を肩までかけてやった。
 




