第八十一話
「──それにしても、人は見かけによらないものだな」
要芽に後一歩のところで害されかけた事へのフォローか、意外にも気遣う様な口ぶりで話しかける創家。そんな間にも六つに増えた巨大な腕を巧みに操り、二人を抱えながら猿にふさわしく木々を渡っていく。
「いえ、むしろ彼女はわかりやすい方だと思いますよ。今も昔も、兄の事を見ていましたから」
それはハルもだろう、と言いたげな表情を浮かべるも、特に言及せずハルの話すがままにさせる。
「さっきだってそうです。兄の為──これから兄の身に起こる事から不確定要素を少しでも排除しようと私とカナの前に姿を見せた。兄の下に向かいたいのを抑えて」
──本当にわかるんです。似てるから、と生真面目がちな相好を崩し、その身に巻きつく腕に体を預けて気絶しているカナに目を向ける。ほぼ初対面の異性に抱えられて人見知りが発揮したのと心臓に悪そうな移動手段に参ってしまったようだ。
ハルが笑んだ理由はそんな妹が要芽を相手に下がらず姉の前に立ったから、そして今は気絶しているカナを無理に起こそうとしないのは同じく姉心。妹にそのまま休ませてあげたい──少なくとも目的地に辿り付くまでは。
「それだけわかっていて、なぜそれでも行こうとするんだ?」
──これから起こる事に関係ない。
──今までだって関係なかった。
そうハルに突きつけた要芽を直接見聞きしておいて(実のところ、逆崎と創家は要芽が暴挙に出るかどうかをしばらくの間遠目で伺っていた。場にタイミングよく割り込めたのはその為)、少々意地が悪いという自覚はあるだろう。
しかし創家は質問を投げる事を止めはしなかった。前の自分と比べておせっかいだと思いはしても、ただ流されているだけなら手を貸すつもりはない。
さりとて、そこまで手間のかかるものではなし、誰もが納得する様な劇的なものでなくていい。それなりの筋道を示してほしい。行きがけの駄賃としては破格の条件を提示されたハルははたしてそれを正しく理解したのか特に迷う様子も無く、こう答えた。
「──兄に支えてほしいと言われたからです」
ハル、そしておそらくカナにとってこれ以上のない理由だった。優之助が望み、ハルとカナがそれを受け入れ交わした約束。言葉通りただ言われただけではなく、ハルとカナはそれを履行しようと動いている。
なるほど、創家が納得するかどうかは別として、たしかに筋が通っていた。それはもしかするなら他人には奇異に映るのかもしれない。本当に心の底から通じているなら必要ないだろうか、そんな約束で縛るような関係は歪ではないのか、と。その意見はそれはそれで正しいのかもしれない。
だが、人と人との繋がりは何もないところから形作っていくものではないか? 何も積み上がっていないからこそ約束や誓いを立てるではないか? 約束や誓いなどいらない関係というのは赤の他人といくらほどの違いがあるというのか? なし崩しの様についてきた血縁にただ甘え依存するのが正しいのか?
そこへいくと優之助達のそれはどうだろう。何も別段珍しいわけでも、劇的でも、業が深いわけでもない、少しだけ捩じれてしまった家族関係。
しかし、仮に平凡だったとして、数多くのすれ違いと葛藤の上で互いが認め合い言葉にして紡いだ結論に誰も侮り、非難する事は出来ないし、してはいけない。だからハルの万感を込めた答えに創家はただ一言。
「そうか」
とこぼし、小さく頷いただけに留めた。
「──じゃあ、行くわ」
時を同じく二手に分かれた地点に目を向けると逆崎と要芽の戦い──足止めの名を借りた要芽の自罰──はすでに終わりを迎えていた。
浅く息を吐いて呼吸を整える逆崎の足元には散々打ちのめされ、もはや立ち上がる力すら残っていない様子の要芽がうつ伏せで横たわっている。わずかに覗く横顔は腫れぼったく、時間にして数分といったところだが、なあなあの末での決着とは程遠いと察せられる。怪我の具合にしても鍛錬を積んだ要芽だから腫れた程度の見た目だが受け手によっては頬の骨が砕け歯が飛び散ってもおかしくはなかったはずだ。なまじ鍛えられた分、余計長引いたともとれるが。
「お手数をおかけしました」
うつ伏せというだけが理由ではないややくぐもった要芽の声からはいかほどの感情が渦巻いているのか窺い知るのは難しい。わかるとすれば、地に伏した今こそが本望とばかりに逆崎へ告げた感謝が心からのものだという事だけだ。
「暦の上ではともかく日陰がちなここでは体を冷やしやすいんだ、あんまり長居はするなよ。動ける様になったら治療してもらってこい」
逆崎なりの配慮か、異能と生来の脚力を駆使して瞬く間にその場から離脱していく。残されたのは一人の傷ついた少女。自分への罵倒で言の葉を満たし、無力は罪だとその身に刻む事を望み、その果てにあるのは情けで受けた罰で動けない体と心。
要芽の肩が嘆きで震える。慟哭は口付けるほど近い地面と覆いかぶせた自らの体でどこにも届く事はない。その想いを誰にも触れさせないのと同様に溢れた感情をただ一人以外に奉げるのをよしとしないが為だろう。それは彼女にとって最後の意地。吹けば飛ぶようなはかないものではあってもそれは──
「せんぱい」
──あぁ、その時がきてしまったらしい。
ひどく懐かしい声が遠くで、近くで私を揺らす。異能で拡大した視界を戻し、私は彼へと向き直した。
*
日原山の山道を走り、学園の大仰な校門を抜けると各施設の行き来を結ぶ広場が姿を見せる。広場といっても用途としては搬入路や通学バスのターミナルを兼ねているので、一般に想像する校庭くらいの広さがあり、校門をくぐり向かって左手が校舎や講堂、右手には学生寮がここからでも確認出来る。
事務局のある管理棟も同様で、ここから学生寮の方角──瞳子と空也の初期配置場所であるアスレチックコースより手前といったところか。林立していてどれが事務局の入った建物かは判別出来ないが、まず迷う事なく目的地へと辿り着けるだろう。
そんな少し顔を上げるだけでどこに何があるのかがわかる見晴らしのいい空間に“その人”は居た。
もはや一つの様式とばかりに天乃原ここの学生服を着こなし、どこか遠くを見ているらしく、こちらを一顧だにせず、また気づく様子も無い。
ふとすればただの勘違い、人違いかと錯覚しそうになるが、時間帯的に人通りがほぼ皆無な中、事務局へと続く道の前に立つのは“俺に用がある”という意思表示。いくつもある通路の終端からわざわざそこにいるのだから誤解のしようもない。そもそも、あからさまともいえる周りの言動から嫌でも気づいていたはず、しそうになったのは錯覚ではなく逃避だ。
「せんぱい」
近年では使う相手がおらず、ご無沙汰だった単語。久方ぶりの呼び名はどうにもイントネーションに自信が無く不安定な響きだったと思う。呼び止めた事でようやくこちらに気づき向けられる目には驚きと気恥ずかしさが多分に含まれている。
「──観光地とかにある望遠鏡ってあるじゃない? お金を入れて見るの。あれ使っている時に声をかけられた気分よ」
「あぁ、なるほど、なんとなくわかります」
再会の第一声が驚きに対する弁解ってなんだ? と思いつつ、せんぱい──先輩を見る。
肩まで伸びるウェーブのかかった髪は、ストレートがよかったと挑戦してみるも髪質的にうまくいかず、さりとて短いのも躊躇われ結局は現状維持ということで今の髪型に落ち着いた。
頭二つ分は低い身長は先輩としての威厳が無いと上げ底で嵩ましてみるも、やりすぎたせいで盛大にコケて取り止めに。そして身長に比してフラットな体型は(今思えば)命知らずに指摘すると最後、散々追い回されたのはまぁ、いい思い出だろう。
頭の中でイントネーションが整うにつれ、先輩の姿かたち、それに伴う記憶が鮮明になっていく。──優之助、返礼代わりに当時と変わらぬ呼び方で声をかけた先輩も同じ気持ちだったのかもしれない。遠目がちだった焦点がピントを合わせる様に数度瞬き、こちらを捉える。
「視覚の調節が難しくてね、まだ少し慣れないのよ。生来の能力とはいえ、よくこんな感覚を使いこなせるもんだと感心するわ」
その間も目頭をほぐす事でどうにか調子を落ち着かせると、押さえていた側の手をそのままに先輩が軽く指を鳴らす。少し洒落た所作はつかの間、俺と先輩の前に四角張った突起が地面からせり上がる。数は三つ、どうやら椅子と机代わりらしい。
「──土と石と操る能力。関ヶ原大地の『我は大地、大地は我』ですか?」
「より正確に言うなら操作しているのは主に珪素だそうよ。『導きの瞳』と違って無機物への操作系は一番触れる機会があったからこちらはそんなに苦労はないの」
「ていうか、こんな目立つ場所で能力を使わないでください。あと、これ元に戻せるんでしょうね? 後で請求されても知りませんよ」
と言いつつ、ちゃっかりと座らせてもらう。ここへ来るまで上りの山道を駅伝よろしく走ってきたのだ。先輩への見栄もあって誤魔化しているが、実は息も切れ切れで少しむせる一歩手前のところ。正直腰を下ろせるのはありがたい。
「いろんな意味で大丈夫よ。この時間帯なら誰も来ないでしょうし、通学用のバスもあと二時間は到着が先でしょ。それに何が来ても私ならすぐ気づくわ」
懐かしさと白々しさが絡み合う会話が続く。先輩向こうは別に隠しているつもりはなく、単にこちらが核心に入らないから白々しくなっただけだが。
「聞かないの?」
「──聞きたいのは山々ですけど、出鼻を挫かれるとどうにも。それに聞かなくてもほとんど喋ってるし、見せてるじゃないですか。いろいろと」
そうね、と短く頷く先輩には開き直りとは違う落ち着きがあった。驚かないのか、と聞かないあたり、先輩もわかっている。
“異能を生み出し、与える”異能者の正体とか、月ヶ丘──ひいては当真瞳呼に協力しているとか。
とはいえ、これらが重要かといえばそうでもない。そういう存在がいると頭から確信しているのだから。意地が悪いと思う。本当に聞きたい事、言いたい事はしっかりと除外しているのだから、ちゃんと言葉にしないといけない。数週間前に思い知った教訓を胸に俺ははじめからやり直す事にした。
「先輩、お久しぶりです」
「えぇ──本当に久しぶりね、優之助」
最後に別れてから数えて五年と少し。時宮高校元序列二十位『サイコダイバー』海東心は吹きつけた風に髪を遊ばせながら、穏やかな声で再会を認めた。
 




