第74話
四国は高知、山に通る国道を走るワンボックスカーが一台、道の端に止まる。
「ヤバい、ヤバい」
小学生くらいの男の子が車から飛び出てくると道路脇の藪に向かって立ち小便を始めた。
「ジュースの飲み過ぎだぞ」
運転席から出てきた父親が横に並んで連れションだ。
「もうっ! お父さんまで…… 」
「しょうがないわねぇ」
車の後部座席で母と妹が呆れ顔で2人が戻ってくるのを待っている。
その時、道路を挟む山々から何かが聞こえてきた。
「ヤッホォ~~、ヤァホホォ~~ 」
立ち小便をしながら父親が首を捻る。
「冬山登山でもしてるのかな」
「こんな山登れるの? 何も無い山でしょ? 」
隣で男の子が訊くと父親はブルッと震えてズボンのチャックを戻した。
「観光地でもないしな……まぁ世の中には物好きがいるからな」
「ヤッホォォ~~、イヤァッホォォ~~ 」
また聞こえてくる。先程よりも大きな声だ。
「何か近付いてくるみたいだよ、さっきより声が大きくなってるみたいだし…… 」
「寒い寒い、早く戻るぞ」
訝しがる男の子を置いて父親が車に駆け込んでいく、
「お父さんまってよぉ~ 」
小便を終えた男の子が慌てて父親を追って車の助手席に入ると同時に地響きが聞こえてくる。
ゴゴゴ……、大きな音を立てて山の斜面から岩が転がり落ちてきた。
「うわぁ~~ 」
「なっ!! 危なかったな」
叫ぶ男の子の隣り、運転席で父親が震える声を出した。
先程2人が立っていた場所に大きな岩が転がっている。
後30秒遅れていたら岩に当たって下手をすれば命を無くしているだろう、
「あぶ……危なかったわねぇ……早く行きましょう」
後部座席の母親に急かされるように父親が車を発車させる。
「あの声かな…… 」
男の子がぽつりと呟いた。
「声って? 何か聞こえたの? 」
妹が訊くと男の子が振り返る。
「ヤッホ~って聞こえただろ? 」
「ヤッホ~なんて知らないわよ、母さん聞こえた? 」
「さぁ、何も聞こえなかったわよ、車の中だからかしら」
知らないと首を振る妹の隣で母親も怪訝な顔でこたえた。
「やっぱりあの声がやったんだよ、石を落としたんだ」
男の子が前を向き直ると周りの山々を睨むように見つめる。
「なっ……そうかも知れないな、山彦って妖怪かも知れんぞ」
父親は一瞬顔色を変えたが直ぐに意地悪顔で隣の男の子を驚かすように言った。
外を見ていた男の子が父親に向き直る。
「ヤマヒコ? やっほ~って言う山彦じゃないの? 」
「昔な、妖怪のヤマヒコがいたんだ。山彦は音の反射だろ、やっほ~って叫ぶと反響して返ってくる自分の声だ。妖怪のヤマヒコは誰も何も言っていないのに突然聞こえてくる声の妖怪だ」
教えながら父親がタバコを咥える。
「お父さん! またそんな事言って怖がらせる」
後部座席から母親が叱りつけた。
「あははははっ、御免御免、お父さんもお爺ちゃんに聞いたんだよ、ヤマヒコは脅かすだけで人を殺したりの悪さはしないから、さっきのは偶然だよ」
父親は笑いながら言うとタバコに火を点けた。
「岩が落ちるのを見てヤマヒコが危ないから助けてくれたのかも知れないぞ」
「あっ、そうか、そうかも知れないね」
咥えタバコで運転する父親を見て男の子がニッコリと笑った。
道路を挟んだ山の頂上付近で笠を被り蓑を羽織った小僧が走り去る車をじっと見ていた。
「くそぅ……もう少しだったのに人間めが…… 」
憎々しげに言うと大きく口を開く、
「ヤァッホホォゥゥ~~ 」
大きな叫びに藪がザワッと揺れて木の枝で休んでいた鳥がボタッと地面に落ちていく、
「山鳩か……鳥など腹の足しにもならん」
感覚がおかしくなっているのか酔ったようにバタバタと羽を鳴らしてクルクル地面で回っている山鳩を捕まえると蓑を纏った小僧が山奥へと入っていった。
その様子を見ていた女がいる。
ハマグリ女房だ。手にコンビニの袋を下げている。
「うふふっ、妖音波攻撃か……呼子さん、使えそうですね」
小僧を追ってハマグリ女房が藪へと姿を消した。
山肌を刳り貫いた洞穴の中で妖怪呼子が捕まえた山鳩を生のままムシャムシャと食べている。
「誰だ! 」
口の端から山鳩の血を滴らせて呼子が外の藪を睨み付けた。
「うふふふふっ、敵じゃないわよ、同じ妖怪よ」
ガサガサと藪を掻き分けてハマグリ女房が姿を現わす。
「私はハマグリ女房と申します。先程の呼子さんの手際を見ておりました」
妖艶に微笑むハマグリ女房に呼子が怪訝な顔を向ける。
「ここらじゃ見ない妖怪だな、笑いに来たのか? 」
じろっと睨む呼子に臆しもせずにハマグリ女房が続ける。
「いいえ、その逆です。人間を驚かすだけの妖怪である呼子さんが人間を殺そうとするなんて……感心して思わず挨拶に来てしまいましたわ」
「ふんっ! 失敗を笑いに来たのだろう、あの人間は帰りもこの道を通るはずだ。次は確実に殺してやる」
不機嫌に鼻を鳴らすと呼子が山鳩に齧り付いた。
ハマグリ女房が洞穴の中へと入っていく、
「いえいえ、笑いなどしませんよ、ですが一つ聞きたい事があります」
向かいに座るハマグリ女房を見て呼子は齧り付いていた山鳩を脇に置いた。
「訊きたい事? なんだ? 」
ハマグリ女房がコンビニの袋からコップ酒を2本取り出すと呼子に差し出す。
「どうして人間を襲ったのです? 貴方はおとなしい妖怪です。人間にする悪戯も精々山奥で道に迷わせる程度と聞きました。それが直接人間に手を出すなんて……訳があるなら聞きたいと思って訪ねてきました」
「酒か…… 」
両手に1本ずつコップ酒を持つ呼子の前にハマグリ女房がコンビニの袋を置いた。
「つまみも買ってきたのですが……山鳩の後にでも食べて下さいな」
ニッコリと可愛い笑みを見せるとハマグリ女房が続ける。
「それでどうして人間を襲うのですか? 」
「そんな事を訊いてどうする? 止めろと言うのか? 」
疑うように睨む呼子の向かいでハマグリ女房が笑い出す。
「うふふふふっ、止めろなんて言いませんよ、寧ろどんどんやって欲しいくらいです。人間どもなど全ていなくなればいいと思っていますよ」
カップ酒を開けるとグイッと飲んでから呼子が話を始める。
「近頃の人間は山を大切にせん、手入れもせずに放りっぱなしだ。山に入った人間を俺が驚かしても単に声の反響だと言って恐がりもせん、挙げ句の果てに山に道路を作り自然を破壊しておいてその作った道路を整備もしない、雨の通り道である山の斜面に出来た小さな川を分断して潰し、行き場の無くなった雨水が山を荒らす。それもこれも全て人間どもの仕業だ。人間どもの身勝手をこれ以上許すわけにはいかん」
「そうでしたか……呼子さんのお怒りはご尤もです」
大きく頷くハマグリ女房を見て呼子が饒舌に続ける。
「そこで俺は山に近付く人間どもを襲う事にしたんだ。岩を落とし木を倒す。これまでに3人を殺し、20人ほどに怪我をさせたわ、雪でも積もれば雪崩でも起こしたものを……積もっていないので岩を落としてやったわ、梅雨になれば地崩れを起こしてやる。俺の山に近付く人間は全て殺してやるつもりだ」
ハマグリ女房がパチンと手を叩く、
「流石呼子さんです。仕返しを恐れて何もしない妖怪が多い中で貴方は恐れずに人間を襲っている。四国にも気概のある妖怪が居たのですね」
煽てるハマグリ女房の向かいで呼子が嬉しそうに奇妙な笑いをあげる。
「げひひひっ、当り前だ。俺は腰抜け妖怪どもとは違うからな」
グイッとコップ酒を飲むと呼子が声のトーンを落とす。
「だがな、俺の力じゃ岩を落とすのが精一杯だ。大雨が降れば地崩れくらいは起こせるんだがな、姿を見せて人を襲う事は出来るが、退治しに大勢が来ると流石に俺一人じゃ無理がある。だから俺の山を通る車を襲う事にしたんだ」
「力ですか……力が足りないと仰るのですね」
ハマグリ女房がキラッと目を光らせた。
「そうだ。俺にもっと力があれば人間どもなど全滅させてやるわ」
酔ったのか顔を赤くして呼子が嘯いた。
「ありますよ、力を手に入れる方法が」
にこやかに話すハマグリ女房の向かいで赤い顔をした呼子が目をギラつかせる。
「力を手に入れるだと? 本当か? 」
「はい、本当ですよ、そこらの高僧や呪術師などが足下にも及ばない霊力を持った人間がいます。しかも修業をしていないので碌に力も使えません、その人間を喰らえば大妖怪になれますよ、そうすれば山崩れや鉄砲水などで人間を襲う事も出来ましょう」
グビグビとコップ酒を飲み干して呼子が身を乗り出した。
「力のある人間か……どこにいる? 」
「この四国から少し離れた大阪に…… 」
ハマグリ女房が英二の事を説明した。
「げひひひひっ、その人間を喰らえば大妖怪になれるんだな、そうすれば俺の山に来た人間どもなど……いや、この山々を、他の山神などがいる山を俺の領地にできる」
下品に笑う呼子を見てハマグリ女房が旨くいったとほくそ笑む、
「但し、一つだけ厄介な事があります」
「厄介な事? なんだ? 」
「はい、霊力を持っている英二という人間には2匹の妖怪がついています。チビの妖怪と山犬です。その2匹が英二を守っています」
山犬と聞いて呼子の顔から笑みが消えた。
「山犬だと冗談じゃない、俺が敵う相手じゃない」
臆する呼子にハマグリ女房が懐から包みを差し出す。
「大丈夫ですよ、これをお使いくださいな」
「これは? 」
包みの中にあった呪術札を見て呼子が顔を顰める。
「さる高僧が作った御札です。これによって呼子さんは新たな力を得るでしょう」
「呪術札……新たな力か」
呼子がマジ顔でハマグリ女房を見つめる。
「何故こんなものを俺にくれる? 何が目的だ」
ハマグリ女房が口に手を当てて笑い出す。
「うふふふふっ、流石ですわ、他の妖怪とは違いますね」
「他の妖怪? 貴様、何を隠している」
呼子がバッと立ち上がって構えた。
ハマグリ女房が『まあまあ』と言うように手を伸ばす。
「落ち着いてくださいな、訳は話します」
呼子が座るとハマグリ女房が続ける。
「奴らは仇なのです。私には妹が居たのですが奴らによって殺されました。私たちハマグリ女房は料理妖怪と言われるように料理しか出来ません、戦う力など持っていないのです。それで妹の仇を討とうと他の妖怪に力を貸して貰っていたのですが……旧鼠も一つ目小僧も返り討ちに遭ってしまいました」
一つ目小僧の事を知っているらしく呼子が顔を顰めて話に割り込む、
「一つ目小僧がやられたのか……やはり山犬は強敵だな」
「ええ、もう一息だったのですが山犬ともう1匹のチビの妖怪に倒されました」
「チビの妖怪? 何者だ」
「私も詳しくは知りませんが電気を使う妖怪です。山犬と同じくらいに強い妖怪です」
「山犬と同じくらいか……強い妖怪が2匹ではな………… 」
険しい顔で口籠もる呼子を見てハマグリ女房がフッと笑う、
「大丈夫ですよ、その為に呪術札をお渡ししたのです」
「この札にどんな力があるというのだ? 」
「人間の高僧が霊気を込めた呪術札です。貴方の持つ妖気と混じって新しい力を生み出す御札ですよ」
妖艶に微笑みながらハマグリ女房が呼子に顔を近付ける。
「この札を使えば…… 」
耳打ちされた呼子の顔に笑みが広がっていく、
「そんな力が……それが本当なら山犬も怖くはないな」
「そうですよ、その為にお渡ししたのです。それを使って私の仇を討ってくださいな、そして英二を喰らって大妖怪になってくださいませ、そうなれば私は貴方の部下となりましょう呼子様」
様付けされて浮かれた呼子がハマグリ女房の肩に手を回す。
「任せておけ俺が仇を討ってやる。だからな…… 」
押し倒そうとした呼子からハマグリ女房がサッと離れる。
「冗談はおやめください……いえ、今はまだ早うございます。仇を取ってくれれば何でも致しましょう、貴方の僕となりましょう」
「げひひひひっ、わかった。わかった。仇は討ってやる。英二とかいう人間を喰らって大妖怪になってこの辺りの山々もお前も全てを手に入れてやるわ」
下品に笑いながら呼子が立ち上がると呪術札を丸めて飲み込んだ。
「ぐぐぅ……がっ、がが………… 」
苦しげに呻く呼子の体が光り出す。
「呼子様、大丈夫ですか? 」
心配そうに声を掛けるハマグリ女房の前で呼子の体が透けていく、
「げひひひひっ、心配無い、これが俺の新しい力だ」
向こう側が透けて見える半透明の姿で笑うと呼子がサッと手を振った。
「なっ……消えた……でも妖気は感じる」
辺りを見回すハマグリ女房の直ぐ横から声が聞こえた。
「俺は此処だ。消えたのではない、音波だ。素早く振動して見えなくなっているだけだ。飛行機のプロペラや扇風機の羽根が回ると見えなくなるだろう、それと同じだ」
呼子がスッと姿を現わした。
「おお、それが呼子様の新しい力ですね」
大袈裟に驚くハマグリ女房を見て呼子がニヤリと笑う、
「他にもあるぞ、電話だ。俺は電話を、通信を操る事ができる。以前の俺も少しは電波を操る事ができたのだが今の俺はどんな電波だろうと忍び込む事ができる」
「電話ですか……凄いですね」
「げひひひひっ、そうだ。俺は今から電話妖怪呼子だ。電話を使って人間どもを混乱させてやる。げひひひひっ」
大声で笑う呼子を見てハマグリ女房がスッと立ち上がる。
「では呼子様、私の仇討ちをよろしくお願いします」
英二の通う和泉高校が載っている地図を渡す。
「この学校を見張っていれば英二は直ぐに分かりますわ、くれぐれも妖気を隠して見つからないように気をつけてくださいね」
「げひひひひっ、わかった。罠に掛けるまで見つかるわけにいかんからな」
地図を受け取った呼子にハマグリ女房が頭を下げる。
「では私はこれで、呼子様、旨くいきましたら部下として参上致します」
頭を上げて微笑むとハマグリ女房がスッと姿を消した。
「げひひ……お前も消える事が出来るじゃないか、ハマグリ女房とか言ったな、油断ならん妖怪だ。だが構わん、俺が大妖怪になればそこらの妖怪など捩伏せてやる」
下品に笑いながら呼子が脇に置いていた山鳩に齧り付いた。
山道をハマグリ女房が下っていく、
「呼子か……一つ目小僧と同じレベルね、あの程度でどれだけ持つ事やら…… 」
立ち止まって呼子の居た洞穴がある場所を見上げると直ぐに前に向き直る。
「まぁ、今回はHQ様が作った御札の効果を見るだけでも良いですしね……水胆を渡して相乗効果で一気に倒すという事も出来るでしょうが英二くんに何かあれば大変ですから今回は御札だけで良いでしょう」
ハマグリ女房が歩き出す。
「しかし、単純なヤツで助かったわ、これで暫く時間が稼げる。愛しいあの人が動く前に私が英二を仕留めれば……その為にも手駒を用意しないと」
荒れた獣道のような山道を歩きながらハマグリ女房がほくそ笑んだ。