2・旧首都東京のはずれにて(青晴)
俺たちがルームシェアしてるマンションの一室、その玄関の鍵が開く音がした。
きっと時雨が帰って来たんだろうと思って、部屋から出てみれば、覚えのある靴音と匂いがした。
「ただいま」
「ただいま」
時雨のいつもの几帳面な挨拶の後に反復する低い声。
げえ、まさか聡さん帰って来たのか。
てっきり今日もオフィスに泊まると思ってたのに。
俺が呻いたのに目ざとく気が付いて、聡さんがじろって睨んだ。
まあ睨まれてもこの人あんま恐くないんだよな。ただ今にも死にそうな顔色してるから心配だ。
「ゲッじゃない、報告書、書き直すのが嫌なら後でこの質問書に答えろ。口頭でいい」
そう言って渡されたのは、数枚のコピー用紙。いつも俺が仕事の時に聡さんに聞かれるような内容がそのまま書いてある。
こんなの作って来たのか、マメだなあ。
「ういーっす」
聡さんが俺に渡した紙を見て、時雨はすっげえ驚く。
「いつの間に作って」
「悪魔を全滅させたって聞いた時点で、どうせこうなると思って、聞いておきたいところだけ重点的に質問する文書作った。今から飯作るから、時雨も読んでおいてくれ。飯の後で質問するから答えろよ。録音の清書はこっちではするから安心しろ」
「いいんですか?」
「問題ないよ。現場仕事する人間に、こっちの心配までかけるつもりはない。君らが元気よく刀振るえるようにするのが俺たちの仕事だ、気を使うな」
質問書に目を落とすふりをしてると、聡さんは時雨に言いたい事だけ言って、自分の部屋に荷物を置きに行く。
この後俺たちの夕飯迄作ってくれるらしい。
今日遅くなったし冷凍のピラフで我慢しようと思ってたけど、聡さんが飯作ってくれるならラッキーだ。
「青晴の馬鹿野郎」
痛い。
飯ラッキーって思ってたら、時雨がメッチャクチャ恨みがましく俺の後ろ頭を殴ってきた。
「悪かったって……聡さん寝てないのな」
報告するの渋ったのは、単純に怒られると思ったからだったんだ。
まさかそれで聡さん自身が聞きに来るとは思わなかったし……言い訳しても時雨は油してくれないだろうな。
時雨は聡さんに迷惑かけるのが一番嫌いだ。俺だって……嫌いだ。
「ごめんって、後でちゃんとサトルさんに言う。迷惑かけるつもりはなかったし」
「うん……」
目に見えて顔色が悪かったもんな。
時雨は不甲斐ないよなって、ため息を吐く。
共同スペースのテレビを付ければ、今日も東京ローカルは異世界関連のニュースばかり。
幸いにして、って聡さんなら言いそうだけど、俺たちのかかわった事件については何にも報道されてない。
無かったことにされてる。
けど無かったはずがないんだ。
俺たちは確かにこの手で、人を食う悪魔を倒したんだ。
けど今日のホットイシューは、異世界産のカプサイシン含有マスタードが、全国各地で発見されてて農産業がヤバい、っていう話だった。
何かこれをきっちり駆逐できないと、日本への渡航禁止が諸外国で出るらしい。
一体いつ日本に入ってきたやら。
「これそんなに問題か?」
「問題。マスタードはイスラム教だったかユダヤ教だったかの重要な植物。日本だと梅干用の梅に、シュウ酸が含有されててヤバい、って感じの話」
よくわかんねえ。
時雨はこういう変なたとえ話をよくする。
「何で何時入って来たか特定されないかなあ? マスタードって菜の花の仲間なんだろ? いつ芽が出たとか分かんねえの?」
マスタードが菜の花の仲間ってのは、結構前に聡さんから聞いた。ちゃんと覚えてる。
テレビの真ん前、二メートル以上離したところにでんっと置かれたやっすいソファに並んで座る。
飯ができるまでの間ニュースを見るのは、聡さんがそうしろっていつも言うから。
別にバラエティ見てても怒られないし、クイズ番組とかかなり聡さん好きなんだけど、時雨はいっつもニュースを選ぶ。
ちょっとムカつく。
「分かんないだろ。製品化されて、もしかして、って段階なんだから。もう半年以上前に入ってきてたってことが、今更発見されたんだよ」
「ふうん」
「今、っていうか今年は頭から一滅茶苦茶事件多いから」
「それって何か理由あんのか?」
「多分異界と断続的な接触が途切れない状態だって」
「面倒だな」
「面倒だよ」
話題が出てこなくて無言になる。
カプサイシン入りマスタードは、同じ菜の花の仲間と雑交しやすいらしい。大根とかキャベツとかの花とうっかり雑交したら目も当てられないなとテレビのコメンテーターが言う。
おでんやロールキャベツが唐辛子っぽくなるのは確かに嫌だな。
ニュースの話題が変わった。
平和の祭典が今度トルコで開かれるらしい。
その競技場が、アンビルドの魔術師と言われる初老の建築家のデザインなんだそうだ。
物理法則を無視して、異界の技術をふんだんに使って建てられるスポーツ施設は、世界の中でもとりわけ安定したトルコだからできることだと、大絶賛だ。
日本では到底無理だろう。
言われても仕方ない。日本はこの九十年、ろくに安定したことが無い。
ずっと異界の脅威が隣り合わせの状態だ。
「いつになったら平和になる?」
独り言のつもりだったのに、時雨が忌々し気に応える。
「分かんねえよ……でも、覚えてる限り十年以上平和はないんだ、これからすぐに平和になるなんて思えない」