38 2つ目の指輪
水面に風の刃を叩き付けた反動で、俺の身体は空中に押し戻される。しかしやがては重力に引かれ、真っ二つに分かたれ、水面に浮かび上がった『ヌシ』の屍骸の合間に落ちた。
「……」
水は既に真っ赤に染まっていて、更にその色を拡散させていく。
あれだけの大きさの魚が死んだのだ、当然、流れる血の量も相当の物になるだろう。
(……これが、剣精霊の力)
水上に顔を上げて、もう一度大きく息を吸う。それから、元々巨大魚だった物を呆然と眺め、その力の強さに驚く。先程までは無我夢中でやっていたが、まさか本当に一撃であの巨体を倒せてしまうとは。
「……主様」
ぼんやりしていると、そう声をかけられる。
いつの間にか白色の剣はヒトの姿に変わっていて、俺の隣で水につかっていた。
「主様、大丈夫ですか?」
彼女は俺の事を見てそう聞いた。
『主様』というのは、俺の事だろうか。目の前の『ヌシ』と若干混乱しそうになったが、黒赤の剣が俺の事を『ご主人』と呼ぶような、そんな感じだろうか。
そうして改めて、俺は彼女と契約を交わしたのだという事を理解する。
「大丈夫です、なんとか。……ノーレさんは大丈夫ですか?」
「はい。こちらも大丈夫なようです。……どうやら、あの魚の血液に含まれていた大量の魔力が、一時的にこの場所の霊力を弱めているようですね。だからどうにも今は、この姿を保てているようです」
彼女は、まるでその事実を自分に言い聞かせるように言った。
「……」
俺はそこで、ノーレさんの手を握ったままだった事に気付く。剣を握っている感覚のままだったので、そのまま繋いでいたのだ。
彼女の手を離そうとしたところで、ぎゅっと握り返された。
「ノーレさん?」
「すみません、主様。……今は絶対に私の手を放さないで下さい。いつまた霊力が魔力に勝り、私が水底に沈んでしまうかわかりません。今でも少し沈みかけているくらいなのです。……それに、久々のニンゲンの温もりという物を、私はこうして感じていたいのです」
霊力が弱まっているというのが、俺にはどうにも良くわからなかった。
だが確かに、周囲には強い魔力が広がっているのを感じた。
だから彼女はこうしてヒトの姿を保てているのだろう。しかし油断すると彼女の身体は沈みそうになってしまうのか、ノーレさんは必死にもう片方の手で水をかいて浮かぼうとしていた。
「……ノーレさん、待ってて下さい。今すぐ水の無いところに戻ります」
「いえ、少しだけ待って頂けますか。まだ天井の穴が塞がるには若干の余裕があるようです。……どうしても、探したい物があるのです」
「探したい物? ……わっ!」
疑問符を浮かべる俺をよそに、彼女は俺の首に両手を回して抱きついてきた。
「ノーレさん?」
「……抱きしめていて下さい。これで、もう沈まなくて済みますから」
ぎゅう、と両腕に力を入れながら彼女はそう言った。
吐息が首にかかってくすぐったい。
おそらく、契約によって『実体化』を果たしたからだろう。密着する彼女からは、人間のようなやわらかな肉の感触と、ほんのりとした体温を感じる事が出来た。やはり水の中に長い時間を過ごしていたからか、その身体は冷えているように思えた。
そこで俺はやっと、あの魚から助かったのだと実感が沸いてきた。
……と同時に、少女に抱きつかれているという恥ずかしさも感じてしまったけれども。
「……」
「……主様、えっと……あの左側の屍骸に近づいて貰えませんか」
一方のノーレさんは、精霊故にニンゲンと触れ合う事をどうも思っていないのか。最初に会った時同様のあまり起伏の無い声で、屍骸の片一方を指差してそう言った。
死んだとはいえども、その分割された巨体は威圧感を放ち続けていた。
もう動かないとわかってはいたものの、それでも先程まで命を狙われていたのだ。やはり少し思うところがある。近づくには少しばかり抵抗があるけれども、彼女の言う通りにした。
「もう少し、もう少し先に行って下さい。……もうちょっと……はい、そこです。そこ」
彼女に指定された場所までやってくるなり、ノーレさんは少しだけ考えてから、おもむろに片方の手を屍骸の中に突っ込んだ。そうして、ごそごそと腕を動かしていく。
(何かを探しているのか?)
「……みつけました」
やがて、そう彼女は呟くと、腕を魚から引っこ抜く。一度水の中につけて汚れを払った後、その何かを俺に見せてくれた。
それは指輪だった。
俺が左手につけている装飾具と、似たような形をした物だ。
「『精霊の指輪』です。ずっとこの身体の中から、その存在を感知していました」
「……」
――私の以前の契約者も、それを身に着けていましたから
つまりは……そういう事なのだろう。
この指輪は400年もの間、消化も排泄もされずに『ヌシ』の体の中にあり続けていたという事だ。
しかし、流石は伝説級のアイテムと言ったところだろうか。白色の剣と同様に、気が遠くなる程の期間、水中にあり続けていたというにも関わらず、変形している様子も、錆びている様子も無かった。魔力の為せる技なのだろうか。
「主様、もし良かったらなのですが……これは主様が身に着けて頂けませんか?」
そう彼女は俺の顔を見ながら言った。
抱きついているせいで顔が近かった。
「俺がですか?」
「はい。以前の契約者の物など、貴方は嫌がるかもしれませんが……私にとっては、どうしても思い入れのある物なのです。本当は自分で持っているのが一番なのでしょうが、私は剣の姿となる以上、どうしても装飾具を身につけ続けるという事が出来ません。……ですから、これから私の一番近くにいる事になる主様に、これを身に着けていて欲しいのです。……駄目で、しょうか?」
彼女は首を傾げて聞いた。
「そういう事なら。俺でいいなら、持っていますよ」
「すみません、我侭を聞いて貰って。……では主様、左手を貸して下さい」
ノーレさんはそう言って俺の左手をとると、迷うことなく薬指にその指輪をはめた。
これで俺の左手の薬指には、2つの指輪が並んだ事になる。
「……まさか、本当にもう一度、この指輪が私の傍に戻ってくるとは思っていませんでした」
彼女は俺の左手を掴んだまま、感慨深そうにノーレさん言った。
「かつてこの指輪は、いつも私の傍にあった物なのです。この400年の間は少しばかり離れた場所にありましたが、1日として私はこの指輪の事を忘れたことはありませんでした。そのせいで憎く思う時もありましたが、それでもこうして手元に戻ってくると嬉しい物ですね。……ですから、主様、本当にありがとうございます。私と契約して頂いて。巨大魚を倒してくれて」
そう言って、今度は指輪を撫でるようにして、指輪に向かって小さく呟く。
「……お久しぶりですね」
一瞬、彼女が笑みを浮かべながらも、頬を雫が伝った気がした。
「ノーレさん……?」
しかし、俺が声をかけた瞬間に、彼女は剣の姿へと戻ってしまった。
周囲の魔力が薄くなっている事に気付く。巨大魚の屍骸から流れる魔力が蒸発し、彼女も力を保てなくなってしまったのだろう。
『主様、こんな場所からは早く出てしまって、外の世界に戻りましょう』
そう彼女の思念が俺の頭の中に響く。
それは泣いているようにも聞こえたし、少しばかり喜んでいるような声にも聞こえた。