「沙汰」
『ぐううっ、うううう――』
『ニャーン、ゴロゴロ――』
何者かのすすり泣く声と、獣のようなものの気配で目を覚まし、辺りを見回す。
地割れにでも落ちたのか、四方は岩壁に囲まれているのみで光も遠く、仄暗い。
『フニャー、プシシッ――』
大地と大気の匂いといい、高天原にはおらぬはずのこの生物といい間違いない。
ここは下界、葦原中国か。あののち我が身に何が起こったか、回顧を試みた時、
『ああ、よかった。気がついたンだね――』
獣を膝上に乗せ、私の近くに座していたひとりの“男”が、嗚咽を押し殺しながら強ばった笑みで語りかけてきた。
『ひっ!? やめて!! 殴ンないで!!』
だが、咄嗟に構えた私が何者か、と尋ね終えぬうちに再び身を震わせてみせる。
見てくれに反してこの振る舞い、まるで年端もゆかぬ童のようで存外歪である。
兎角、斯程の敵意も邪気も皆無と見て相違はないが、それを察した時不意にこの身の異変――否、不変を認める。
『兄者から受けた傷が――治っておるだと』
『……』
『これはそなたによるものか。何故、私を』
『なぜって? 痛いのは、可哀想じゃんか』
『何?』
『ああ、あの時もそうだった。目の前に“俺”がいたから、助けようと思っただけなンだ。それなのに、ううっ――』
『……』
『俺は、自分が誰なのかもどこから来たのかも知らない。けど、あれは確かに俺だった。それはわかったンだ――』
『……』
『傷ついた自分を見てられなかったンだよ。だけど声をかければ口から炎が出て、手を伸ばせば地面が裂けて――』
『……』
『ンで、ツキヨミとロキ、ってのか。そいつらがなんでか俺を殺そうとしてきて。ンなひどいこと、あるかよ――』
『……』
『何も、何もしてないンだぜ。ただ、痛みに苦しんでるのを黙って見てられなかっただけなンだよ。うううっ――』
『一体、そなたは何を言っておるのだ……』
その時さめざめと手弱女のように涙を拭う手元より、何やら別のものも雫とともにこぼれ落ちた。“鱗”であった。
『そなたはまさか、蛇の……“魔の者”か?』
『うん、そう言われた。何のことかは知らないけど俺、今のこの状態と化け物の、ふたつになれるみたいなンだよ』
『……』
『きっとあの時はあんな姿だったから襲われたのかと思ったけど、ついさっきも同じだった。まるで一緒だったよ』
『……』
『この見た目になってやっと力の暴走も収まったから、アメノウズメっていう他の人たちの傷も治した。でも――』
『……』
『そいつらまで、俺を“マモノ”って追っかけ回してさ。誰かを助けたいって思うのがそんな悪いことなのかよ――』
――ただ泣き、一心に叫びひたすら嘆き喚き続ける。どこまでも弱く脆く儚く。
だがその様相の奥に感じ入るものがある。見てくれは決して似ても似つかぬが、我らが養父と同じ強大な“魂”を。
そして此奴はあの方を自分自身と称した。なればこの者の“正体”は、まさか――
『でも君は、君だけはいい人みたいだよね。俺の話に、耳を傾けてくれたし――』
『……』
『もしかして君も誰かにいいように裏切られて、傷つけられたの? なんとなくだけど――そんな気がするからさ』
『……』
『よければ、俺、君についてっていいかな。こんな場所でまたあんなひどい目に遭うなンて、もう絶対に嫌だから』
天命。これぞ私にもたらされし起死回生、千載一遇、僅有絶無たる好機僥倖よ。
この力が側に在らば、我が宿願もきっと実現しよう。そう、私を裏切った兄者、月読への報復が。頂きの奪還が。
奴めより離れ、私の胡座に安坐をかき始めた四足の寝息を膝に受けつつ応える。
『いいでしょう。命を救って下さったご恩、この蛭子の命を賭して報いましょう』
『いや、そんな。別にそういうつもりじゃ』
『そう、見返りを求めぬその美しさ高潔さ。さような尊き志を持つあなた様によもや、牙をむく不埒者がおるとは』
『……』
『許せませぬな。あってはなりませぬとも。なれども、それもまたこの世の下らぬ摂理。そのお力でどうか打破を』
『えっ……?』
『よいですかな。正しきを成すがため戦う、それこそが正しさです。むしろ対話にて安寧を求むるなど見果てぬ夢』
『……』
『攻撃、怒り、報復の果てなき応酬。愚かな怨嗟の連鎖を断つ魁となって下され。力なくしては護れるものもなし』
『……そうだね。君みたいな優しい人を守るためには、逃げるンじゃなく立ち向かい、倒さなくちゃいけないのか』
見ているがよい、憎き月読よ。貴様が明の星の威を借るのであらば、私はそれにどこまでも抗い阻んでみせよう。
『うん、わかった。そんな人たちのために、悪意は叩きつぶしてでも止める。俺は俺の力を、正しいことに使うよ』
この者とともに、貴様の覇道を失落させし“敵対者”となろう。さあ、第二の幕開けよ。首を洗って待つがよいぞ。
『救うべきを救い、滅すべきを滅す。すべての“沙汰”はお心がままに。【サタン】――それがあなた様の御名です』