17.打ち上げ花火、どこから見るか
その日俺は、目を覚ましてから日が暮れるまでの時間を、ずっとそわそわしながら過ごしていた。
理由は他でもない。今日は澄恵と一緒に、地元で開催される花火を見に行く約束をしているからだ。
早めの夕食を終えてから何度も時計を確認した俺は、十分ほど余裕をもって自宅を出る。互いの家が隣同士なので待ち合せもクソもないのだが、それでも男として先に澄恵を待っておこうと思った。
家を出ると、空は綺麗な夕焼けに染まっている。夕方になってもかなり蒸し暑いが、天気はいいので花火を見るにはもってこいの日よりと言えるだろう。
そういえば、澄恵と一緒に花火を見に行くのは、何年ぶりになるだろうか。
小学生の頃は一緒に縁日や花火によく行っていたが、歳を重ねるにつれて互いに引きこもりがちになり、少なくとも5年はご無沙汰だ。
そんな俺が、まさか自ら澄恵を誘うとは自分でも驚きだ。澄恵に会いたいという欲求が変な方向に作用してしまったのだろう。
というか、普通に考えてこれは『デート』じゃないか。
プールに行った時は『実質デート』的なことを意識して一人で喜んでいたが、今回は誘い出した経緯から目的まで完璧なまでにデートだ。
そう考えると、急に自分の行動が恥ずかしく思えてくる。
いやしかし、澄恵とデートできるなら結果オーライだろう。
たとえ澄恵との関係性に進展がなくとも、一緒に花火を見に行ったという思い出を作ることが大事なのだ。
そう自分に言い聞かせた俺は、余計なことを意識せず澄恵と一緒に楽しむ努力をしようと心に決める。
そんなことを考えていると、澄恵の家の玄関が開く音がした。
ちらりと玄関を覗くと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
「お、おまたせ……」
そう告げた澄恵は、なんと浴衣を纏って姿を現した。
アサガオの模様があしらわれたピンク色の浴衣は澄恵の小柄な体にぴったりマッチしており、綺麗に結いまとめられた長い黒髪とコントラストを奏でている。薄青の髪飾りはアジサイがモチーフだろうか。
そんなかわいらしい格好をしていながら、恥ずかしそうにしている澄恵の姿は、もはや直視できないほどの魅力を振り撒いていた。
こういう時、男の俺が何と言うべきかは決まっている。
決まっているのだが、俺は気恥しくてなかなか口に出すことができない。
しかし、どこか不安げな表情を見せる澄恵を前にして、はぐらかすという選択肢は俺の中から吹き飛んでいた。
「似合ってるじゃん……」
「そ、そう……?」
俺に褒められた澄恵は、いっそう顔を赤らめて視線を落す。
だが、口元はどこか微笑んでいるようにも見えた。
それから、俺と澄恵はとりあえず花火会場に向けて歩き始めた。
花火は近所に流れる川の中州で行われるため、今日は近くの土手まで行くことになっている。
少し歩くと、澄恵の足元からゲタ特有のカランカランという音が響いていることに気づいた。
それにしても、澄恵は今日のためにこの浴衣を用意したのだろうか。
とりあえず話題作りに、俺はそのことを聞いてみることにした。
「その浴衣、どうしたの?」
「お母さんのお下がり。ホントは着るつもりなかったんだけど、せっかくだからってお母さんが無理やり……」
なるほど。俺は澄恵の母親に感謝すべきだろう。
もちろん澄恵がどんな格好だろうと俺は気にしないのだが、今日はかわいらしい澄恵の浴衣姿が見られただけで、俺の満足度はすでに振り切れている。
しかし、見る方はそれでいいが、浴衣は着る方が大変だ。
俺はなるべく歩くペースに注意して目的地まで歩みを進める。
その間、俺と澄恵は気恥しいのか、ほとんど会話を交わさなかった。
それにしても、今こうして二人で歩いているのが『デート』だと思うと、未だに信じられない心地がする。
俺と澄恵はいつも一緒にいるが、今日はまったく意味合いが異なるのだ。
今の俺と澄恵は、一緒に花火を楽しむという目的で肩を並べている。
花火だけを楽しむのなら一人でもいいだろう。というか、花火自体に興味があるわけじゃない。
俺は、澄恵と一緒だから楽しめると思った。
俺は、澄恵と一緒に花火を見たいと思った。
それはなぜか――俺は澄恵のことが好きだからだ。
それじゃあ、俺の誘いに乗ってくれた澄恵はどう思っているのだろうか。
俺が花火に誘った時、澄恵は「私といきたいの?」と、問いかけてきた。
俺はその問いを適当にはぐらかしたが、逆に澄恵はどう思っているのだろうか。
花火に興味があったのか、それとも俺が一緒だから承諾してくれたのか。
着るのが大変な浴衣を纏ってくれた澄恵は、何を思って俺の隣を歩いているのか。
正直なところ、俺は澄恵の気持ちが知りたい。
澄恵が俺のことをどう思っているか知りたい。
もちろん、澄恵の気持ちを知る方法は簡単だ。
今ここで澄恵に告白し、返事を聞くだけでいい。
だが、今はそんな勇気を持つことができない。拒絶されるのが怖いからだ。
今はただ、澄恵の隣にいられるだけでいいと思った。こうして花火を一緒に見に行けるだけでいいと思った。
それに、焦る必要もないだろう。
俺と澄恵はいつも一緒だ。
こうして澄恵との距離を縮めていけば、いずれは――。
と、そんなことを考えていると、いつの間にか澄恵の歩くペースが少しだけ遅くなっていることに気付いた。
やはり普段履かない下駄だと歩きにくいのだろう。
それからしばらくすると、今度は歩き方が不自然になってくる。
さすがの俺もそこで異変に気付けた。
「スミちゃん、足大丈夫?」
「うん。やっぱり、下駄だと歩きにくいね~」
澄恵は笑みを浮かべ、普段通りの反応を見せる。
だが俺は、その『普段通り』に強い違和感を覚えた。
俺はすぐさま澄恵の手を掴み、近くにあった路地に無理やり連れ込む。
「か、カゲくん……?」
驚きの声を上げる澄恵を無視した俺は、路地の暗がりで何のためらいもなく浴衣の裾を掴んで持ち上げた。
たとえセクハラと思われようと、今はそうしなきゃいけないと強く感じたからだ。
俺の行動に驚いた澄恵は小さな悲鳴を上げたが、すぐさま行動の意図に気付き何の抵抗もしなかった。
そして、浴衣の裾が持ち上げると、鼻緒が血で染まった澄恵の足が姿を現す。なんとも痛々しい光景だ。
どうやら、この下駄は澄恵の足と相性が悪かったらしい。
恐らく足に引っ掛ける鼻緒で親指と人差し指の間が擦れ、皮膚が切れてしまったのだろう。その出血量を見るに、随分と我慢していたようだ。
足の状態を見抜かれた澄恵は、どこか気まずい表情を浮かべ立ち尽くす。
その姿を見た俺は、強烈な自己嫌悪に陥った。
どうして、もっと早く気付いてやれなかったんだ。澄恵が辛い思いをしているのに、俺は浮かれていただけじゃないか。
何が『澄恵のことが好き』だ。好きな子に辛い思いをさせていながら、自分だけ楽しんでいたなんて、最低じゃないか。
そう感じた刹那、俺は自然と言葉を発していた。
「帰ろう」
その言葉を聞いた瞬間、澄恵は顔をゆがませ、小さな首を横に振る。
「ヤだよ……せっかく、来たんだよ。これくらい、大丈夫だよ。だから……」
「ダメだ。帰ろう。俺がおぶってくよ」
俺が無理やり澄恵の手を引くと、澄恵は手を振りほどこうと抵抗する。
「ヤだよ! 私だって、楽しみにしてたんだよ! 頑張って浴衣だって着たのに、それなのに、私のせいで台無しなんてヤだよ! ヤだよ……」
そんな言葉を放つと共に、澄恵の頬に涙が伝っていた。




