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屋敷の中に入ってもセイの姿が見えないと思ったら、クリスティーナが買い物を頼んだらしい。
「リオウが来ることまだ話してないから、きっと帰ってきたらびっくりするわよ~」
廊下を歩きながらエメラルドグリーンの瞳を少女のように煌めかせて言ったクリスティーナは至極楽しそうだ。
――よかった。ゴーラント家のことだから特に心配はしていなかったが、セイとレイはこの家に馴染んでいるようでリオウは安心する。
「ごめんなさいクリスティーナさん。レイだけでなくセイの面倒まで押し付けるようなことなってしまって」
「あらいいのよ。セイが来てくれてからは家も助かってるもの。力仕事や子供達の面倒も見てくれてるし」
まったく、うちの夫にも見習わせたいくらいだわ。
ぷんぷん怒るクリスティーナはとても二児の母親とは思えないほど可愛らしく、理央の唇も思わず綻ぶ。ちなみに件の夫は、そのぐうたらぶりを遺憾なく発揮し居間でごろごろしている。多分今頃好奇心旺盛な子供達が、あの山のような体躯によじ登っていることだろう。
「あの子もしばらく見ない内にいい男になったわねえ……っと、私ばっかりリオウを独占しちゃだめよね」
ある扉の前で立ち止まったクリスティーナが、振り返って苦笑する。理央も笑みを返してからチョコレート色の扉へと視線を移した。
自然と小声で話してしまう理央も共犯になるのだろうか。
「レイにも私が来ること――」
「知らせてないわ。夕飯までまだ時間があるから、ゆっくりしてらっしゃい」
じゃ、あとは若いもの同士で……なんて言いながら去っていくクリスティーナに会釈してから、理央は扉をノックした。
一拍の間を置いて「はい」とくぐもった声が返ってくる。
「えぇと……理央、です」
ノックをしたものの何て声をかけるか考えていなかった理央の第一声は、どうにも情けないものになった。
(まあ、仕方ないか)
セイとは行動を共にしたが、レイは奴隷時代の主の酷い仕打ちにより足が不自由なこともあって、ゴーラント家に預けたきり時折ロドルから近況を聞くくらいだった。
考えてみれば、レイのことはセイかロドルから聞くばかりで、レイ本人から聞いたことは数えるほどだ。
一応恩人とはいえ、すぐ他人にその面倒を押し付けた『勇者』が突然現れたら彼はどんな反応をするのか――決して前向きとはいえない想像をしていると、部屋の中からどごっという音が聞こえた。
何か重いものが落ちる音だ。
理央はもう一度扉をノックし、中に向かって呼びかけた。
「レイ? どうかした?」「い、いえっ。大丈夫です」
「……入るよ?」
あまり大丈夫でなさそうな返答に、心配が勝り理央はドアノブに手をかけた。
きぃ、と僅かに軋んだ扉が開いていくと、ベッドの上で身を起こしているレイと目があった。
ちゃんとベッドにいるレイを見て、どうやらさっきの音はレイがベッドから落ちた音ではないらしいとわかり安堵する。
理央はレイに向かって笑みを浮かべた。
「久しぶり、レイ」
対するレイは驚きに目をみはり、やがて、震える唇からようやくといった風に声を絞りだした。
「――本当に、リオウ様……?」
「うん。ごめんね、会いにくるのが遅くなって」
「リオウ様っ…!」
レイが瞳を潤ませて、両手のみでこちらへと這ってこようとしたので、理央は慌てて自分から相手に駆け寄った。
「レイ、無茶しないで」
「リオウ様、リオウ様…」
理央の言葉など耳に入ってない様子でレイが手をのばし、理央を抱きしめる。兄と比べると華奢で、若干頼りなくもある骨ばった体は、けれど理央よりも大きくて、彼も成長しているのだと妙に感慨深い気持ちになった。
リオウ様、リオウ様と頭上から降ってくる声は止むことはなく、その余りにも必死なレイの声に、振りほどくこともできず身を任せる。
(大丈夫かな……)
まだ薄くはあるが、出会った頃よりは大分マシになっただろう胸板に頬を預けた理央の胸に甦るのは、不安だった。
レイと、セイ。
――理央は、彼らにもけじめをつけにきたのだ。
別れという、けじめを。