「追憶」弐
赦しを得たくば遠呂智めを討ち取って参れ――我々を追放する際姉上殿はそう言った。
八俣遠呂智――昨今その勢力を拡大せし群雄の一角にして、山のごとし巨躯の蛇の姿を併せ持つという魔の者である。
それでも天照の敵ではなかろうが、敢えて我らをぶつける目論見は十中十、逆賊の処断に他ならぬ。
無論勝てばよし拙く死せどもよし。もはや賽の目が幾つを示そうともすべて、彼奴の掌の上なのだ。
されどわたしは奴めには終生退かぬ媚びぬ省みぬと決めた身、そしてその道理もまたここにあった。
『いや。できたと言う方が正しい、か――』
そう、今の我々が身を寄せている足名椎と手名椎夫婦、そしてその娘である奇稲田――
この者らとの慎ましく穏やかな暮らしは我が心も同じ色に染めるには充分で、それは建速の奴も同じであっただろう。
そして今日もまたいつものように、山では菜花、川では魚を捕り日が暮れればみなのもとへ帰る――そんな時だった。
『むっ。どうしたのだ、足名椎に手名椎よ』
『いっ、今しがた、このようなものが――』
宛てられた書状にはこう綴られてあった。
《此度はそなたらの娘を差し出してもらう。さもなくば肥河の者すべてを撫斬りとする》
主は、なんとあの遠呂智その者であった。
『遠呂智めは決まった時節に器量良しの娘を差し出させ散々嬲ったうえ、最後は大蛇の姿にて喰らい愉悦に浸るのです』
『とうとう娘の番と相なってしまいました。逆らうことなど、できませぬ』
足名椎も手名椎もただ俯き身を震わせるばかり。だが奇稲田は静かに、かつ意を決したような面持ちで立ち上がると、
『この命にて肥河に住まう人々の命が助かるのでしたら、わたくしは――』
と、悲壮な決意を見せたが、言い終えぬ間にわたしの心の何かも切れ――
『待て奇稲田よ。それ以上は許さぬぞ――』
気づけば彼女を強く制していた。娘をもらうだと、嬲り喰らうだと。ふざけるな――冗談ではない。
『建速ッ!!』
そして叫んでいた。それに呼応するように我が弟もまた、
『応よ、悪逆非道なるその所業生かしてはおけぬ! 蛇退治この我等が引き受けた!!』
と心が震え、燃え尽きるほど熱く言った。
「いっ、いけませぬ。かの軍勢を相手にただのふたりでなどと、無謀に過ぎますぞ!?」
ふっ、我らを何者と心得えようか。髪をかき上げ不敵に笑ってみせる。建速もまた得物の十拳剣を床へ突き一喝する。
『応よ! 我等こそかの高天原、天我独尊の女王天照が兄弟、素佐能男と月読である! 故に必然無双勝星天握よ!!』
『えっ! おっお、大御神さま……の!? はっははは、ははぁーっ!!』
腰の曲がりし老夫婦が平伏しまさに床と一体となる。かような辺境にまで轟くその雷名、癪に障るが流石は姉上よな。
されどそうであった、我らはあの悪辣狂暴にして、居丈高と傲岸不遜が衣を着ておるような奴めを一度は下したのだ。
それに比ぶれば遠呂智など取るにも足らぬ、さながら赤子同然の存在よ。
『おい建速、こうべを垂れさせるべき者が違うぞ。そしてその数も足りぬ』
『ああ、無論それで済ませるものか。八ツ首全て斬り落としてくれようぞ』
よし、善は急げよ。しかし勇んで発とうとしたその時『お待ち下さいませ!』と追い縋る、悲痛なる叫び声が響いた。
『たとえ勝ちの目が万にひとつだとしてもゆかれると、そう仰るのですか』
フッ、万にひとつもあらば充分よ。そう、何せ我らには百万を乗ずる力があるゆえな。
その美しき瞳に涙が光る。そしてわたしは、今こそ彼女にこの想いの丈を吐き出した。
『まあ、月読さま!? ああ、なんと申せばよろしいのでしょう……!!』
『は!? きっ、貴様抜け駆けする気か!? 狡いぞ!!』
『えっ、もしや素佐能男さまもわたくしのことを……!?』
そうして顔中を熟れた果実のように染め、涙と笑みを浮かべ黙するその姿に、最後に、
『必ずや帰る。どちらを伴侶とするかはその時に、答えを聞かせてほしい』
とだけ言い、その場を後にしたのだった。
『フフ、よもやそなたとの再びの共闘とは。妙なさだめもあったものよな』
『ふん、その腐れ縁も此度で仕舞いだ。蛇の首もイナも、貴様には渡さぬ』
* * *
「――それでそれで? ヒメはどっちのお嫁さんになったの? 皆の知ってる結末ならスサノヲの方なんだろうけどさ」
“こういう店”では女の子が頻繁にトークを挟む時短行為がつきものであり、俺の予約したこの娘も例外ではなかった。
本業が神学専攻のJDだというものでつい日本神話の話題に花が咲き、何もしないまま20分もの時が過ぎてしまった。
うう、N〇可っていうから一刻一秒が惜しいのに。クールな表情は崩さずに心の中じゃ泣いていた。
「でも驚いたな? まさかオロチ退治の伝承にそんな異説があったなんて」
「元々ツキヨミとスサノヲの逸話は重複部分が存在する。同一神またはずっと行動をともにしてたって解釈もあるのさ」
「博識だねお兄さん♡ じゃあ今度は私がいろいろと、教えたげないとね」
「おいおい、僕は下手なプロより経験豊富なんだぜ。そんなこと――ウッ」
嬢が俺の背に腕を回しそっと唇を唇で塞いでくる。そして首まで上がったその柔らかな手を――思いきり捻り上げる。
「うぐッ!?」
ふっ、そんなオプションは付けてないし初回サービスだとしても結構さ。
「許さぬ!! 許さぬ許さぬ許さぬぞ!!」
だが凶器を取り上げても狂気は収まらない。さっきまでとは一変、呼気荒く眼を血走らせるその形相はまさに悪鬼だ。
何だ? 様子が明らかに変だし声もまるで違う。ただこの顔は覚えがある。あの時よりずっと若くなってるようだが。
「この恨みこの憎しみ!! 今こそ晴らしてくれるわ!!」
ああ、そういうことか。大月姫香――“取り戻した”のか。