忘れ箱・守り箱
最近、私は女性のストーカーにつきまとわれている。
お久しぶり〜、元気〜、と、たまたま電話してきた小学校時代からの友人に、私は、泣き言が半分以上の愚痴をこぼした。
「あはははは。相変わらずモテモテだねえ」
電話の向こうで悪友ゆまりは豪快に笑う。
「笑い事じゃないってば。今回のはマジ、アブナイ子なんだから」
ため息まじりに私がぼやくと
「沖っちが優柔不断の八方美人だから、そうやって勘違いした子が引っかかってくるんじゃない。自業自得だね」
と、相変わらずの冷たい返事が返ってきた。
まあ、あの子はこういう事態になれっこだし、私のカノジョと誤解され、嫉妬した子に嫌がらせされたりの経験もある。冷たくなるのも仕方がない。
「そういう面もあるかもしれないけどさあ。今回の子にはマジで面識がないんだよね。ある日突然、食堂でカレー食べてる私の前にぬっと現れてさ。やっとお会いできましたね殿下、ずっとお探ししていました。殿下はカレーがお好きなのですか、相変わらず下々の食べ物がお好きなんですね、でも殿下にカレーなんかお似合いになりませんわ、とか言い出してさあ」
「はあ?ナニソレ?殿下?」
ゆまりの声がオクターブは跳ね上がる。
「誰が?」
「私が、らしい」
「なんで沖っちが殿下なの?」
「知らないよ。彼女の言うには、私は前世で彼女が仕えていた何処だかの国の王子様らしくて……」
げ、という呻きが電話越しに聞こえる。
「ナニソレ〜相当な不思議ちゃんだね」
「不思議ちゃんというより電波ちゃんだよ!」
思わず私は叫ぶ。
実はこういう類いの経験、今までにもない訳ではない。
私は何故だか、ある種の女性にもてる。
十歳くらいの頃からそうだ。
背が高くて、自分で言うのもなんだが凛々しい感じに整った顔立ちのせいか、砂糖菓子のようにふわふわした、浮世離れた感性の女の子の擬似王子様にされがちなのだ。
もし私が恋愛相手の性別にこだわりを持っていなければ、ある意味ハーレムの王様気分で青春を謳歌出来たのかもしれない。
ただし残念なことがふたつばかりある。
私の身体の性別は女で、心の性別も女だ。立ち居振る舞いや気性はどちらかといえば男性っぽいのかもしれないが、それは単に私の個性で、恋愛の対象はあくまで異性、男性だ。
そして私に付きまとう女の子が、実際は私のことを愛している訳ではない、ことが多いのでいい加減にうんざりもしていた。
彼女たちの愛の言葉は、本当は彼女たちの心に棲む夢の王子様へ捧げられている。
彼女たちの恋着は、私の姿に三次元化された夢の王子様を見ることから発生している。
恋の始まりなんて大なり小なり、そんなものかもしれない。だけど、やがては相手……彼ないし彼女自身の姿をきちんと見るようになり、醒めるなりさらに愛が深まるなりしてゆくものだろう。
しかし彼女たちの多くは、いつまで経っても私自身を見ようとはしない。『夢の王子様』の遮蔽がかかった熱い瞳で私を見つめ続けるのだ。
その期待に応えられないのは気の毒だが、別に私は彼女たちの王子様をやる為に生まれたのでもなければ、生きているのでもない。
それでも、出来るだけ優しく誠実に応対しようと私は思っていた(ゆまりには八方美人とののしられるが)。
お付き合い出来ないと断る時も、きちんと自分の口で、誠意をもってはっきり言うようにしている。
たとえどんな形であれ、私を好いていてくれているのは確かなんだから、と。
が。
最近になり、近付かないでくれと何度言っても会わないようにこちらから避けても、しつこくしつこくまとわりついてくる、本気で困惑させられる人が現れた。
それが高崎セシルだ。
彼女は別の学部の後輩で、帰国子女のクォーター。この秋に入学してきた新入生だ。
透き通るような白い肌に、色素の薄い髪と瞳。小さめの顔にバランス良くおさまった、形の整った目鼻。頬と唇は薔薇色。
服装はロリータ調。
ゴスロリではなく正統派のロリータファッションだ。
いつも大体、幾重にもペチコートを重ねた赤やピンクのロングスカート、レースやフリルの沢山ついた白いブラウス、レースで編んだボレロやカーディガンを身に着けている。重そうな巻き髪を肩に垂らし、ご丁寧にも大きな白いリボンを耳の上辺りに飾っている。やたらと布地の多い、まるで布の見本市のような装いだ。
詳しいことは知らないが、彼女のお祖母さんは北欧だかバルト三国だかの出身だそうで、その大仰でデコラティブな装いは、西欧の血を感じさせる彼女によく似合っている。
黙っていれば可憐で、それこそロリータ趣味の男性が喜んでかしずきそうな美少女だ。
何も好き好んで女の追っかけなんかしなくても、と、当の私でさえ思う。
一体いつどこで私を見初めたのかは知らないが、食堂でのとんでもない邂逅以来、彼女は講義室や研究室、挙げ句にはバイト先のレストランにまで付いてくるようになった。
講義室や研究室にはさすがに入れないから、出入り口付近で所在無げにずうっと待っている。
入れる場所、たとえば食堂や図書館なんかだと、五メートルほど離れたところに静かに座り、じいっとこちらを見ている。
バイト先に客として現れ、閉店まで居座ったりもする。
それだけならまだしも(いや大概だが)、今日私が誰と話をしたとか何処で何を食べたとかを逐一チェックし、どうやってアカウントを調べたのか直接メールしてくるようにもなった。
誰それはあなたに相応しいお友達とは言えません、とか、お肉ばかり食べているとお身体にさわるのでもっとお野菜を食べて下さい、とか。
あのアルバイトはあなたのご身分に相応しくありません、社会勉強はそのくらいにしてどうか故国へ戻られますように……とか。
滅茶苦茶気味が悪い。
大体『故国』って何処?
私の出身地は北関東だけど……違うだろうなあ。
彼女の脳内だけにある幻の王国へだろうけど、そんな所へどうやって帰るのだ?
『ご身分』って何?
私の家は先祖代々由緒正しい庶民だけど、彼女の脳内ではやんごとないお血筋ということになっているらしい。
そう思うのは彼女の勝手だが、現実と妄想をごっちゃにされても私は困る。
バイトぐらいしないと、ちょっと多めに本を買っただけで生活が苦しくなる、そんなレベルの経済状態なのだから、私は。
もちろん無視し、彼女からのメールは開封しないでごみ箱へ入れるようになった。最終的には受け取り拒否の設定をした。
それでも彼女はアカウントを変え、しつこくメールを送り付けてくる。
しまいに、これからは私があなたのお世話をきちんと致しますので、何月何日からそちらで一緒に暮らさせていただきます、よろしくお願い致しますと送ってきて、さすがに怖くなった。
アカウントを変え、警察にも相談した。
事情を話し、大家さんが別の場所に持っている空き部屋へ、身の回りのものだけ持ってこっそり引っ越した。
大学の方へも事情を説明し、暫く休むことにした。
もうすぐ四年生なのにと泣きたい気分だったが、彼女のあの異常な執着を考えると、場合によれば刃傷沙汰になるかもしれない。たとえ留年したとしても、死ぬよりはよっぽどマシではないか。
その対策のお陰か、メールも来なくなったし彼女を見かけることもなくなった。だがまだまだ安心は出来ない。
「ボーイフレンドでも作ってさ、学内でラブラブいちゃいちゃして見せつけてやったら?王子様じゃなくてただのしょーもない女の子だってわかれば、その子も目が覚めるんじゃないの?」
ゆまりの言葉に私はため息をつく。
「そんなののきく相手じゃないんだよ」
ゆまりに言われるまでもなく、ここまでこじれる前に一度、それは試した。
私よりも背が高く、がっしりした体格をしているゼミの先輩・倉田さんに頼み、ボディーガード代わりの彼氏役をお願いしたのだ。
彼は気もノリもいい人なので、任せとけと請け合ってくれた。
「なんならいっそ、俺たち本気で付き合っちゃう?」
そんなことを言われ、顔が熱くなった。
冗談なのはわかっているけど、私は男性からのアプローチに免疫がない。
それに……正直に言って彼のこと、私は決して、嫌いではなかった。
これを機会に仲良くなれたらなという淡い下心が、私の方にはなくもなかった。だから冗談でもこんなことを言われると、心が揺れる。
道を行く私たちへ、セシルは不思議そうな顔で近付いてきた。
そして先輩の顔を確認するなり、鼻先でふっと笑った。
「おやお前。今生でも殿下の護衛役なの?粗相のないように気を付けなさいよ」
さすがに倉田さんは絶句し、暫く硬直した。
しかし何を思ったか彼は突然、にやっと不敵に笑った。やにわに私の肩を抱き寄せると、横柄にこう言ってのけたのだ。
「お陰様で。護衛も護衛、俺は殿下のおしとねの中まで護衛いたしますよ、当然今夜もね。だからあんたの出る幕はねーんだよ。お邪魔虫はどっか行きな」
「せ、先輩!」
おしとねの中まで護衛って……何てこと言うんですかっ。
ま、まあそこまで言われたらさすがの彼女もちょっとはヒくかも。倉田先輩なりの作戦なんだろう、多分。
思いながら、生まれて初めて肩に乗った、身内じゃない男の人の大きなてのひらに私は、どきどきしていた。
しかしセシルは、ふうう、とわざとらしい程大きなため息をつき、白いリボンを飾った頭をゆっくりと何度か振った。
「相変わらず口が悪いわね。こんなお前のどこがいいのか、私にはちっともわからないけど。でも、お前が殿下お気に入りのおしとね番なのは、別に今に始まった訳でもないでしょう?性悪女の魔の手から殿下をお守りする為にも、しっかりとお励みなさい」
実に偉そうにそう言うと、彼女は頭を上げたま厳かに去っていった。
「……はあ。励ませていただきます」
気を飲まれたように先輩はそうつぶやき、一瞬後、大笑いした。
「ひょえー、何だよあれ。傑作だよね、あのねーちゃん。頭ン中、覗いてみてー」
先輩はひとしきり、やや過剰なくらい大笑いをしていたが、やがて息を調え、私へ真顔で忠告した。
「沖ちゃんさあ。警察に相談するなりなんなり、マジでやったほうがいい。ヤバいよあの子。モノホン、本気でヤバいよ」
私は何度目かのため息をつき、スマホを持ち替える。
「とにかくね。『彼氏』にひるむような子じゃないの。殿下を護衛し、ついでに夜伽も務めるおしとね番ってな感じに脳内で変換しちゃうみたいだからさ、大したダメージにならないんだよね」
さすがのゆまりも言葉をなくす。
「はっきり言って私もかなり参ってるんだよ。買い物ひとつ安心して出来ないしさあ。あの子が物陰からじいっと見てるんじゃないかって落ち着かなくて。こっちのほうがイカレちゃいそうだよ」
急に目頭が熱くなった。唇をきつく噛み締め、落涙だけはなんとかこらえる。知らず知らずのうちに張りつめていた気持ちが、ふと緩んだのかもしれない。
「……そっか」
ようやくゆまりにも事の深刻さが伝わったらしい。声に真摯な気配が加わる。
「沖っちさ。このことちゃんと、お父さんやお母さんに言った?」
「言ってない。言える訳ないよ」
両親は今、仕事の都合で中東にいる。
慣れない、それも治安がいいとは言えない街で緊張しながら暮らしているはずだ。これ以上の心労はかけたくなかった。
「あー、沖っちらしいけど。でもそんな、何でもかんでもひとりで抱え込んじゃったらさ、ホントマジで参っちゃうよ」
明日は無理だけど明後日には一回、学校を休んでそっちへ様子を見に行く、というゆまりの言葉が嬉しく、心強い。
でも彼女に学校を休ませることになってしまうのは申し訳がなかった。そう言いかけると、つまらない気なんか遣うなと叱られた。
「あのね、緊急事態でしょ?とにかく一度、そっちへ行くから。詳しいことはまた明日、電話するからね。いい?くれぐれも戸締りには気を付けてね」
電話を切った後、私はちょっと泣いてしまった。
翌々日。
ターミナル駅のタクシー乗り場の近くで、私はゆまりを待っていた。
昨日のうちに近所のファストファッションのチェーン店へ行き、普段の私なら着ないような服を買った。気休めにしか過ぎないが、変装のつもりだ。
ペラペラした素材の、趣味の良くないスカジャン風ジャケットと、黒地にドクロや蜘蛛の刺繍のベースボールキャップ。
黒のデニムパンツに安物のスニーカー。
それらを身に着け、私はうつむきがちにベンチに座る。
「よう」
声をかけられ、ぎくっとする。
「俺だよ俺。殿下のおしとね番もやってる護衛のにーちゃん」
「せんぱぁい……」
「あはは、悪い冗談だったね。カンベン」
隣、いい?と倉田さんが言うのでうなずき、横にずれる。
倉田さんは、あれから何かと気にかけてくれている。
警察にも大家さんとの交渉にも、彼は付き添ってくれた。
今回の件で唯一良かったのは、彼との距離が縮まったこと、だ。
もっとも彼は面倒見のいい人だから、今のところはただ単に、厄介な状況に陥った後輩に同情してというだけだろうが。
「沖ちゃんすごい格好だね。いきがろうと無理に頑張ってる、遅れてきたヤンキー少年みたいだ」
「ヤサグレたくもなりますよ」
顔をしかめる私へ、倉田さんは笑いながら自販機で買ったらしい緑茶のミニボトルを渡してくれる。礼を言って受け取り、キャップを切って口を湿らせる。
思っていたより喉が渇いていたのか、すごく美味しかった。
「お友達は?」
「時刻表の通りだったらもうすぐ着く筈です」
「場合によったら彼女んちにでも厄介になった方がいいのかもな。でもストーカーってヤツはしつこいからねえ。追いかけてくる可能性もあるし、それはそれで怖いよな。俺がマジで護衛のにーちゃんだったら、殿下に近付く不逞の輩、っつって、問答無用であのねーちゃん切り捨てるんだけどよう」
さすがに私は苦笑いする。
「倉田さん……物騒ですよ。笑えません」
「笑わせるつもりで言ってないからな」
いつにない低い声でそう言うと、彼は私の顔を覗き込むようにして見た。
「あのさ沖ちゃん。いや……沖田虹子、さん」
私は、怖いくらい真剣な目をしている倉田さんの顔を、無言で見返した。
「こんな状況でこんなこと言うの、ナンか卑怯な気がしなくもないんだけど。この件の片が付いたらさ、俺と付き合うこと本気で考えてくれない?」
「……え?」
いやその、と彼は急に目を伏せ、軽くほほを染める。
「今言うのはかなり卑怯ってのか、言い訳めいてるなーとも思うけど。実は前々から俺、沖ちゃ……沖田さんのこと気になってたんだよね。でも沖田さん、男なんか眼中にないって感じでいつも颯爽としてたし。声、かけにくくてさ。沖田さんのこと、あのイカレたストーカーねーちゃんが『殿下』って呼ぶのもわかるなーってのか。オーラが出てるっつうのか、確かに王子なんだよ雰囲気が。下々の者は近寄るのもおそれ多いってのか……」
「そんな、私そんな人間じゃ……」
うん、と彼はうなずき、ちょっと目を上げて照れくさそうに笑う。
「その王子オーラの下にいるには。すねたりおびえたりする、普通の女の子だ。普通の、可愛い女の子だ。ますます……惚れた」
涙腺が壊れた。
ぱたぱたと涙が落ちる。唇をぎゅっと噛みしめ、私は何とか声を殺した。
倉田さんの大きな手が、ぽんぽんという感じでベースボールキャップ越しに私の頭をなぜた。
その刹那。何かが脳裏に閃いた。
『私はあなたが王子だから従っているのではありません』
遥かな昔に何処かで聞いた台詞。
こちらを見つめる迷いのない瞳。
聞こえる。見える。
一部分だけがやけに鮮明な夢に似た、現実以上に現実めいた場面。
『あなただから従っているのです。あなただから……愛しているのです』
「クラ…タ、リュ…ス?」
無意識で私はつぶやいていた。
倉田先輩の顔色が目に見えて変わった。
「記憶が……?」
思わずのように彼の口から洩れた言葉。怪訝な目だけで彼へ問う。
「ああいや、別に何でもない。あ、あの子じゃないの?ほら、早足でこっち来てる子……」
慌てたように彼は立ち上がる。涙をぬぐい、私はそちらを見た。
確かにゆまりだ。小さく手を振りながら彼女はこちらへ来る。
私たちはタクシーから降り、私の新しい住まいのそばで降りた。
言葉も少なく、辺りを見回しながら道の端をこそこそと進む。
はっきり言って今の我々の態度の方が、よっぽど不審者かもしれないなとちょっと思う。
タクシーの中で散々、ゆまりにからかわれてしまった。
「さっき泣いてたでしょ?」
後部座席に座った途端、いきなりずばっとそう指摘され、私は思わず絶句した。
あさっての方向を向く私に、ゆまりの顔色が微妙に変わる。
はあーん、などと勝手に納得し、にやりと人の悪そうに笑む。
「それに、あの人。ゼミの先輩とか言ってたけど、それだけじゃないでしょ?」
助手席に座っている倉田さんの頭をちらちら見ながら、ゆまりはささやく。
「ゼミの先輩だってば」
私もささやき声で答えるが、何となく声が震えているのが自分でもわかる。
ふうーん、と鼻を鳴らし、横目で私を見ながらゆまりはにやにやする。
「ひょっとして私、お邪魔虫なのかな?」
「バカ」
おおう、と小さく訳のわからない声を上げると、いやいやいや秋だけど春だねえ、なんて何処かのご隠居さんみたいな口調でつぶやき、ゆまりはシートにもたれかかる。
「よろしいですわねえ。ま……これでストーカー問題さえなかったら。言うことなしなんだけどね」
ふっ、と彼女の顔が暗く引き締まった。
なんとなくふわふわそわそわしていた私の心が、一気にどーんと沈んだ。
そうだ……浮かれている場合ではなかった。
基本的な問題は何ひとつ、解決していないのだから。
ようやくコーポの玄関先まで来た時だった。
「役者はそろった、そういうことなのかしら?皆さん」
冷ややかな声が唐突に、コーポ玄関前の路地に響いた。私たちはぎくりと身をすくめる。
建物の陰から現れたのは高崎セシル、だ。
彼女の姿を見た途端、私は何故かゆるく笑っていた。
足元から崩れ落ちるような絶望と、ああやっぱりとでもいう諦め。
笑うしかない。
だが……気のせいだろうか?
ペチコートで膨らませたデコラティブで可愛らしいロングスカートが、ところどころ擦り切れている、ように見える。
なんだか違和感があるなと思ったら、袖口に長くて綺麗なフリルがついているのは左だけで、右袖は何故か、肘から下がちぎれたような感じでなくなっていた。
頬はこけ、いつも髪を飾っている大きな白いリボンも見当たらない。
建物の陰になっているからだけでなく、彼女の顔色はひどく悪かった。目ばかりが妙にぎらぎらしていて、まるで般若だ。
倉田さんが、私とゆまりを守るように前へと進み出た。
「高崎さん、だったっけ?あんたさ、自分のしていることわかってるかな?警察の方からも警告があった筈だろ?あんたは沖田虹子の半径……」
くっくっく、と、引きつった笑い声が響く。
「猿芝居はもうたくさん。何が警察よ。私……いえ。我々には本来、そんなものに何の意味もないじゃないの」
彼女はにいっと唇を横に引いて笑う。
「おかしいと思っていたわ。卑しいおしとね番の護衛士風情であっても、私の顔を一瞥しただけでモルクローネ王国の記憶を取り戻すというのに、何故我が君オキ・タ・ニジュウス殿下がまったく記憶を取り戻されないのかと不思議だったのよ。お前が暗躍していたのね、ユマリア。自分のしていることがどれほどの罪か、もはやそれすらわからないの?恥を知りなさい、この魔女!」
冷たく据わった目でゆまりを睨み、セシルは訳のわからないことをわめく。
「恥を知るのは貴女の方よ、セシリア」
私の隣で突然ゆまりが、今まで聞いたこともないような厳かな口調と声音でしゃべり出したので混乱した。
「ご自分が今、どんな姿をしてらっしゃるのかおわかりですか?まるで魔に魅入られた憑きびとのような有様よ。滅びた王国にいつまでも執着していないで、今生は今生、新たな気持ちで生きるように努められては?」
「モルクローネは滅びてなどいない!」
いきなりセシルは叫ぶ。
「滅びてるよ。王家の方々をはじめ民のすべてが異界へ転生し、国土は時を止めて眠り続けてるんだからな。こーゆーのを滅びたと呼ばなくて何て呼ぶのさ」
倉田さんまで自明のように不思議なことを言い出したので、また混乱した。
「大体こうなった原因の一つが、『守りの聖女』筆頭であるあんたが殿下へ邪まな気持ちを抱くようになって、ただでさえ危うかった『世界の柱』の均衡を……」
「だ、黙れえ!おしとね番風情が訳知り顔に。控えよ!」
狂女とはかくもあろうという引きつった顔、裏返った声で叫ぶセシルへ、ふん、と倉田さんは鼻を鳴らして冷笑する。
「その卑しいおしとね番に成り代わりたくて、夜毎身もだえてたくせによく言うよ」
「な……なんっ、は、破廉恥な。そのようなこと、そのようなことなど決して……」
息も絶え絶えにつぶやくセシルの前へ、ゆまりがすっと出た。
「もうやめましょう、セシリアお姉さま。いえ……セシリアに囚われている、可哀相な高崎セシルさん。もういいの。いいのよ。国が滅びたのは決して貴女のせいじゃない。心を狂わせてまで故国の再興を望む必要はないのですよ」
言いながらゆまりは、胸の真ん中で両のてのひらを静かに重ね合わせた。まるでそこに卵でもあるかのように、重ね合わせたてのひらをそっとまるめる。まるめた状態のままゆっくりと彼女は、両腕をセシルの方へと差し伸べる。
てのひらの中には群青の、指輪ケース程の小さな箱状のものが乗っていた。材質はよくわからないが、適度に柔らかいのではと思わせる感じがした。
「忘れ箱。おわかりになるでしょう?」
セシルの顔に一瞬、おびえにも似た気配がひらめく。
「オキ・タ・ニジュウス殿下の記憶のほとんどは、この箱の中で眠っていらっしゃいます。その方がいいと私は判断したのです」
ゆまりは静かにそう言うと、軽く涙ぐんだ。
「モルクローネの再興など、もう必要ないのではありませんか?私も貴女同様、何度となく転生を繰り返し、殿下をお探し申し上げてきました」
遠くを見るようなゆまりの目は、くたびれ切った老婆のそれのようでもあった。
「そして……思ったのです。転生先で私が出会った、かつてモルクローネの民だった者たちの大半は、転生先でそれぞれ人として暮らし、モルクローネのことなどほとんど思い出しもせず一生を終えていました。そしてそれで……何の不足もないのです」
ゆまりは深いため息をついた。
「最初は私も、故国を忘れるなんて薄情だ、情けないと思っていました。でも……それでいいのではないかと思うようになってきたのです。国土の上に流れる時間は止まっていますけど、我々を含めたモルクローネの民の上に流れている時間は動いているのですもの」
「その通り、だな。モルクローネ王国を懐かしく思う気持ちはあるけどな、もう過去の話だ」
静かな声で倉田さんも言う。
「次に行くべきだよ、セシリアさま。あんたはあんたなりに思うところもあるだろうけどよ、モルクローネを再興させるだけが人生じゃない。セシリアでなく、セシルとして生きてもいいんじゃないかな?」
お前はお黙り、とセシルは剣呑な低い声で倉田さんを制すると、青ざめた顔でゆまりを睨んだ。
「だから……『守りの聖女』の力をそんな忌まわしい形にゆがめた、と?」
「ゆがめたとは思いません。『守りの聖女』の役目とはそもそも何でしょう?国を守り民を守り、国の鍵たる王家の方々をお守りする。その役目に恥じぬ……」
「もういい!」
断ち切るようにゆまりをとどめ、セシルは大きく息をついた。
「よくわかったわ。お前はやはり誇り高きサキ・タ聖家の鬼子。お前を『守りの聖女』へ引き上げてやった私の恩を踏みにじって」
左袖のフリルの陰へ、彼女は右手を添える。
「殿下が私の前から隠れてしまわれた後、ぼんやり手をこまねいていたと思っていた?一番良い手が駄目なら、二番目の手を考えるまでよ」
すらり、とでもいう音と共に袖の陰から、鋭利で細い、透明な剣身のようなものが現れた。
それは光をはじいてプリズムのように輝き、美しいなと私は思った。
とにかく目の前で起こっているすべてに現実感がなく、ドラマか悪い冗談のようにしか私には思えなかった。
「殿下にモルクローネへ帰っていただきます」
当然の決定事項のようにセシルは厳かに言った。
その刹那胸に、言いようのない強烈な不快感が湧きあがった。
「殿下はモルクローネ王国の鍵。記憶がなくとも自発的でなくとも、あちらへお戻りにさえなられれば……」
言葉の途中でセシルはうめき、膝をついてくずおれた。
「ナントカに刃物って聞いたことあるかい、ねーちゃん。だけど福音の書物より重いもん持ったことのない聖女様が、物騒なもん振り回しても自分がケガするだけだぜ」
ひどく冷静な倉田先輩の言葉。
電光石火の早業でセシルのみぞおちを蹴り上げ、彼女の手から輝く短剣をはたき落として奪っていた。
確認し、彼は眉をしかめる。
「うへ、ゼラン山頂の万年氷で作った短剣じゃねえか。こんなのをわざわざアッチへ取りに行ってたのかよ。はっきり言ってあんたの方がよっぽど魔女だね」
ふっ、と、倉田さんは突然、片頬をゆがませるように笑う。
その笑みにぞくりとする。すさまじい既視感。
「死になよねーちゃん、今度こそ。金輪際あんたに邪魔はさせない、俺は今生こそ殿下と幸せになるんだ」
『王家に王子は何人もいらっしゃる。だがな、俺の愛するニジュウス様はただひとり。そのニジュウス様は俺だけのものなんだよ』
片頬をゆがませるような笑み。
所有を確信した男の、傲慢な笑み。
(クラ・タ・リュウス……)
私の護衛士。そして……恋人。
「いい加減にしろ!」
気づくと私は腹の底から叫んでいた。
身の内で何かがふつふつとたぎる。
怒りであり、絶望であり、虚しさであるもの。
それらがより合わさり、単純な記憶以上に深く魂に刻まれた、遥かな昔を呼び覚ます。
「お前たちは……」
涙が噴き出す。
「セシリア!ユマリア!そして……リュウス!お前たちは何故同じこと、同じ過ちを繰り返すのだ!私の心、私の行動は私が決める!お前たちが……勝手に、決めるな!」
白い閃光。遅れてすさまじい轟音。
そして静寂。
あれから三ヶ月。
退院し、私は両親とアパートへ戻ることになった。
久しぶりに建物の外へ出た。あまりに世界が広く開放的で、私は一瞬、軽い眩暈がしてよろめいた。
吹く風がいつの間にか、ひどく冷たくなっていた。
真冬だ。
あの時、あの場で一体何が起こったのか、私の記憶は曖昧だ。
それ以降の記憶も一ヶ月ばかり、曖昧で混乱している。
聞かされた話を総合すると、あの日、高崎セシルと押し問答をしていた私たちの上へ雷が突然落ち、ボヤ騒ぎになった。
私以外の三人は、その時に亡くなってしまったのだそうだ。
あなたが何故助かったのかはよくわからない、たまたま運が良かったのだろうと、お茶を濁すような説明を医師や警察からされた。
私は暫くの間、錯乱していたらしい。
ゆまりや先輩の名を呼んでは泣きむせび、時には看護師の目を盗んで自傷をしでかす。
かと思えばすさまじい形相でわめき、暴れまわって手近なものを壊すなどもしたらしい。
私の心、私の行動は私が決める、勝手に決めるな!と何度も何度も、声が枯れるまで叫んでいたと後になって聞かされた。
突然の奇妙な落雷事故。犠牲者は三人。しかしその場にいたにもかかわらず、何故か一人だけがほとんど無傷で助かった。
その場にいたのはロリータ趣味の美少女ストーカーと、彼女にストーキングされていた美青年風の女子大生。
その女子大生の幼馴染の女性とゼミの先輩である男性の、四人。
無傷で助かったのは彼らの中心人物である美青年風女子大生。
何故彼女だけが助かったのか?
それに、彼らの関係は本当のところ、どういうものなのか?
もしかすると三角関係とか四角関係なのか?
ワイドショーの恰好のネタになった。
無責任な憶測やデマ、噂話のあれこれ、科学的だったり非科学的だったりする解説などがまことしやかに語られて垂れ流される。
私が錯乱しているというので、さらに好奇心をあおったのかもしれない。
病院側からきつく自制を求められ、さすがに院内まで取材が来ることはなかったが、固唾を飲むような感じでこちらを見ている好奇の視線を、建物越しに感じなくもなかった。
入院したばかりの頃、薬が作り出す強引な眠りの中で私は、彼らの夢をよく見た。
沖っち、と笑う幼馴染のゆまり。
彼女の顔に、浅黒い肌で黄金の髪の、沖田虹子の感覚では風変わりでエキゾチックな装いをした異界の少女の顔が被さる。
殿下はお優しすぎるのです、と、あきれた表情で諭す彼女はゆまりと同じ目をしている。『守りの聖女』の一人で、セシリアの末の妹でもあったユマリア。
(我々はあの頃から……いい友人だった)
それだけはわかる。信じられる。あまりに遠く、茫々とかすんでいるものの。
俺と付き合うこと本気で考えてくれない?と頬を染める倉田先輩。
大きな身体を申し訳なさそうにすぼめ、やや上目遣いに私を見る。
その顔に、やはり浅黒い肌の、凛々しく精悍な異界の青年の顔が被さる。
愛を誓う真摯な瞳。
身体を包み込むあたたかくて強い腕。
首筋の匂い。
どうやって思いを伝えようかとじれているような、不器用ながらも一生懸命な愛撫。
(リュウス。愛しいリュウス……)
私はお前を愛していた。
お前も私を愛していた。
それだけは信じられる。でも。
でも……もういない。二人とも。
私が殺した。
理屈ではない、わかる。
あの落雷事故は私が起こした。私が、雷を呼んだのだ。
激しい憤怒が下す『裁きのいかずち』。神意の発露。
その力が……数多の王子の中から私が王太子に選ばれた、理由のひとつだった。
雷撃を操る能力、これこそがモルクローネ王たる者の必要にして絶対の条件だったから。
夢から覚める度に私は、目尻に伝う涙の中で『モルクローネ王国王太子・オキ・タ・ニジュウス』の記憶を見つける。
灰になった燃えかすがこの身に降るように、異界の王子であった頃の記憶が眠りの果てから落ちてくる。
祭りの日に食べた、口の中でほろほろ崩れる特別な甘いお菓子。
宴での演武。
手が滑ったふりで兄たちに打たれた、背中と肩の鋭い痛み。
幼い私を抱き上げた、乳母の衣の胸元の縫い目。
子守歌に似た侍女たちの衣擦れの音。
モルクローネを決して滅びさせはしないと誓った、息も詰まる悲壮。
神の森の奥、聖なる湖から吹き来る風の清らかな匂い。
おしのびで行った下町で買った、屋台の肉の味。舌が燃えるかと思うほど熱かった。
順番も脈絡も何もない。
一部分だけが鮮明で、それ以外はぼやけてゆがむ。記憶というより夢の残像という方が近い。ほとんど役に立たない追憶のかけらたちの羅列。
いや……もしかすると。
すべてが妄想なのかもしれない。
ストーカーに付け回されて心を病みかけていた私が、落雷事故で大切な人を失い、完全に狂ってしまっただけなのかもしれない。
別にどちらでもいい。どちらであっても大した違いなどありはしない。
私に、少なくとも今生で出来ることは何もない。
そして来世まで『モルクローネ王国王太子 オキ・タ・ニジュウス』の記憶を持ち続ける自信もない。
そうこうしているうちにも緩やかに時間は流れ、異界の王子の記憶の断片が『沖田虹子』である私の中で、それなりに居場所を作ってゆく。
それと同じ歩みで、私の混乱や錯乱はおさまっていった。
赴任先から緊急帰国した両親は、変わってしまった私に腫れ物を触るように接している。
彼らに心配をかけたくはないが、彼らが知っている『沖田虹子』にはもう戻れない。申し訳ない気もするが、どうしようもない。
ただ、近々赴任先へ戻らなくてはならない二人と一緒に、私はこの国を離れるつもりでいる。
黒いヘジャブで髪や顔を隠し、目だけを出して歩いていても不自然ではないかの国で、場合によってはそのまま暮らしてもいい。
もしかの国で、私を妻にしたいなどと言い出す変わった男がいるのなら、その男に嫁いでもいいとすら思う。
こんな抜け殻の女でいいのなら、私を所有したい男に所有を許そう。
最愛の男にすら所有されることを嫌悪し、殺してしまった罪人に相応しい罰ではないか?
数か月ぶりに自室のベッドで横になる。
やはり疲れた。
薄い扉を隔てた隣の部屋で、両親がお茶を飲んでいる気配がする。
2Kの部屋で良かったと思う。ワンルームだったりすればお互いに息が詰まっただろう。
マスコミの好奇の目は飽きやすい。一時期の過熱はさすがに収まっている。
それでも、しつこく粘っていたらしい2〜3社のカメラで、車に乗り込む時、写真を撮られた。
フラッシュがあの時の閃光を思わせ、私は硬直した。その隙に何枚も撮られた。
両親は当然、顔色を変えて怒ったが、私自身はもうどうでもいい気がした。
好きにすればいい、私は抜け殻なのだから。抜け殻にどんな物語をくっつけようと、私には何の関係もない。
そんなことをぼんやり思いながら、毛布を引き寄せて壁側へ大きく寝返りを打った。
こつん、と何かが膝に当たった。訝しく思い、毛布の中を探る。
角張った、十センチ四方ほどの大きさの何かがある。しかしなぜそんなものがベッドの中にあるのだろう?つかんで取り出す。
立方体の箱、にしか見えない物体だった。
おそろしく冴えた、鮮やかな赤の箱。いや、箱だと思われるが、全体的に妙につるんとしていて、どう開けるのか、そもそも本当に箱なのかどうなのかもよくわからない。
こういう感じの、半分おもちゃみたいな貯金箱を見かけたことがある。でも私はそんな貯金箱など持っていない。
表面には不思議な湿り気があり、てのひらへ吸い付いてくるようだ。横になったまましげしげと、私はその不思議な箱らしきものを観察した。
(……殿下)
不意の囁き声に硬直する。
(殿下。我が君オキ・タ・ニジュウス殿下。あなた様の僕・セシリアにございます)
拒絶の叫びをあげる間もなかった。
私の意識は声の力に、強引に引き寄せられていた。
ふと気付くと暗闇の中で、ほのかな光を放つものがあった。
それが膝をつき、深く頭を下げた人物なのが段々とわかってくる。
人影は、夢で何度か見かけたユマリアと同じ装いをした浅黒い肌の妙齢の女性。黄金色の豪奢な巻き髪を垂らしている。
「セシリア、か?」
つぶやきに、彼女は顔を上げる。
冷ややかなまでに整った顔立ち。サキ・タ聖家の典型的な顔だなと私はぼんやり思う。
彼女は目許を緩ませた。
「あなた様がこちらへいらっしゃったということは、私はすでに今生での命を終えておりましょう」
落ち着いた声、静かな物腰。
ああ……そうだ。『守りの聖女』筆頭・セシリアは、そもそもこういう女性だった。
「まずは数々の御無礼をお詫び申し上げます。ようやくあなた様にお会いでき、はやる心を抑えきれませんでした」
セシリアは苦く笑い、再び頭を深く下げた。
「時がもうわずかしか残されておりません、殿下。国土の時間を凍結出来るのも、長くて半年が限度でしょう。崩れた『世界の柱』はすでに修復されております。これ以上モルクローネの時間のみを止めてはおけません。このままでは『世界の柱』は、モルクローネを不要なものとして消し去りましょう。あなた様は王、封印を解く鍵たるお方。一刻も早くあちらへ渡って封印を解かれ、正式にモルクローネ王として即位を宣言なさって下さいませ。それで国土はよみがえります」
「無理なことを言うな」
私は、絶望すら通り越した虚無の中からセシリアへ言う。
「今の私に何が出来る。それに、そもそも私はどうやってモルクローネへ戻ればいいのか、もうそれすらわからないのだよ。私の記憶は断片的で、ほとんどはユマリアと共に燃えてしまった……」
セシリアの顔に怪訝な表情が浮かぶ。
私は哀しく彼女……いや。彼女が残した、意識のかけらを見やる。
わかっている。
この『セシリア』は死を覚悟した彼女が残した、意識のかけらだ。
ユマリアが『忘れ箱』に私の中のオキ・タ・ニジュウスの記憶を封印していたことなど、知らない。
「細かいことはともかく。これだけははっきり申し上げられます。記憶は所詮、便利な道具のようなもの。無いよりははるかに、有った方がいいでしょう。しかし考えて下さいませ。封印を解くのは殿下の魂のお力で、国を安らかに治めるのは殿下の知恵と優しいお心。知識や記憶ではありません。一番大切なものさえあれば、後は些末なことでありましょう」
セシリアは柔らかく笑む。
「国土の時間が動き出せば、モルクローネの者は皆、蜂が花の香りに惹かれるように引き寄せられ、少しづつ戻って参りましょう。今生の生を終えた私も……いずれ」
そこではっと我に返った。
手の中には立方体の赤い箱。
(これは『守り箱』。『守りの聖女』の力を手に取れる形にしたものです)
セシリアの囁きが耳の裏辺りから聞こえる。
愛の囁きにも似た押し殺した声音。背筋がぞくぞくした。
(『守り箱』は国の鍵たるお方の手でしか開きません。封じられているのは『守りの聖女』の本能ともいうべき、王たるお方を守り導く為の力。モルクローネへの扉ともなり得ます。私を開け、なにとぞモルクローネへお戻り下さいませ)
一刻も早く。
最後にそう囁き、赤い箱は沈黙した。
私は改めて手の中の箱を見る。
手触りは、硬質のゴムとも柔らかいプラスティックとも言えそうな。てのひらへ吸い付いてくるような、かすかな湿り気。
上から四分の一ばかりに、よく見るとうっすらと筋がついている。右手の指でつまんでそっと上へ引くと、筋ははっきりと隙間になった。
(開けて下さいませ)
なまめかしいまでの囁きに、私はあわてて手を止める。
(どうする?)
混乱の中で自問する。
こちらにせよあちらにせよ、私に本当の意味での安住の場はなかろう。
ならば。
滅びかけた王国の再興に、今後を賭けるか?
いや。しかし。
何も知らないままただ現状から逃げるように、ひとつの国を興しにゆくのか?
滅びる国には滅びるだけの理由があった筈。
再興を望む悲壮な決意は、薄れてはいるものの衝動のように身体に心に残っている。
が、その滅びの運命にどうしても抗いたいほどの強い動機は、単に記憶がない以上に私の中から消え果てている。
でも。しかし。だけど。
私は改めて手の中の赤い箱を見る。
誘惑するように箱の赤は冴え、指先へじっとりと吸い付いてくる。
震える右手でもう一度、私は、箱の蓋に指をかけた。
【おわり】