ユナイテッドミュージックレコード
80年代の日本にNYから初めてヒップホップを持ち込んだとされているのは、押韻学園の理事長、団野下鬼助であるとされている。
当時はディスコ全盛期でクラブ等は都内に数軒しか無く、ディスコでHPHOPを普及させる事を目指し、様々なDJにNYで買い付けて来たレコードやテープを渡し、ターンテーブルで次の曲に繋ぐ際にスクラッチと言うレコード盤を擦ってノイズを出す演奏法を伝授し、2枚同じレコードをつなぐ事で発生する「ブレイクビーツ」の上で韻を踏み、おしゃべりの様にビートに乗せる「ラップ」と言う歌唱法も色々な DJやアーティストに伝授した。
その伝授方法が分りやすいと話題になり、元々は街のカルチャースクールとして始まった「団野下ラップスクール」が現在の学校法人「私立押韻学園」の始まりとされており、学校法人化する前には東京湾に韻牙島の建造は概ね完了していた。
そして学園は巨大化し、本年度の押韻学園入学者数は前年度の約30%増しとなっている、もちろん学校法人としては黒字になる筈だが、前年度〜前々年度の在学生の成績が振るわず、新規で取引しようと言う音楽事務所や大手レーベルも年々減ってしまい、音楽自体が完全に斜陽産業になってしまっている事を如実に物語っていた。
そこに一子報う為、今回下山の提案して来た狂気のMCバトルを実施するに至ったのだ。
一方、そんな狂気のMCバトルの主催を団野下に持ちかけた下山と呼ばれていた白髪でスタンドカラーの男は、日本で唯一独自コンテンツを未だに作り続ける事が出来るメジャーレーベル「ユナイテッドミュージックレコード」の大物プロデューサー下山獅子録と言う男である。
下山はラップと言う手法を使い人気グループや人気楽曲を多数作って来た。一般的にはJAPANESE HIPHOPの立役者とされており、先程から登場してMC達の先導役をしている韻韻も20代前半に下山によりプロデュースされデビューしたフィメールラッパーだったが、デビュー当初は「本格派魔法少女ラッパー」と言う奇抜なコンセプトがウケにウケ、一時は海外公演まで実施され、ネットでは韻韻の楽曲の二次創作が盛大に行わたり、海外のアーティスト楽曲へのフューチャリングも多数していた。
しかし韻韻のスタッフに対する態度が酷く、それが原因で業界から干されてしまった為、実質のメジャー活動期間は1年程度である。
当時、齢25歳の韻韻は芸風の方向転換を計るべく、アコースティックギター1本を奏でながらラップするアコギラップと言うキャラと女優業の二足のわらじで再起を図るも、リハスタからはける際、出待ちしていた当時14歳だったスーコにMCバトルを申し込まれ大敗、寝首をかっ切る様なスーコのやり方を罵倒している所をファンに動画を撮られてしまい、その動画流出が元となり完全に仕事を干されてしまうが、下山の愛人をしていた事もあり下山直属のSE(新人発掘)部隊を統率する事となった。
なので韻韻はスーコの事を知っており、只ならぬ恨みを持っているのだ。
でだ、話しを下山に戻すと、下山自身は「便所の落書きでも金にする才能がある」と言われ業界受けも非常に良く順風満帆ではあったのだが、一部のアーティストからは「策士」「詐欺師」等と言われる事も多かった。
皆で共有していた物を、まるで自分が作り上げた様に振る舞うのが非常に上手く、またそれに違和感を持たせない話術があったのだ。
また、過去の下山はPOPsやROCK専門のプロデューサーで、HIPHOPを聞いた時「サンプリングなんて人の曲をパクって自分の曲だなんて言うのは言語道断だし、そもそも歌詞の内容が下品下劣この上無いじゃないか」とバカにしていたが「45シンドローム」の登場をきっかけに、若く勢いのあるHIPHOPアーティストが人気を得ると共に、ストリートレベルで盛んに行われ始めていたフリースタイルバトルに目をつけ、自分が音楽監修を買って出た「にこにこビーフ!!」でいち早くフリースタイルバトルを番組に取り入れ、番組に出演していた子役、トメ子のラップの才能に目を付けアイドルラッパーとしてデビューさせ、深夜番組で大人版のフリースタイバトル番組も立ち上げ、大いにラップ・フリースタイルの普及に貢献した。




