第五十六話
*
遠くで喧騒が聞こえる。昼休み中なので学食からだろうとあたりを付けながら、私は校舎の離れとなる講堂の玄関を開ける。
大人数を同時に受け入れられる長大な扉を一人分ほど隙間を作って中へ入ろうとすると喧騒とは別の異音。例えるなら運動会で耳にする号砲に近いが、平日の学園ではまず聞く事はないだろう。
「(派手にやっているな)」
生徒達の喧騒と同じく、音の正体を想像しながら振り返らずに進む。講堂の中は昼だというのに不気味など薄暗いが照明を付けるほどではないと、そのまま地下を目指す。
講堂の用途は世間一般の学校で言えば、体育館が近い。ただし、天乃原は別に体育用の施設があるので、始業・終業式や全校朝礼といった定期行事、まれに演劇部の講演で使われるくらいで普段は解放すらされていない。事実、始業式の日の午前中に使用してからの一週間、一般生徒はおろか生徒会すら足を踏み入れた事はない。中に入れさえすれば、これ以上ない隠れ場だろう。
「──今思えば、新学年初日に生徒会長が襲撃された時から違和感があった」
床を叩く足音が室内を反響していく中、返事を期待せず吐いた呟きも同じく階段の向こう側にある広場へと走る。
「たしかに会長はこの学園において最も重要な地位にあり、それでなくても天之宮家現当主の孫だ。その身命にかかる付加価値は考えるのも馬鹿馬鹿しい。だが、特定の人間──例えば、優之助や当真瞳子にとって、その価値とやらはそれほど重要だろうか?」
三月にあった二人の戦いを思い浮かべてみる。くしくも、この先にある舞台で繰り広げられたのは、個人的事情で互いの命すら質草をかけた決闘。そこには建前やしがらみ、地位も名誉すら振り捨てて、二人だけの閉じた世界が形成されていた。そんな二人に社会的な物差しなど通用するはずがない。
「キャンプ場の時もそうだ。当真晶子にさらわれかけたが、本当の狙いは別にあったと聞いている。ならば、この前の襲撃も会長が目的ではないと考えるのは自然だろう」
言い方は悪いが、こと異能者が絡む事態において、天ノ宮姫子をわざわざ襲う理由がない。そもそも、会長は成田稲穂本人を前に自身の安全とは関係なく、別の目的があるのだろうと指摘している。
では、何が狙いだったのか? あの一件で最も被害を被ったのは? それについても会長は言い当てている。それは"生徒会への指示をさせない事"──もう少し言うならば、生徒会が取り扱える学園の機能だ。
生徒会が学園内で大きな権限を持っている為、生徒会室は校舎の中にありながら、他の部屋とは異なる設計の元、建てられている。重要書類をはじめとした貴重品管理の必要性から警備部と共有している内外の監視システムもその他の部屋にはない機能の一つだろう。
「あの襲撃で直通のエレベーターはおろか、後の調査で判明した潜入経路も含め、あらゆる機械的システムが電撃によってダウンしていた。最低限の機能はすぐに復旧したものの、数十分、天乃原学園は外敵に無防備だった」
その間、どんな人間が、何人潜入したのか一切不明。ここまで挙げておいて、一人も潜入していません、だったなら、それはもう赤面ものの笑い話だが一歩ずつ進むごとに漂う異様な気配が勘違いを許さない。
強烈さで言えば、当真瞳子が異能を使った時よりも上だ。向こうがその気になればいくらでも私をなぶり者にできるはず。だが、それがわかっていながら私はこの先を行く。虎穴に入らずんば虎子を得ず──虎穴に入らずんば虎子を得ず。この先にいる人物が一連の鍵を握っているのは間違いないからだ
「──延々と独り言を垂れ流しておいて、よく平気ですね。無意味すぎて私なら赤面してしまいそうですよ、桐条さん」
「独り言のつもりはなかったさ。そっちこそ、寂しい人扱いしないでもらえるか? これでも気の置けない友人くらいいるんだからな──副会長」
長い廊下の末に広がる空間、その出入り口に一番近い席を陣取るのは天乃原学園生徒会副会長、平井要芽。私にとって、予想通りの人物がそこに待ち構えていた。
「予想通り──そういう口ぶりですね」
「あぁ、聞こえるのが前提で言ったように、な」
この間、双方会話しながらも互いに顔は一切相手に向かっていない。私は周囲に警戒して、平井は手元の文庫本に目を落としたままだったからだ。出入り口には非常灯がぼんやりと周囲を照らしている。他に光源を確保できそうな場所がない為、最も見つかりやすい席についていたらしく、それはつまり、私相手なら隠れる必要などないというのを雄弁に語っていた。
「何を読んでいるんだ?」
舐められている。それがわかっていながら不思議と怒りが沸き上がらない。代わりに普段なら気にも留めない様な小さな疑問が口をつく。
「──どうぞ」
私の反応がよほど意外だったのか、読みかけ途中の本に栞を挟み、私に手渡す。
──悪い事したかな、奇妙な罪悪感が胸をつきながら受け取り、使いこなれた皮のカバーを外す。中から出てきたのは、ラミネート加工された色とりどり少女が描かれたイラストの表紙。あまり詳しくはないが、ライトノベルというやつだろう。一見すると漫画本だが、中身は縦書きの文字だけが紙面を埋めていた。どこかで見た気がするが、ただ手に取っていても思い出せそうにない。カバーを戻し、平井に手渡す。
「それで、いったい何用ですか? 少なくとも平日の昼休みに入り込む場所ではないはずですが」
「その言葉、そっくりそのまま返そうか、副会長」
戻ってきた文庫本に再び目を通す平井。リズミカルにページを捲る手は、紙を擦る心地よい音を生み出し、ともすれば、こちらとの会話を拒む風にも取れる。それに付き合うほどお人好しのつもりはない私は、本命の質問を彼女に切り出す。
「──成田稲穂を引き入れたのはお前だな、平井要芽」




