①
「なんだ今の夢……? それにこの紙……」
起きたばかりでよく頭が回っていない俺は、寝ぼけ眼をこすりながら枕の横に置いてある紙を手に取った。少し厚みのある十センチ角ほどの小さな上質紙で、歪んだ時計の絵が薄く印刷されている。こんな紙、昨日寝るまでは置いてなかったはずだ。
「過去に、戻れる……」
夢の中の声が言っていたことが正しければ、この紙に戻りたい過去を書けば戻れる……のか? 普段ならこんなあり得ない話信じるわけもないのだが、実際に全く見覚えのない紙が枕の横に置いてあったのは事実だ。
それに……もし本当に、過去に戻ることができるとしたら。その可能性が一%でもあるのだとしたら、それを試してみない手はない。そしてもし過去に戻れたら、もう一度遥香と……。そして、今度は絶対に……。
俺は部屋にかけていたスーツの胸ポケットからボールペンを取り出して、その紙に、俺と遥香がまだ大学四回生であった、三年前の四月と書いた。
♢
俺と遥香が出会ったのは、大学三回生の冬のことだ。同じ大学の違う学部に所属していた二人が知り合ったきっかけは、いわゆる合コンだった。
その一年ほど前に元カノに振られてからしばらく女っ気のない生活を送っていた俺は、同じ学部の友達である健治に、別の学部の女子数人と飲みに行くのだが来ないかと誘われた。
合コンというものに参加したことがなかった俺は、彼女はほしいけど合コンに行っても盛り上げられるタイプではないし……とかなんとか煮え切らない返事をした。
そんな俺に向かって健治が言った一言は鋭く俺に刺さった。
「洸一は相変わらずはっきりしねえなあ。前の彼女に振られたのだってそれが原因だったんだろ?」
そうなのだ。前の彼女に限らず、今までの女性関係の結末は大半が、俺が男らしくないとか決断力がないとかそんな理由によるものだった。
「今回は相手もおとなしめの子が多いみたいだし、お前でも大丈夫だよ」という健治の追い打ちを受けて、俺はその合コンに行くことになった。
人生初めての合コンは健治の言った通り、俺が思い浮かべていたよりもずっと落ち着いたものだった。男女三対三で、男側が俺と健治と同じ学部の篤史、女側は健治の友達で保育学部の恵美ちゃん、その友達の綾子ちゃんと、そしてもう一人が遥香だった。
健治は俺より明るい性格ではあるがチャラいというわけではなく、篤史も似たようなものだ。女性陣もまた三人とも大人びていた。
初めのうちは自己紹介や趣味のことなど合コンらしい話をしていたのだが、中盤を過ぎると時期的に迫ってきている就職の話で盛り上がっていたくらいだった。
「保育学部ってことは、やっぱり三人とも将来は保育士目指してるの?」
話を回すのは大概、合コン経験が豊富な健治だった。
「私はまだ迷ってるなあ。保育士以外でもやりたいなって思うこと出てきちゃって。綾子と遥香は保育士でしょ?」
「うん、保育士志望。遥香なんか子どものころから保育士になりたかったんだもんね」
「子どもって言っても中学生くらいからだけどね。小さい子どもが好きだったから」
「へー、中学生のときから! 俺なんか大学入るまで将来のことなんかぜんっぜん考えてなかったな。何となくって感じで文系にしたしさあ」
「俺も入るまでは健治と同じ感じだったな。今は金融系に勤められればって思ってるけど」
そんな話をするみんなの顔は将来の希望に満ち溢れていて、なんだか眩しくて、
自分だけが取り残されている気分だった。
「洸一君は? どういう職種とか決めてるの?」
遥香に聞かれた俺は頭を搔いた。
「俺は……特にまだ何も決めてないかな。やりたいこととか全然分かんないし」
「洸一は昔っからこういうやつでさ。でも何でか分からないけどなーんかうまくいくこと多いんだよな」
「褒めてるのか貶してるのかよく分からないなそれ」
そんな会話をしてみんなが笑った。遥香も楽しそうに笑っていた。
その後も大学生活の思い出などを話し、最後に各々が連絡先を交換して初めての合コンは終わった。
自分が想像していたより楽しかったし無難にこなせていたと思うが、それでもすごく疲れた。帰り道で健治に「後でちゃんと気になった女の子に連絡しとけよ」と忠告されたが、とりあえず早く家に帰って休みたかった。
大学から程近くのアパートの三階に上り、佐々木という表札が出ているのを確認して部屋に入る。大学一回生のころから一人で暮らしている慣れ親しんだ俺の部屋だ。
帰ってすぐに風呂に入り一段落ついたところで、健治の言葉を思い出した。気になった子に連絡しろ、か。
今日の三人の中では、遥香が一番好印象であった。というか三人とも悪い子ではなかったのだが、その中でも遥香が一番いいと思った。
落ち着いているがよく笑うし、それに話を聞くときにちゃんと俺の目を見て聞いてくれていた。話すことが得意というわけでもない俺にとって、遥香はかなり好みのタイプであった。
しかし……こちら側が好みだとしても向こうがどうかは分からない。合コンでもそんなに仲良く話していたというわけでもない。それに、連絡したとしてその後どうすればいいかもよく分からない。
そんなことを考えていると、ケータイからメールの着信音が聞こえた。
誰からだろう、と少しそわそわしながら確認すると、送り主は健治であった。お前かよ、と肩を落としながらメールを開く。
『もう連絡したか? 誰に送った?』
送るか迷っていた時に催促するようなメールが届いたものだから、なんだか見透かされている気持ちになってすぐに返信した。
『今送るところ。お前には教えない』
健治には勢いで送ってしまったが、言ってしまったからには仕方ない。俺は遥香に送るためのメールを作り始めた。
『遥香ちゃん、今日は楽しかったね。もしよければまた二人で遊びに行きましょう』
自分で打っておきながら、ありがちな安い文章だと思った。
しかし、他に考えてもこれは違うこれは変だと消してしまい、最終的にこの文章に落ち着いてしまったのだ。時間も気付けば日を超えそうになっており、これ以上遅くなるとまた送りにくくなるだろう。なるようになれと送信ボタンを押して、俺は布団に潜り込んだ。
次の日起きると遥香からの返信が届いていた。
『うん、楽しかったね。 私も行きたい!』
その短い返事に自然と笑みがこぼれた。心配だったが送ってよかったなと思いつつ、不服ながらも健治に少しだけ感謝することにした。
初めてのデートは合コンから二週間経った土曜日のことだった。遥香がイルカが好きだと言っていたので、水族館に行くことになった。
遥香はイルカに限らず海に住む生物が全般的に好きだったらしく、合コンでは大人っぽかった彼女が水族館では時々鼻歌も歌いながらウキウキとしていた。好きだと言っていたイルカのショーに至っては、まるで小学生にでも戻ったかという程のはしゃぎぶりだった。
俺も水族館は好きだし久々にショーを見て楽しかったが、それ以上に楽しんでいる遥香の姿を見るのが楽しかった。
昼前に水族館に入った俺たちは、日が落ちて空が暗くなるまで水族館を満喫した。
「あー、すごく楽しかった。今日は連れてきてくれてありがとね」
駅までの帰り道で遥香が嬉しそうににこにこしているものだから、少しからかってみたくなった。
「こちらこそ今日はありがとう。俺も楽しかった。あんなにウキウキしてた遥香ちゃんも見れたしね」
遥香の顔がかーっと赤くなる。
「やっぱちょっとはしゃぎすぎだったかな。水族館来たの久しぶりだったからつい……」
「いや、いいと思うよ。大人っぽいと思ってたから、可愛いところもあるんだなって」
話してからちょっと引かれるかなと思ったが、遥香は顔をさらに赤くして「ありがとう」と小さく言うだけだった。
また遊びに行くことを約束して、その日は解散した。もともと高かった遥香の評価がこの日でさらに急上昇したことに俺は気付いていた。この日にはもう遥香のことを好きになっていた。
その後夜ご飯を一回挟んで、三回目のデートで俺は遥香に告白した。三回生が終わった三月下旬のことだった。
「これから就活とか、遥香ちゃんは保育士試験の勉強とかもあって忙しくなると思うけど二人で乗り越えていきたい。遥香ちゃんのことが好きです。俺と付き合ってください」
その頃には着々と就活が始まっており、エントリーシートを書くだけで早くも自分の駄目さに嫌気がさしていた俺にとって遥香は心の支えになっていた。
遥香の保育士になりたいという夢も、隣で応援したいと思っていた。そんな俺の告白を遥香は喜んでくれた。
「私も洸一くんと一緒にいて楽しいし、就活も頑張れると思う。私でよければよろしくお願いします」
こうして俺には本格的な就活をこれからに控えた時期に彼女ができた。遥香となら頑張れると思ったし、遥香がいてくれれば就活だって何だってきっとうまくいくと思った。
しかし、現実はそんなに甘くはなかった。