「黎明」
「ハァ、ハァ」
36℃の重なる熱気で目を覚まし、すぐ側の芸術品から漂う芳香に後ろ髪を引かれつつもベッドを出る。
「グビッ――」
そして冷蔵庫の3本の水のうち2つを一気に飲み干す。この感覚、やはりまだ昨夜の酒が残っているな。
「どうしたの」
気配を察してか、その美しき女神像も動き始める。
「悪いな、起こしちゃったか。まだ頭が痛くってね」
「大丈夫? 鎮痛薬あるけど」
「ありがとう。じゃあ頂くよ」
「――もがっ! えっ、何す」
「じっとして」
「ふむっ――。っああ、んっ」
もらった錠剤をふたつまみ、唇へ。1本残った水も咥えさせたのち俺のものを重ねて、こちらへ流れ込む中身を飲み下す。
「ちょっ、一体何のプレイよ」
「グラス選びも大事でね。こう飲むとよく効くんだ」
「ゴメン、きもいわ。時代遅れの映画のノリみたい」
「そうさ、流行に抗うのがハードボイルドだからな」
やがて窓に薄紫が差し込んでくる。この甘美な一時も終幕か。不意に煙草を手にした時、耳をかぷりと温かな感触が包む。
「もう一度だけ、お願い。時間ももうないから――」
静かに告げる唇に再び応え、右手を腋下から背へ。左は髪に添えそっと身体を倒す。
「ありがとう」
「気にするな。君のためだし」
「私、やり直せるのかな――」
「君次第だよ」
「その時は――また会える?」
「“15回”だな」
「えっ――?」
「36℃がせいぜい8、90年しかもたないように、その種の情熱もいずれ絶対そうなるのさ。それが大体15回目なんだそうだ」
「……」
視線は横の灰皿へ。煙草を消しつぶしながら、あえて彼女の瞳を見ることなく言う。
「悪い男に惚れる気持ちはわかる。少女漫画とかの恋人役も大抵、散々女を泣かせてきたようなスカした野郎ばかりだしな」
「……」
「でも誰かを傷つけた“因果”は必ず回収されるんだ。自分も不幸になりたくなければ、そういうやつを選ぶのはやめておけ」
「じゃあもう、これっきりで忘れろってこと――?」
「外を見ろよ。君の夜は今日でようやく明けたんだ。また暗闇に戻りたいのか? 君の人生は、再びここから始まるんだぜ」
車の音や鳥の声で少しずつビビッドが芽吹き出す外界とは裏腹に、依然室内には彼女の心情さながらのパステルが満ちる。
「失礼します」
しかしそれも不意のノック音により儚く破られて、ひとつの影がにじり寄って来る。
「高原署の玉前です。蛙田双葉さん、同行願います」
そう鈍く光るバッジを鋭く突きつける姿に告げる。
「待てよ化藻女、日の出までは俺の時間のはずだぜ」
「ハァ、了解。でも絶倫もほどほどにして下さいね」
深い深いため息とともに渋々出て行くのを見届けたのち、俺はボトルの口を椀状に切り彼女へ渡した。
「先に飲んで」
「えっ――?」
「“水盃”だよ」
「……」
飲み口から喉へ。水が降りてゆくのと同時に彼女の目からその頬へも煌めく雫が一筋、さらりと伝う。
そうして受け取った残りを飲み干して、俺は今ここに至るまでの経緯――昨夜の“事件”を思い返した。