第十幕 夢
ここは……どこだろう?
俺は確か昨日は飯を食った後、すぐに寝たはずだ……何が起こっている?
康や雪原も見当たらないし、どういうことだ?
水面に雫が落ちるような音がした。
薄く、しかし確実に、その波紋はこちらへと伝わってきた
暗いというよりも、黒い。
俺以外の全ての物の色が消え失せ、存在自体が塗りつぶされたかのような感覚に陥る。
紅い世の淵が自分自身に迫ってくるような恐怖と、苦しみに快感を見出し始めたこの感覚が、息苦しい。
なぜ俺はこんな処に?
勿論その問いに答えてくれる者など居はしなかったが、それでも、自分にはこの場所がわかるような気がした。
あちらこちらで透明な明かりが世界の色を帯びて、映ってはぱっと消えてゆく。
自分が大きな物語の一部に取り込まれて居るようであって、また、自分がなんでもなく、なにでもなく、どこにもないような気がしてくる。
高熱を出して、感覚がズレてしまったかのような、浮遊感が体全体を包んでいる。
何処かで見たかのような懐かしさがあるような気もして、しかし、その思い自体が偽りであるような気もする。
自分では冷静な思考が出来て居るものであると思ってこそ居るものの、ふと立ち止まって思い返してみれば、それは支離滅裂でしかなかったと気づく。
体を動かすことは出来るのに、それは自分の体を何処か遠くから操縦しているような、空虚な、実感のなさだけが心を満たす。
忘れ去られた記憶
失ってもう手に入らない想い
かけがえのなく、しかし哀しい経験
そんなものだけが自分の周りに現れては消える。
そんな苦しさの中気づいた事は一つだけあった。
これは……夢だ。
そう気付いたらもうここにはいられないと、苦しかったはずのここに留まりたいような思いが起こる。
こんな物は必要なく、そんな思いは、醒めることが決定づけられているからこその物なのだと何処か俯瞰したように自分に言い聞かせる。
しかし待てども暮らせど変化はない。
いや、思いにふけったお陰で、幾分か苦しさから逃れることが出来たことに関しては、儲け物だとは思うが、今重要なのはそこではない。
もっとも趣をおくべきところは、夢を夢だと理解しながらも、それでも醒めず、ただそこに存在しているということである。
「ぐっ……」
その瞬間、変化は起こった。
両手首に、締め付けられるような感覚が伝わる。
鋭い痛みは、ふわふわした自分の感覚と思考を、一瞬にして吹き飛ばす。
両腕を動かそうと心の中で念じるも、帰ってくるのは手首に伝わった衝撃と、耳の奥で直接残るような金属音だけだった。
両腕を中心として体の感覚が鮮明になっていくとともに、上半身の感覚がやけに清々しいことに気づく。しかし、両腕が自由に使えず、また全身に細い切り傷が出来たような小さな痛みがあちらこちらで疼くこの状況では、確かめる術もなく、その発見自体が只々無意味だった。
その時体の中に、一つの足音が響く。
その音は、脳の奥底で木霊しているようにも、遥か遠く後ろから、届いているようにも感じた。
「やっぱり君は美しいなあ岡坂くん」
聞き覚えのある声が、躰の周りを包む。
「誰かと思えばお前か。神」
精一杯の強がりで、返事をする。
「つれないなー。岡坂クンは」
「しょうもないことばかり言ってないで要件を言ったらどうなんだ。趣味が悪いぞ」
「そんな両手を縛られた状態のやつが何をいっても、説得力がない気がするんだけどねえ」
「……っ。良いから早くコレをどうにかしろよ」
「あーあー、元気なこった。まあいいや。今日僕がわざわざこんなところに来てやったのは、ある交渉をするためなんだ」
「交渉?」
「うん。だって君、あんまり活躍してないなーって悩んでるでしょ?康くんが雷を使いだしてからは、キャラ被ってんじゃん。なんて考えてたでしょ。笑えるよねー。だから、交渉。力が欲しくはないかい?」
「俺は別にそんなこと......」
「別にそれを恥じる必要はない、こんなお気楽なボクがまじめに言ってるんだから。
弱みは、同時に強みでもある。君の心が求めるならば、いつでも頼ってくれたまえ」