キトとオグリ
グラン大陸北部。そこに、一つの巨大な山がある。緩やかな所と切り立った所が複雑に入り組む迷宮のような山。
その名は「ガイガン」。この土地の古い言葉で自然を愛し、人を憎む巨人を意味する言葉だ。
ひどい吹雪の日だった。雪を乗せた風が吹き荒れ、入り組んだ地形のせいで風鳴りがひどい。
十六歳の少年・キトはそんな最悪の天候の中、木を風除けにしながら歩いていた。それでも、その脅威は和らぐことはない。分厚い防寒着があまり意味を成していなかった。
手は悴み、肩紐を握ったボルト式の猟銃が小刻みに震える。
「く……」
慣れ親しんだ土地とはいえ、この寒さに慣れることは恐らく永久にないだろう。
キトはこの日、ガイガン山に狩りに来ていた。狩りを禁じられる春までに、約一年間の食料を溜めておくためだ。彼らの部族は山の麓、崖を背にした里に住み。春夏を農業に、秋冬を狩りに費やし、年に数回来る行商人と銃・弾薬や日常品と肉や野菜、民芸品を交換して成り立っていた。
キトは幼くして両親を失い、家に一人で住んでいる。そのせいか早くに自立し、狩りの腕は村で十の指に入るほどにまでなった。彼は十六という歳に似合わず、冷静で鋭かった。
順調に歩みを進めていたキトはある一点で立ち止まる。しゃがみ込み、雪の中から引きずり出したのは獲物の足に噛ませるタイプの罠だった。しかしそれは、見事にひしゃげていた。
「踏み潰されてる……? 兎用の罠だけど、いくらなんでもこれは」
雪が深くなったため、罠を浅く設置しなおそうと辺りを回っていたのが思わぬ収穫を得た。キトは周りを見渡し、自分の右斜め一メートル位に視線が止まる。歩み寄り、その縁をなぞる。
「わずかに窪んでる。この時期の大雪だと、足跡は10分くらいしか残らない……。まだ、そう遠くに行ってないな」
感覚を澄ましながら呟く。それと同時に、獲物への思考も展開する。
(それにしても、罠を踏み潰す足を持った動物か……。相当硬い足を持ってることになる。でも、あの潰れ方は足じゃあない。罠の歯には、血どころか削った皮膚もなかった。もっと硬い物、例えば……)
その時、
ィィ
「!」
どこからか、鳴き声が聞こえた。
(どこだ!)
瞬時に身を屈め、辺りを見通す。耳で入り組んだ風を読み、声のした方向へ走り出した。
少しして、キトは近くの木に身を隠した。視線の先、比較的なだらかなそこに巨大なイノシシがいた。ガイガン山の特有種、ガイガンオオイノシシである。
目測で優に四メートルはあるだろう。ガイガンオオイノシシの中でも大きな部類だ。キバだけでも、キトの背丈と同じくらいはありそうだった。
(でかい。なるほど、罠が踏み潰される訳だ。『 蹄 』でな)
キトは木の裏で息を整え、気配を殺す。そして、ゆっくり木から出て歩み寄った。
イノシシはこちらに気付くことなく、強風の中佇んでいる。彼らにとってはこの吹雪も、粉雪となんら変わらない。そのくらいイノシシたちは屈強なのだ。もし気付かれたら、ただでは済まない。
この強風に、弾が逸れない距離までの接近に成功したキトは、程度のよい木の裏に隠れた。
装填済みの猟銃を構え、狙う。標準機がイノシシの頭を捉えた時、急にイノシシは鼻を震わし、こっちを見た。
(やばい、風で臭いが流れた!)
めちゃくちゃに入り組んだ風が、キトの不利に働いた。彼は猟銃を構えるのをやめ、木から飛び出す。
直後、地面を揺らすような轟音が響き渡った。メキメキッ嫌な音を立てて、先ほどまでキトがいた木がゆっくりと折れる。雪の上を転がったキトは顔を上げると、イノシシは小さな生き物を睨み、すぐに凄まじい突進を繰り出してきた。
まともに食らう事は許されない。食らえば骨が粉砕され、内臓が破裂することは免れない。彼はいつか見た死体を思い出し、悪寒と共に転がる。目の前を、巨大なイノシシの足が通りすぎた。
体を起こしたキトは猟銃を肩に背負い、急いで山を駆け上がる。後ろから、木々を薙ぎ倒す音が迫ってくる。
(早く、斜面の急な所へ。そうすれば、多少なりにもイノシシの突進力が弱まるはず……!)
小刻みに方向を変えるキトと、正に猪突猛進で走り続けるイノシシ。
両者の差は一向に縮まらなかった。そして、とうとう斜面の急な所に出た。キトの思惑通り、イノシシの突進が収ま――らなかった。
「なっ」
イノシシはさきほどと一切変わらぬ速度で、キトの横をかすめていった。キトは反射的に、自分の横にある巨大な肉の塊に猟銃を向ける。破裂音が一瞬の間隔を置いて二回響いた。
ブギィッ! ブギィィィィィ!
背中に銃弾を受けたイノシシは悲鳴を上げ、その間にキトは木の陰へと隠れた。
キトはそのままイノシシが倒れてくれるのを願ったが、数秒後には平然としていた。しかしその目は憤怒に燃え、自身を狙う者に強大な威圧を与える。
(さっきので仕留め切れなかったのは痛かった……)
難を逃れた安心感か、息の根を止められなかった焦燥感からか。キトはボルトハンドルを起こし、手で前後に往復させて次弾を装填した。
ガシャコッ
装填直後、致命的ミスに気付く。
「しまっ――」
その後に言葉は続かなかった。背を預けた木が粉砕したからである。その衝撃に、キトも木片と遠くへ飛ばされた。やわらかな雪の上に落ちて、何度か転がった後、体はうつ伏せに止まる。
つぶってしまった目を開けると、十数メートルほどの前の所で、イノシシが後ろ足で地面を何度も蹴っていた。
止めを刺そうとしている。
それが理解できた瞬間、キトは素早く立ち上がろうとした。だが、
「ぐっ……!」
雷のように、激痛が体を走った。片膝をつき、脇腹を押さえる。どうやら痛めたらしい、肋骨が折れているかもしれない。それでも、彼は猟銃を杖として使い立ち上がった。
(この程度で済んでるだけマシだ……!)
そうやって自分を奮い立たせ、よろけながらも突進を寸でで避けようと身構える。
ふと、目の端に大きな岩石が映った。
「なん、だ?」
そこに目を向ける。なぜだか、妙に気がいく。その理由を理解する前に、イノシシは地面を大きく蹴った。足に地鳴りを感じ、彼は岩に向けて走り出した。
(こうなったら破れかぶれ、自分の直感を信じるしかない)
そう、理由は不明。端から見れば無謀。されど、行けばこの状況を打開できる気がした。イノシシはすぐ後ろまで迫っている。もはや、小刻み進行方向を変えることなど叶わないキトは必死で走った。
必死で走って、岩石の前に来た時、キトは知った。
(そうか、これを使えば……)
次の瞬間、キトは奇行に出向いた。その場で止まり、振り返る。
後ろは岩、逃げる道はない。イノシシは目の前まで来ていた。
パン、と破裂音がして、
ブギィィィィィィィィィィィッ!!
イノシシは走りながら、叫び散らす。片目からは紅色の涙――鮮血が流れていた。キトは振り向いた瞬間、イノシシの目を狙って弾丸を放ったのだ。痛みに方向感覚を失ったイノシシは、さらに速度を上げる。しかし、目の前にもう敵はいない。
キトは銃を撃った瞬間に横に飛び退いている。
今、イノシシの目の前にある物、それは当然――岩石。
イノシシは凄まじい勢いで衝突し、岩石が砕け散る。
驚くことはない。あのイノシシの突進力を考えれば、むしろ当たり前と言っていい。しかし、イノシシは足をふらつかせている。これも当たり前、岩石と木では訳が違う。あの速度でぶつかったのだ。
もちろん、脳震盪を起こす。
キトは撃ち抜いた片目から素早く近づき、イノシシの大きな頭に銃を向け、至近距離から残りの弾、八発全てを撃ち込んだ。
銃口から煙が生まれ、その先には無数の風穴を開けたイノシシの頭。
その下の目は、光を失っていた。
「はぁ、はぁっ」
荒く、白い息を吐きながら、キトは達成感に震え上がった。数瞬して、イノシシの体が傾く。
キトに。
「……!」
急いで後ろに飛び退ったが、背中が木にぶつかってしまった。
しかし、驚きによる硬直もなく木の横をすり抜けようとする。この動きだけで彼がどれだけの場数を踏んだ優秀な猟師かわかる。だが残念なことに、時すでに遅し。
キトはイノシシの下敷きになり、意識を失った。
耳をつんざく風鳴りと肌を刺す寒さで、キトは目を覚ました。
「ん、うぅ……」
ゆっくり身を起こそうとして、できなかった。
「ああ、くそっ。そうだった……」
キトが自分の体を見てみると、下半身が見事にイノシシの下敷きにされていた。あの時、飛び退ったのは正解だった。でなければ今頃、この巨体に押しつぶされていたに違いない。
キトは足を動かしてみる。感覚はあるし、折れてはいないようだ。この程度で済んだのは、まさに不幸中の幸い。
しかし、動うことはできない。吹雪は収まることなく、余計に酷くなっている。
(これじゃあ、照明弾を撃っても意味がないな……)
腰のそれをさすりながら、嘆息する。
「吹雪が止むのを待つしかない、か。幸い。ここには、食料も毛皮もある」
呟きつつ、懐から肉切り用のナイフを取り出して、眼前の肉の塊に突き刺した。死んでかなり経っているらしい。肉は硬く、血は出なかった。キトは生肉を食らい、皮を剥いで毛布にした。
腹を満たし、体に毛皮を被せたキトは吹雪が止むのを待ち続けた。
そんなキトの前に、それは現れる。物音がしたかと思うと、それは崩れた岩の向こうから出てきた。
「っ!!」
キトは驚き、自分の運の悪さを呪った。なぜならそれが、このガイガン山で最も強く、決して近づいてならない生き物だったからだ。
三メートルはあるであろう巨大な体躯を揺らしながら迫る、その生き物の名前を彼は呼んだ。
「オオグリズリー……」
眼光は鋭く、その牙は全てを噛み砕き、その爪は全てを薙ぎ払う。屈強な体は、イノシシの突進さえたやすく受け止めるだろう。グリズリーはキトの前で、二本足で立ち上がった。
そうなると、その威圧感は何倍にも増した。しかし、彼は怯まない。
グリズリーを鋭い目で見据える。向こうも同じような目でキトを見ていた。そして、その巨体が動き、太い腕を振り上げる。それでも、キトは目を離さない。
お互いにお互いを見つめ合う。
ふいに、グリズリーの視線が下に逸れたのに気付いた。視線を追うと、グリズリーはイノシシを見ていた。それを見て、キトは納得する。警戒を解いてグリズリーに言った。
「食べていいぞ」
わかったかはわからないが、態度でそう感じたのだろう。グリズリーは前足を下ろすと、イノシシの肉にかぶりついた。
グリズリーの目的は、最初からキトではなかったのだ。
安心して、グリズリーの食事が終わるのを待つ。その間に、グリズリーを観察する。よく見ればまだ若いオスのようだった。よほどお腹を空かしていたのだろう、さっきの威圧感は空腹によるものだと思った。
オオグリズリーという生き物は、知性が高く、なにより誇り高い。それゆえに、縄張りというものに非常にうるさかった。キトは最初、自分が縄張り入っていたのかと思ったが、どうやら間違っていたらしい。
このグリズリーはイノシシの匂いを嗅ぎつけて来たが、そこにキトがいて、このグリズリーはイノシシの持ち主がキトと悟り、手出しができなかったのだろう。誇り高いグリズリーたちには「他人の物に手を出さない」という習性があった。
これが、もし残虐で獰猛なガイガンキバコヨーテの群だったら、キトは一瞬の内に喉を噛み切られていただろう。
程なくして、グリズリーの食事は終わった。難なくイノシシを三分の一ほど平らげて、そのまま帰ると思っていたが、キトの予想は外れた。
グリズリーはおもむろに立ち上がったかと思うと、イノシシの体を持ち上げて、キトからどかした。そして、このグリズリーはキトに寄り添って寝転がったのだ。
「……」
キトは呆然と、横たわるグリズリーを見ていた。こっちを見たグリズリーはやけに優しい目をしていた。彼はグリズリーの頭に手を伸ばし、鼻の頭をなでた。すると、グリズリーは気持ちよさそうに目をつむる。
(恩返し、のつもりなのか?)
それとも、先ほどの見つめ合いで何かを認められたのか、キトにはわからない。しかし、これだけでは言えた。
「温かい、な……」
グリズリーの温もりに包まれて、段々まぶたが重くなってきた。
「これ、なら……寝ても、大丈、ぶ………」
それだけ言うと、キトは毛皮を深く被り、寝てしまった。
キトが次に目を覚ましたのは、朝になり、日が昇った頃だった。
横を見ると、グリズリーはまだ寝ていた。
(オオグリズリーは、冬眠しない代わりによく寝るからな)
心の中で呟いて、起こさないように立ち上がり、体のあちこちを点検した。足は歩けるほどにまで回復し、脇腹は違和感が残るものの痛み自体はなくなっていた。
それらを終える頃に、グリズリーはようやく起きた。
「おはよう、オ――」
オオグリズリーと言おうとして、なんだか味気ない気がした。その瞬間、思いつく。
「――オグリ」
呼ばれたオグリは、不思議そうな表情をしていたが、やがて自分のことだと理解したらしく、こっちに来ると頭を下げてきた。キトが頭をなでてやると、とても気持ちよさそうに鳴いた。
そして二人(一人と一匹)が朝食にイノシシを食べると、従来の二分の一にまで減ってしまった。
(これじゃあ、持ち帰ってもみんな落胆するだけだろうな)
と思ったキトは、イノシシをオグリにプレゼントすることにした。どうせ、予定になかった収穫である。わざわざ言わなければ、咎められることもない。ただ山で一晩明かした理由を考えなければならないが、オグリと出会えたことを思えば安い代償だ。
そして猟銃を持ったキトと、イノシシを咥えたオグリはその場で別れた。
その後、キトがガイガン山に来るとオグリが必ず現れるようになり、とうとう人里にまで来るようになる。最終的には、山と里を行き来するようになり、家作りの手伝いまでするようになってしまった。
どうやら、キトはオグリに懐かれてしまったようである。