幕間 剣精霊ノーレ⑥
次で終わります。暗い話ですが、救いはあると思います。本編は明るい話になっていく予定です。
そして、その時は何の前触れもなくやってきてしまう。
『主様! 離れて!』
「え……っ?」
迷宮が形を変え、その影響で床が崩れ落ちる。
小太刀として彼女の腰にいた私は、唐突の事に彼女を護る事も出来ないままに、彼女と共にその場所へと落ちていく。ニンゲンを持ち上げる程の魔力を出す為には、どうしても契約者の魔力が必要だった。彼女にはそんな魔力が無かった為に、どうする事も出来なかった。崩落に巻き込まれた時には、もう何もかもが手遅れだったのだ。
水中に落ちた私達精霊は、皆一様にパニックに陥った。
ヒトの姿になれず、力もまったく使えない。
このような現象を経験をした者は誰もおらず、一体何が起きたのかを上手く理解する事が出来なかった。
『駄目だ!』
『力が出ない!』
『なんで!』
『逃げてマスター! 早く逃げて!』
『どうして!』
『来ないで!』
そこからは、とても短い時間の出来事だった。
水中に落ちた私達の前には、巨大魚が居た。
400年前は今よりまだずっと小さかったものの、それでも十分にニンゲンを捕食できてしまう程の大きさと牙を持っていた。しかし、もし私が十分に力を発揮する事さえ出来ていれば、魔法の遣えない彼女でも勝てていたかもしれない。
私が十分に力を発揮する事さえ出来ていれば。
『……どうして!』
私は困惑のあまり、そう声を上げた。
水の中に落ちたその瞬間、私はいつもの小太刀の姿から、本来の剣の姿へと戻ってしまっていたのだ。
この2年間戻る事もなく、彼女が苦手だとしてまったく振るえていなかった剣の姿に。
『主様! 逃げて!』
『マスター!』
小精霊達が叫び、私達精霊が皆狂乱する一方で、彼女はどうやらこの状況を誰よりもいち早く理解してしまったようだった。
この状況がもう既に、どうしようもなく絶望的だという事に。
「……」
もう水面への浮上も間に合いそうになく、かと言ってその巨体から逃れられそうにもない。
そんな状況で彼女が取った行動は、身につけていた『装飾具』を急いで手放していくという事だった。
『主様!?』
『マスター! 何を!』
『なんで!』
『マスター……』
『やだ! やだやだ!』
『やめて、離れたくない!』
その装飾具とは、ヒトの姿に戻れない『小精霊』達だった。きっと彼女は、これから起こる事に『小精霊』達を巻き込むまいとしたのだろう。『小精霊』達は声を上げながらも、抗うことも出来ずに彼女から手離され、水底へと沈んでいく。
6柱の『小精霊』達を手放し終えた彼女は、最後に私にも手を伸ばす。
そうして、困ったような表情で私を見て――
「ごめんね」
ニンゲンにとって、水中で言葉を発しようなど、自殺行為に等しいにも関わらず、彼女はそう口を開き私を手離した。
言葉はそれでも思念となり、はっきりと私の元まで届いた。
『……え?』
彼女から手離された次の瞬間には、彼女は私の目の前から消えていた。
巨体が彼女を捉えたのだ。
その姿が見えなくなってからも、少しだけ彼女の思念は続いた。彼女は苦しみながらも、必死に言葉を続けようとしていた。まるでどうしてもそれを、私に伝えなければならないと言ったように。
「満足させられなくて、ごめ――」
そこで唐突に言葉が打ち切られ、以降、二度とその声は聞こえなくなった。
『……』
彼女はまだ契約の範囲内にいるはずだった。なのにその思念が届かなくなる。私はそれがどういう事なのかを知っている。
もう今までに何度も経験した事。
契約が『終了』したのだ。
『……満足』
私はそう呟きながら、抗えない力によって、水底へと落ちていく。しかしその声はもう彼女には届かない。
『満足……してないわけ、ないじゃないですか』
どうして私はその事を、きちんと彼女に伝えていなかったのだろうか。
◇◆◇◆◇
目の前で起きた現実を受け入れられず、ただ呆然と水底に向かって沈んで行く私を追いかけるようにして、巨大魚が近づいてくる。
彼女は私を逃がそうとしてくれたが、どうやらそれも無駄に終わってしまうらしい。
いくら私でも、力の出せないこの状態であの牙に噛み砕かれようものなら、流石に助かりはしないだろう。力を発揮できない以上、光の粒子となり逃げる事も、魔力を行使して抵抗する事も出来はしない。
迫り来る巨体を前にして、私は諦観を決めるより他無かった。
……私は今まで多くの魔物を斬って来た。
だからこんな風に、魔物に殺される終わり方になっても文句は言えない。
それは十分過ぎる程にわかっていた。
(ああ、でも欲を言えば……せめて最期にもう1度だけでも、あの心地良い『精霊の指輪』の魔力を感じたかったな……)
と私はいつも感じていたあの至福の時間に思いを馳せる。
巨大魚はもう眼前まで迫っていた。
その巨体からは、魔力を感じた。
それは間違いなく『精霊の指輪』の魔力だった。彼女の左手の薬指にはめられていたはずの物だ。おそらく、彼女と共にあの大きな体の中に飲み込まれてしまったのだろう。だが指輪はその場所を変えても、私が彼女と会った時からずっと変わらない、私にとって気持ちの良い魔力を放ち続けていた。
その魔力こそ、私の求める心地良さ――
――では、なかった。
(ああ、なんだ、やっぱりそうだったのか……本当に馬鹿だな、私は……)
その魔力が私の求めていた物でないと感じた私は、そこで今まで思い違いをしていた事に気付かされる。
本当にどうしようも無い程に、愚かな思い違いだ。
私が彼女に興味を持ったのは、間違いなくその『精霊の指輪』の魔力があったからだ。それに、契約したての彼女に抱きしめられる事を許せたのもその『指輪』が心地よい魔力を放ってくれていたお陰だ。だけど私は彼女と過ごしている内に、いつしかその『指輪』よりも、指輪をつけている『彼女』自身に、満足感を覚えるようになっていたのだ。
そう、私が本当に幸せだと感じていたのは、『指輪』の魔力にではなく『彼女』に抱きしめられている事にだった。
私が最期に望んだ光景も、彼女に抱きしめられ、その温もりを感じながら、指輪に触れているという瞬間だった。
本当は、ずっと前からその事に気付いていたハズだった。だけど私は、素直になれず、その事からずっと目を背けて気付いていないフリをしていたのだ。
だって、それを認めてしまうという事は……私が彼女の事を、契約者の彼女の事を、好きになっていると認めてしまう事になるからだ。
まさか、こんな時に、それに気付いてしまうだなんて……。
私は本当に馬鹿だな、と思った。
好きな相手が、死んでしまってからその事に気付くだなんて。
(『満足している』という事も伝え損なったし、彼女の事が好きだという事にも今更気付くだなんて……本当に私はどうしようもない契約精霊だな……)
だけど、もうどうしようもない。
彼女はもうこの世にはいないのだし、私ももう助からないだろう。
私は視覚情報を遮断して、その最期の瞬間を待つ事にした。
(……ああ、彼女に会いたいな)
せめて数秒だけでも良いから、彼女に会わせて貰えないだろうか。
会って、最後にもう1度だけで良いから、いつものように抱きしめて貰えないだろうか。そうして、彼女の腕の中でいつもの心地よさを感じたい。今ならきっと、私は彼女に『もう満足している』という事を恥ずかしがらずに伝えられるのに。きっと今なら、私は、私が彼女の事をどうしようもなく好きになっているという事すらも、素直に伝える事が出来るはずなのに。
◆◇◆◇◆
しかし、いつまで経ってもその衝撃が私を襲う事はなかった。
それどころか、地に足がつく感覚がやってくる。
……もしや私は巨大魚の牙に砕かれず、丸呑みされてしまったのだろうか。
そう思い、恐る恐る、視覚情報を働かせる。
『……』
気付けば私は水底に沈んでいて、魚はいつの間にか、私に背を向けて遠くに去っていた。
(……どういう事だ。私はまだ生きているのか?)
『ノーレ!』
『良かった!』
『もう駄目かと思ったんだから!』
『怪我はない?』
『大丈夫?』
『いたくない?』
と次の瞬間、私に向けていくつもの思念が飛んでくる。それは皆一様に、安堵の色を帯びていた。思念の方向に目を向けると、そこには私よりも先に『彼女』の手を離れていた『装飾具』達が、私と同じく水底に沈んでいた。
『……皆さん?』
『ああ、本当に良かった。みんな、本当にもうノーレも食べられちゃうのかと思ってたから』
呆然としている私に、小精霊達はそう言った。
それから私が目を閉じた後に、何が起きたのかを説明してくれた。
私の眼前まで迫っていた巨大魚だったが、私の事を品定めするかのような目で見た後、急に私から離れていってしまったらしい。小精霊達が考えるには、大方『彼女』から手放され、微量の魔力を放つ私を追って来たは良いものの、それが何の腹の足しにもならないただの『剣』だという事に気付いたが故に、魚は興味を失ったのではないかと言う事だった。
どうやら今の剣精霊は、彼にとって『エサ』でも『敵』でもなく、食べる価値も殺す必要も無いただの『モノ』でしかないようだった。
『……でも、本当に良かった。ノーレまで死んでいたら、私達はどうしようかと思っていた』
と小精霊の1柱が、ほっとしたように言った。
ノーレまで死んでいたら。
その言葉が意味する所を、私が理解するまで、そう時間はかからなかった。
確かに私は助かった。生きている。小精霊達も無事だ。巨大魚にとっての『捕食対象』でない以上、もう私達が襲われる事もなく、安全だろう。
皆がいる。私を含めて、いつもの7柱。声をかけてくれている。だけどその中には、あの声だけだはない。今ここには、私達の中には、いつも中心いるハズの『あの人』だけがいないのだ。いつも私の傍にいて、抱きしめてくれていたあの人だけが。
そう思うと――
『……ノーレ?』
『ノーレ、……大丈夫?』
『……悲しみの波長……もしかして、ノーレ』
『……ノーレ、泣いてるの?』
『ノーレ……』
『ノーレ、泣かないで!』
私は生まれて初めて、契約者を失って『寂しい』と思った。
どうやら寂しいという感情は抑える事が出来ないようで、感情が止まらなくなるらしい。きっと今ヒトの姿になっていれば、涙が出ていた事だろう。あの夜、眠っていた彼女が涙を流していたように。
私はそれを見下してしまったが、もし私がヒトの姿になって泣いていれば、彼女は私を慰めてくれるだろうか。抱きしめてくれるだろうか。
いいや、そんな事はありえないのだ。だって彼女はもう、私達の前に現れる事はないのだから。
私は皆がかけてくれる声に返事をする事も上手く出来ず、しばらくの間、ただただ嗚咽を上げ続けた。どうしてもそれを止める事が出来なかったのだ。