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後悔のその先へ  作者: 神崎涼
7/7

 前の世界とは俺の職場が変わったので、借りる部屋の場所も変わったが、二人の希望をすり合わせた結果、前と似たような間取りの1LDKの部屋を借りることになった。

 二人暮らしは二年間ほど経験したはずなのだが、それでも入居初日は久しぶりの遥香との二人暮らしに少し緊張していた。遥香も初めての二人暮らしにやや緊張しているようだった。

 そういえば前の世界では、俺はもっと緊張していて部屋の中でずっとそわそわしてたな、なんて思い出す。また、遥香と一緒に暮らせるなんて、一年前には思いもしなかったことだ。

 相も変わらず家から持ってきた布団の上で、「こうして遥香と一緒に暮らせるなんて、幸せなことだなあ」なんてひとりごちていると、「洸一は最近よく幸せ噛みしめてるよね」と遥香に笑われた。

「あたりまえになってる幸せにも感謝しないとな」と返した。



 四月になって、いよいよ遥香は新社会人になった。俺も立場としては新社会人なのだが、初めて社会に出る不安や希望といった初々しい気持ちはなかった。


 何か月か仕事をして感じたのだが、自分にとって人生で二社目となる食品系メーカーは、前の会社とはいろんな面で大きく異なっていた。

 まず、企業としての規模が違うからか、社内の雰囲気の堅さが違った。前の会社も社員は皆明るい人たちだったが、今度の会社は明るいだけではなく、何というか社員同士の距離が近い。だけど不思議と、居心地の悪さは感じてはなかった。

 さらに、業務内容も営業が主だった前とは大きく異なり、事務作業がメインになった。仕事はまた一からを覚える必要があったので、前の会社の経験はほとんど活かせなかったが、それは他の人も同じ条件だ。

 前回は、要領がいいとは言えない俺は入社してすぐは怒られることも多かったが、さすがに二年間社会人を経験しただけあって今回はそこまで怒られることはなかった。


 自動車メーカーで働いていた頃には自分はこんな仕事をしていていいのかと悩んだこともあったが、今回はそんなことを悩むことはなかった。

 自分で考えて選んだ会社だということもあるが、それ以上に明確な目標があったからだ。その目標のために俺は働いているのだし、そう思えば今の仕事がとてもやりがいのあるものに思える。

 前の世界ではもう少し仕事に慣れてから、とかお金がたまってから、なんて言っていたが、これも今考えると結婚という大きな変化に怖気づいて逃げていただけだと思う。

 結婚したからといって急に大きなお金が必要になるわけではない。もう二度と遥香との別れがこないように、たとえそれが訪れそうになったとしても、それを全力で阻止しようとすることができる立場をなるべく早く手に入れたかった。


 夏頃には、来年の春に遥香にプロポーズすることを決意していた。同棲は順調に続いていたし、遥香ならきっと喜んでくれるに違いないと思っていた。


 違和感を覚えたのは、寒さが本格的に訪れ始めた十二月の日のことだった。二人で観ていたドラマの中で、主人公がヒロインにプロポーズするシーンが流れた。

 それまであまり結婚の話を出したことはなかったが、春にはプロポーズするつもりでいた俺は軽い気持ちで、「遥香は結婚とかどう思ってる?」と尋ねた。

 俺と、とは言わなかったがそれなりに前向きな返事が返ってくると思っていた俺の予想に反して、その答えは「まだ早いかなと思ってる」という消極的なものだった。


「え? そうかな?」


 確かにまだ就職一年目で、結婚を考えるのは早い方だとは俺も思っていた。

 しかし、消極的な返事を迷うことなくきっぱりと返されたので、少し拒否された気分になった。もちろん結婚を申し込んだわけではないので拒否されたわけでもないことは分かっているが。


「えー、早くない? だって仕事始めてまだ一年だよ」


 俺は「確かにそうだね」とだけ答えてその話題を切り上げた。万が一にも拒否されることが怖かった俺は、この日以降結婚の話題をできるだけ避けるようになった。


 しかし、心のどこかでこのままではいけないと思っていた。

 これでは優柔不断で怖いものから逃げていた昔の自分と変わらないじゃないか。せっかく過去に戻れたのに、自分が変わらなければどこかでまた失敗を繰り返すだけだ。一回のプロポーズに断られたってそれで終わりがくるわけじゃない。そんなことより、何も言えないままにまた遥香を失うことの方が怖いだろ、と自分で自分に言い聞かしていた。


 

 二人とも予定がなかった三月末の日曜日に、久しぶりにデートに行くことになった。社会人になって同棲を始めてから、デートとしてどこかに遊びに行く回数は大幅に減っていた。

 行き先は遥香の希望で水族館に決まった。水族館に行くのは二人の初めてのデート以来のことで、久しぶりの水族館に遥香は目を輝かせていた。


 ショーのイルカを見て歓声を上げる遥香を見ながら、初めて行った水族館で遥香の子供らしい一面を途轍もなく可愛いと感じたことを思い出す。

 

あれから長い時間一緒に過ごして、遥香のいろんな顔を見てきた。


 怒り顔も、泣き顔も、笑い顔も。


 その顔を、その全てを、これからもずっと隣で見ていたい。その気持ちが溢れかえったとき、その言葉は口から自然と零れ落ちていた。



「遥香、結婚しよう」



 ペンギンが歩き回っている屋外エリアから少し離れたところのベンチに座っていた時のことだった。自分の溢した言葉を数秒後に認識し、あれっ、と思った。

 確かに、密かに今日プロポーズできればと意気込んではいたのだが、どこかで夜景を見下ろしながらでも、なんてことを考えていたはずだ。

 見れば遥香も驚いた顔をしている。そりゃそうだ。まさかこんな場所、こんなタイミングでプロポーズされるなんて誰も思わないだろう。

 それに、遥香は前に結婚はまだ早いと言っていた。


「……その言葉はすごく、すごく嬉しいんだけど、やっぱり結婚はまだ早くないかな……?」


 ほらやっぱり。


「いや、あの今すぐじゃなくて!」


 言ってすぐに、そうじゃないだろと思い直す。


「……いや、やっぱすぐにでも」


 遥香は少し考え込んで、言った。


「私も洸一とずっと一緒にいたいけど、まだ二十三だし結婚したらお金かかるし」

「お金なんて今とそんな変わらないだろ」

「でも、私のお姉ちゃんは就職二年目で結婚したけど金銭面ですごく大変そうだったよ」

「お姉ちゃん、子どもは?」

「結婚してすぐ産まれたかな。というかほぼでき婚だったけど」

「だからだよ。子どもができればお金はかかるけど、そうじゃないなら同棲してる今とそんなに変わらないと思うよ」

「あ……確かにそれはそうかも。二十三歳で結婚なんて早すぎると思ってたけどお金に関してはそんな問題じゃないのかな」

「うん。そう思う」

「でもやっぱり少し早いと思うの。私もいつかは洸一と結婚できればいいなって思うけど、そんなに急ぐことでもなくない?」

「それは……、遥香とずっと一緒に生きられる資格が早く欲しくて」

「今だってずっと一緒に暮らしてるじゃない」

「でも、別れなければならない状況がこないとは言い切れないだろう?」

「それは結婚しても一緒でしょ?」

「それは……確かにそうだけど」

「逆に私は、結婚してても別れなければならないような状況以外では、付き合ってるだけの今でも別れるつもりはないよ」


 その言葉を聞いて、何かが胸にストンと落ちた。俺は結婚という言葉に固執していたのかもしれない。

 遥香から簡単に別れるつもりはないと、将来的には結婚したいと、そう言ってもらえただけで、俺の中にずっと在った焦りはあっさりと消えた。


「そっか。その言葉が聞けたら満足だな」

「そう?」

「じゃあ改めて……遥香、結婚を前提に、これからもよろしく」


 その言葉を聞いた遥香は、俺が今まで見た中で一番の笑顔で言った。


「うん、こちらこそよろしくね」


 それはまるでプロポーズに対する返事のように、俺の中に響いた。



  ♢ 



「早く早く。まだ迷ってるの?」


 玄関の方から遥香の急かす声が聞こえてくる。


「だって変な服装では行けないだろ。なあ、ネクタイどっちがいいと思う?」

「うちのお父さん優しいしどっちでも大丈夫だよ。それより早くしないと置いてくよー」

「待って、もう出るから!」


 持っている中で一番きれいな革靴を履いて外に出ると、春の暖かい陽気に身が包まれる。

 白いワンピースを揺らしながら前を歩く彼女が、自分が以前固執していた特別な関係になるまで、きっと長くはかからないだろう。

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