第六話
「──優之助!」
刃が俺の首にかかる瞬間、誰かの叫び声が耳朶を打ち、弛緩していた俺の心が再び動き出す。同時に手のひらに血が通い、振動が自然に起こる。まるで心臓の音とリンクしたかのように力強く鼓動を放ち、俺の両手に力を与える。
縫い止めていた『殺刃』を吹き飛ばし、振り下ろされた刃を無様に転がりながらも辛うじてかわす。……って、かわしていいんだよな。なにやってんだよ! 俺は!
状況を確認しようと叫び声の正体を探す。声の聞こえた先は生徒会の連中がいるあたり。……誰だ?
「なにを呆けている! 私をこの学園から辞めさせたくないのだろう? 私を一人にしないのだろう? ならば、立て!」
いつの間にか生徒会と合流していた飛鳥がさきほどよりも激しく叫ぶ。
「……そうねぇ……あなたが居なくなれば、生徒会は桐条さんの退学届けを受理しないといけなくなるわね……」
その横で会長がそう補足する。
「……そういうことだ」
真田さんまで……。
「私はおまえの事情をなに一つとして、知らない。当真瞳子がなにを言ったのか、知らない。それを聞いたおまえがなにを思い、感じて、……そんな泣き出しそうな顔をしているのか、知らない」
飛鳥の言葉で思わず、自分の顔に触れる。自分の顔がどうなっているかなんて、それこそ知らないが、飛鳥は冗談を言うやつじゃない。
「おまえは私に言った。弱音を吐いてもいいと、我が侭を言ってもいいと……、そして頼ってくれとも言った……、だから今度は私からおまえに言おう!」
「優之助! おまえは……弱音を吐いていいんだ!」
飛鳥がとてもよく通った声で宣言する。
「御村……おまえは我が侭を言っていい」
飛鳥から引き継ぐように今度は真田さんがそう認めてくれた。
「……あれ? わ、私も言うの? ……うぅ~」
流れからして、次は自分の番だと思ったらしい。会長はプライドと俺への借りとが、せめぎ合っているようにしていたが、なかば諦めたかのように叫ぶ。
「あ~、御村優之助! 天乃原学園・生徒会長である私、天乃宮姫子が断言してあげる! あんたは誰かを頼っていいわ!」
「……ついにあんた呼ばわりか。……まぁ、いいけどな」
不思議な感じだ。この世で二人しかいない家族と長年の友人に否定されたというのに、会ってまだ二日にも満たない生徒会の面々に励まされ、立ち上がる力を貰った。それこそ、会長が感じているといった"借り"以上のものを。
「……ありがとな」
生徒会のやつらにそう呟く。今は聞こえなくてもいい。こんな場ではなく、後でちゃんと言いたいから。だから今は、
「待たせたな。……瞳子」
天乃原学園二年C組の転校生にして、この一連の黒幕を自称する高校時代からの友人に向けて歩を進めることにした。過去と現在、それぞれの決着を付けるために。
*
「……と、ハッパをかけたのは、いいけれど」
「?」
不思議そうに小首を傾げる凛華と桐条さん。……ちょっとかわいい仕草ね、二人とも。
「勝てるの? アレに」
アレとはもちろん、殺意の刃だかを超能力よろしく操って、なおかつ不気味なほど白い刀を振り回す当真瞳子のことだ。
「優之助は勝つ。……私と約束したのだから」
私の投げやり気味に言った呟きを確信と祈りとなぜか少し脅迫が混じったような重めの返答で返す桐条さん。おーい、どこから突っ込んでいいのやら。ほんと、いったいあの夜ナニしていたの? と聞きたくなる。……そんなことはしないけどね。それにしても、
「凛華を見ていれば、当真の人間が規格外の人材ばかりなのはわかるけど、まさか、オカルトか超能力の類まで存在するなんてね。……世界は広い、というところかしら」
私だって、曲がりなりにも天乃宮家現当主の孫だ。私より年下で大学の教授になった天才少女、素手で虎を仕留める格闘家、天乃宮の一社員が気に食わないというただそれだけの理由で天乃宮グループ全体に喧嘩を売ってきたとある会社の窓際係長、そうした能力・性格が一般人とはかけ離れた、いわゆる逸材と呼べる人間を数多く見てきた。
しかし、当真瞳子はそんな逸材達の中でも異彩を放つ。正に、逸脱した存在──異能者だ。
「天乃宮本家の人間なら知るべきです。……ああいう存在がいることを」
こんな状況でも冷静な凛華が戒めるように言う。当真家から私を守るよう命を受けた怪腕の剣士はどうやら私よりも広い見聞をお持ちのようだ。……いや、皮肉ではなく。
「知らされなかったというのは、私がまだまだ未熟と見なされていたってことか。……腹立たしいわね、まったく」
それが、家に対してか、自らの力不足ゆえかなのかはわからない──嘘だ。私を除け者にした全てが許せないに決まっている。
「……御村はともかく、あなたも当真家の人間だったとはね。私とあなたの仲じゃない、言ってくれればよかったのに。ねぇ? ……平井さん」
いつからそこにいたのか私が苛立っている原因の一人である平井要芽に向けて言い放つ。傍から見れば、付き従っているふうにも見えるけど、軽口を叩いた私を含め、生徒会役員は──同じ当真家側である凛華ですら──誰一人として警戒を解けないでいる。
これで無能ならとっとと始末できるが、有能だと切るに切れない。まったく、始末におえないという言葉がぴったりな人物だと思う。
不覚なことに、あのファイルと見るまでは彼女が当真の送り込んだ生徒であると思わなかった。もちろん、天乃宮家でも当真家に内緒で入学させた生徒はいるけれど、実力で生徒会に入り、副会長として表舞台で派手な活動を行ってきた彼女がそうだったとは。
そんな彼女は私の皮肉を受け流すと腹が立つほど丁寧に私の間違いを訂正する。
「優之助さんは当真家に協力してもらっているだけです。真田凛華のように当真関連の組織に所属すらしていません。……それに私が当真家の人間だということも知りません」
「へぇ? じゃあいったいどうやって知り合ったの?」
なにげなく言った質問。だけどその答えに興味があるのか、凛華や桐条さんも話の腰を折ることなく続きを促す。
「……優乃助さんの妹と友人だったので」
「微妙に遠い間柄ね」
平井さんが地元にいた時代だから遅くても中学時代。知り合ったきっかけが彼の妹とやらの友人ってことはクラスメイトですらなかった? 双子や義理ではない限り、妹は下級生のはずで、その妹自体と知り合う機会といえば、部活関係か?
ただ、平井さんが当真の関係者ということは普通の学校生活を送っていたとは考えにくい。あんな常識外れの戦いを繰り広げている当真瞳子と真っ向から立ち向かう御村が当真の人間ではない(と、平井さんが言うことを信じるとして)なら彼の立ち位置はいったいどうなっているのだろうか?
だたわかる事は御村と当真瞳子が尋常ではない間柄という事だけだ──それはともかくとして、彼女には改めて確認したい事がある。
「一応、念の為に聞くけど、"本当に"当真瞳子は当真の思惑でこの学園にきたわけじゃないのね?」
「はい。ファイルに紛れ込ませた報告書通りです」
御村優之助の入寮手続きの書類一式に紛れ込まれていた平井要芽お手製の報告書。その内容は御村の正体だけではなく、当真瞳子の事についても言及されていた。
これもまた不覚な話だが、当真瞳子に関して、私達天乃宮側は完全にノーマークだった。そんな馬鹿な話があるのか、と呆れられるかもしれないけれど、当真家側から通達が一切なかったこと(こちらも当真家に報告せず人員を送っているのでお互い様だけれど……)、本家に連なる人間が偽名も名乗らず堂々と編入試験を受けてきた為に同姓の一般人だと思い込んでしまった事、その二つの要因が絡み、平井さんの報告書を見るまでは当真瞳子をただの一般人だと気にも留めていなかったのだ。
当然、当真に事実確認と抗議の為に問い合わせたが、応対した当真の人間──普段、生徒会の報告程度では直接応対する事のない天乃原学園の理事長がわざわざ電話口に立って──の話では、
──当真瞳子はたしかに本家の人間だが、入学に関しては本人の事情に因るところであり、当真の思惑は一切含みはなく、完全に個人的な理由である。
──その為、ただの一生徒として扱い、手続きもそれに準じている。
と、にべもなく突っぱねられてしまった。それでは納得いかないと食い下がる私を、
──当真の思惑でない以上、一度学園が受け入れた後に何かあったとしても、生徒会の責任であり、こちらの感知するところではない。
──それに、こちらから天乃宮へ人事に関して抗議をした事は一度もない。そちらが何をしていようとも。
痛い腹を探られるのはそちらだぞ──そう暗に言われてしまえば、私からは何も言う事ができず、泣き寝入りをするしかなかった。
だた、当真瞳子は個人的な事情で動いているという事は二人の証言から自分なりに確証を得る事ができた。証言だけで妄信するのもどうかとは思うけれど、黙っていただけで嘘をついている感じではない。一連の行動に何の意味があるのかと気にはなるが、目の前に広がる光景を見てしまえば、御村がらみであることは一目瞭然だ。
「あの二人、どんな関係なの? ……もしかして、恋び──」
「違います」
「(返しにいつも以上の切れ味があるのは気のせいかしら?)」
私の戯言を食い気味に否定する平井さん。そのやり取りからは『氷乙女』と畏怖される寒々しさは一切感じられない。姿かたちが劇的に変わったわけではなく、いつも通りのともすれば無機質にもとれる整った顔立ち。けれど、その瞳は一瞬たりとて逃さぬよう一人の男子生徒を捉えている。あんな風に見つめられたなら落ちない男などいないだろうとなんとなく思う。
ふと気づくと、かすかに漂う薬と血の匂い。見れば両手には包帯が巻かれていて、ところどころ血が滲み出ている。いつの間に怪我をしたのか知るよしもないけれど、本人でも気づかない内に手をきつく握り締めて傷が開いたらしい。
「(……ベタ惚れね)」
普段は真意を悟らせない彼女がわずかに──しかし、明確に見せる深い愛情を示すサイン。いったい何をどうすればそんな風になるまで落とすことができるのか。いずれ多くを率いることになる身として御村に一つご教授してもらうのもいいかもしれない。もちろん冗句だが。
それにしてもその惚れ込み具合のわりには平井さんと御村は少々恋愛に至りにくい関係だと思う。もちろん、どんな相手に惚れるかなんて外野が──ともすれば本人ですら──わからないものではあるけれど。
「(──何かを隠してる?)」
ありえる話だろう。私と平井さんの間に全てをつまびらかにしあえるほどの絆や感情はない。それこそ、今も食い入るように御村を見る彼女の"濃い"ともいえるほどの──
「(──あれ? だとしたら、どうして──)」
一連の疑問の対象である御村がらみだとどこまでも人間味を帯びる彼女に見ながら、別の疑問がよぎる。
──どうして私に御村の情報を売ったのだろうか、と。
*
「……どうやら、投げ出すことは許されないらしい」
刃を振り下ろしたまま、微動だにしない瞳子の背中越しに言う。その表情はここからでは窺い知ることはできない。
「瞳子。おまえの言う通りだよ」
瞳子が聞いているかは、確かめようがないが構わない。届くまで待つさ。そう思いながら、独り言に似た告白を続ける。
「卒業してからの三年間、俺は自分の都合の悪いところを全て棚に上げて逃げたんだ。あいつらに迷惑かけるなんて言ってその実、トラブル起こして、それが原因であいつらに嫌われるのが怖くて自分から距離置いたんだ。生活費の為とか言い訳して、与えられた仕事をこなして、忙しさから目を背けて、さ」
「なにを今更……」
瞳子は怒るでも、呆れるでもなく、慰めるでもなく、ただ一言。
「……まったくだ。しかも、なにから手をつけたらいいのか、取り戻すべきなのか、そもそも失ったものとは? おまえの言った"らしくない"ってのが俺の中のどれを指していたのか、どれ一つとして、俺にはピンとこない。自分探ししている暇もなさそうだ。……だけど、このままじゃ、大切なものなんて守れやしない、ってことだけはわかってる」
「ふぅ……口ではなんとも」
──シュッ────ズドン!!!!!
なにもない空中を殴ったとは思えないような轟音が密閉空間に鳴り響く。……反響が凄いな。いやまさかこんなにデカイ音がするとは……。撃った自分が一番ビックリした。
「勘違いするなよ? おまえとの命の遣り取りは御免だが、"これ"を使わない事にはなにも──自分の身すら守れない。そう判断した」
瞳子は無言。今まで余裕だった態度に初めて警戒が混じる。これこそが『優しい手』と呼ばれた異能の本領──運動エネルギーの完全制御。
運動エネルギーとは中学・高校の物理で習う、質量と速さ×二乗のアレのことだ。身近な例だと、ボールを投げるためには足から肩、肘、手へと一連の動きがあるからボールを投擲することができる。それら一連の動作によって得られる、物体を動かした力、それが運動エネルギーだ。
『優しい手』は本来発生させるのに必要な体の各部位の一連の動作を端折り、手の部分単体で運動エネルギーを発生させ、さらに増幅し、使用することができる。『優しい手』を発動した際の激しい振動は手の中で増幅され続けた運動エネルギーが作用された手を通じて、周囲の空気と連動して起こる現象だ。
「……"精密動作"や"超触覚"といった特技・特徴とは一線を画す真の意味での超能力。私の"瞳"と同じ領域の能力。この三日間、その片鱗だけは見せていたわね。桐条飛鳥を行動不能にし、真田凛華の豪剣を止めた、触れるだけで運動エネルギー──だけじゃなく、私の何で動いているのかはっきりしない架空の刃をも悉く無効化する無敵の盾──『絶対手護』」
補足するなら、真田凛華の『怪腕』による一撃と俺の手が触れた時、触れた刀から伝わる真田さんの攻撃の力の流れ──もう少し正確に言えば、物体を斬るのに必要な"押しつけて、引く動作"、その力の強度とタイミング──を瞬間的に読み取り、真田さんの『怪腕』が生み出す運動エネルギーを打ち消した。
つまり、触れてさえいれば、その部分から相手の運動エネルギーをも制御することが可能なのだ。
そして、『銭型兵器』も『優しい手』による恩恵を受けている。でなければ、『達人』ではなく『怪腕』も持ち得ない俺が、相手にダメージを与えるほどの硬貨打ちができるわけがない。『絶対守護』が停止の完全制御とするなら、『銭型兵器』は加速の完全制御というわけだ。
「──冷静に考えたら、おまえの意思は聞いたけど、ハルとカナについては人伝だ。例え、瞳子の言った通り避けているのだとしても、それは俺が直接聞かなければいけない事だ。その為には今、ここでおまえに殺されるわけにはいかなくなった」
「──少しは定まってきたようね」
「どうかな? まぁ、少なくとも、今の状況は案外悪くないとは思っているよ」
「……どういう意味?」
「たまに大ゲンカした方が長く続くって話」
「命がけで?」
「命がけだからこそさ」
「……私はまだあなたを許したわけじゃないわよ?」
「それでいい。言ったろ? 大ゲンカだって、俺達は本気でぶつかる必要があったんだ」
「その言葉、後悔しないでね──時宮高校元序列十四位、『殺眼』当真瞳子。望みどおり全力で斬り捨ててくれる!」
「……時宮高校元──いや、天乃原学園二年C組、『優しい手』御村優之助。その言葉、そっくりそのまま返してやるよ!」
殺気を凝縮させた四本の刀が怪しく光る。俺の『優しい手』を持ってしても防ぎきれなかった、『異能剣術・殺刃剣舞』。次はそれ以上の技でくるだろう。
今の俺がそれを切り抜けることはできない。……はずなのに、なぜか俺の心の中はとても落ち着いていた。
一方、瞳子は俺の知らない、新たな型を体現する。
「今こそ見せよう、当真流剣術と我が異能『殺刃』を融合させ、完成された剣技を」
"刀"子を彷彿させる陰鬱さを帯びた重々しい空気。それが引き金となったように、纏っていた四本の『殺刃』を愛刀『紅化粧』に取り込んでいく。
「当真流の五つの型を同時に発動することで新たな型を生み出す。当真流"魔"剣術『秘剣・六道返し』」
構えはいつもの下段ではなく、正眼の構え。殺意を纏う刀をそのまま中段に保ち、俺に向かってくる。最後の最後で当真流にらしからぬ真っ向勝負。
「望むところだ。……おまえの三年間をこの一瞬で超えてやる!」
気合とともに、高震動を繰り返す両手を空手でいうところの『前羽の構え』のように構え、瞳子に相対する。その距離およそ六メートル。
──五メートル。瞳子が俺へと真っ直ぐに向かってくる。『一本指歩法』を使っているため、速さそのものは速いが、言ってしまえば、真田さんが最後に使った戦法と変わりない。そこにどんな意図があるのか不明だが、瞳子の放つ攻撃を破ることを考えるだけでいい。揺らぐな! 俺。
──四メートル。俺はその瞳子に受けて立とうと構えを固持し、山のように"待ち"の一手を計る。瞳子の攻撃を『優しい手』で流し、返す刀でがら空きの胴に俺の手を叩き込む。
「っ」
──三メートル。その手前で謀ったように見せる瞳子の声にならない笑い。瞬間、愚直なまでに真ん中に構えた『紅化粧』から、五本の『殺刃』が射出される。
「(……一本、増えてるじゃねぇか!)」
いつの間に生成したのか知らないが、『殺刃』の本数が増えている。しかし、もうそんなことは問題ではない。俺の前方二メートルから散弾のように放たれた五つの当真流の太刀筋は俺の視界を塗りつぶしている。回避は……不可能。
「(上等だ! まとめて潰してやる!)」
防御ができないなら五つの太刀筋全てを攻撃すればいい。左の『優しい手』を迫りくる『殺刃』に晒す──互いの距離は一メートル。
──ドン!
高震動と異質な気配を纏った刃がぶつかり合う。現実に起こりえない二つの異なる空気が混ざり合い、溶け合って、まるで号砲のような重い音が講堂内を駆け巡る。音と同時に起こった風圧で視界が狭くなるが、間近にいる瞳子を見失うことはない。
「(そこだ!)」
残った右手を瞳子に向けて振るう。……左手の感覚はない。いかな『優しい手』でも対象の運動エネルギーを相殺させずにそのまま『殺刃』に触れれば、こちらにも被害が出て当然だ。例えて言うなら、動かない刃物に自ら動いて斬られにいくようなもの。
しかし、自らの左手を犠牲してでも止めないと『殺刃』の後にいる瞳子に隙を突かれてしまう。『優しい手』を防御にまわして自らの前進を止めたら、俺は瞳子に勝てない。
この時、瞳子との距離は一メートルを切っている。俺が左手を犠牲にするとは思わなかったのか、瞳子の反応が遅れる。距離から考えると致命的な隙。間に合うことはない。瞳子の懐はがら空き、俺の手との距離は三十センチもない。あとは右手を前に出すだけでいい。
「(これで終わりだ!)」
そう、これで俺の勝ちだ。……なのに、ほんの少し躊躇する。このままで本当にいいのか、と自分の心に問いかけてみる。瞳子の言葉を思い返してみる。
──なんの覚悟も持たないあなたが私に勝てるはずがない!
覚悟。そんなものこんな変な学園に年を誤魔化して入った時点でやっている! 覚悟。それは自ら選び取ろうとすること。では、この状況は俺にとって望ましいものなのだろうか? そんなの言うまでもない。……このままでいいわけないよな?
「──『影ノ太刀・月白』」
俺が躊躇した一瞬の間に体勢を立て直した瞳子が突きを狙う。交差する俺の手と瞳子の刀。
──トス……
弾けた空気が音を奪い、耳鳴りすらしそうな講堂でやけにあっさりと響いてきた決着の合図。誰もがその結末に微動だにできない。……その中心にいる俺達以外は。
「──一つだけ思い出したことがある」
「……なにかしら?」
「この手は傷つけるために使うものじゃないって事をさ。おまえの言う覚悟なんぞ知ったことか」
「……馬鹿ね」
「そうか? 自覚はないな」
「馬鹿よ。……寸前で『優しい手』を解除するなんて」
瞳子の腹部には俺の手が添えられ、……そして俺の腹には瞳子の刀が深々と貫いていた。
「ひどい……な」
血が止まらない。貫かれた部分が熱くて、寒い。腹部から流れる血が刀身に伝って瞳子の手を紅く染める。――今、手を握ってたらあたたかいだろうな、ふとよぎるのは卒業式の帰り道。あの時、あたたかいと言った彼女の手を今、俺が温めている。それはとても素敵な事ではないかと、なんとなくそう思う。
「馬鹿だわ」
「……かもな。でも……」
まるで心でも読んだとばかりに適切な一言がとても愉快だ。だが、いざ笑おうとすると喉の奥からあふれてくるモノが酷くうっとおしい。吐きだしてしまいたいが、さっきさんざん吐き出したのにまだ吐くのかと怒られそうだ。だから我慢する。……少し、口から垂れてきたけど、いいよな? それくらい。
「こ、これで…よかったと……思ってる」
手を通じて、瞳子の鼓動が伝わってくる。それは優しい、とても優しい音。それが俺に後悔をさせてくれない。
目が霞んできた。血を流しすぎたらしい。こんな霞んだ目じゃあ、わからない。瞳子かどんな顔をしているのかわからない。その目に映るのは白と、黒に近い赤の世界。そんな世界じゃあ、瞳子がどんな顔して泣いているのかわからない。それでもまだ微かに動く右手を瞳子の顔へと手探りで触れる。
「──私が県外の大学に決めた理由を憶えてる?」
音すらも白く塗りつぶされそうな世界で瞳子の囁くような声が聞こえる。
「………あぁ、憶えてるよ」
なぜ今その話が出るのか、それはわからない。だが、外から俺達を見てみたい、とどこか気恥ずかしげに答えた瞳子の様子と、その機を逃せば一生聞くことのなかったことを余さず聞けたという事実はとても印象深く記憶に刻まれていた。
──忘れるわけがない、そう伝えたくても声がかすれて伝わったかどうかわからない。そんな自ら発した声すら耳に届くか怪しい中、瞳子の声だけは、やけに大きく聞こえる。
「あの言葉に嘘はない。けどね、あれが全てじゃ……言わなかった理由は別にあるの。優之助、私ね──」
その続きをあの時と同じく逃すまいとして、しかし、その意思に反して意識が遠くなる。それとは反対に強まっていく浮遊感。まるで谷底のふちを指一本で頼りなく支えているような中で、それすらも手放した俺が最後に"見えた"のはどことなく懐かしい空気を纏った二つの影だった。