第九章
新聞部の部室は、放課後になっても誰も来なかった。
十文字澪はそれを知っていた。顧問の桐本先生は週に一度しか顔を出さないし、他の部員二人は今週から中間試験の勉強を理由に欠席している。だから今日の夕方、この六畳ほどの狭い部屋は澪一人のものだった。
棚の奥から段ボール箱を引き出したのは、四時をまわったころだ。
「新聞部資料 二〇二〇年度以前」と油性マジックで書かれたラベルは、インクがかすれて読みにくくなっている。澪は床にしゃがみ込んで蓋を開けた。古い紙の匂いがした。湿気と埃が混ざった、閉じ込められていたものの匂い。
過去の号外、行事記録、取材メモ。丁寧に綴じられていたものと、とりあえず詰め込んだだけのものが混在している。前任の部員たちの性格がそのまま堆積していた。澪はそれを一枚ずつ確かめながら、探しているものを手繰り寄せていく。
見つかったのは、ファイルの裏側に挟まれた、薄い取材ノートだった。
表紙に「三年前・五月〜七月 未使用記事」と走り書きがある。
ページを開くと、丁寧な字でこう書かれていた。
「三年二組 村上朔 自主退学。退学届提出日:六月二十一日。取材申請:学校側より『プライバシーへの配慮』を理由として、許可を得られず。保護者への連絡も拒否。記事化断念」
村上朔。
その名前を、澪は声に出さずに読んだ。口の中で転がすように。
自主退学、という言葉に澪は引っかかりを感じた。三年前の記録だ。凛から聞いた話と照らし合わせれば、その時期は坂本教師がちょうどこの学校に着任してまもない頃に重なる。そして「プライバシー配慮」という理由で、新聞部の取材が阻まれていた。
阻んだのが学校側だとすれば——誰が、何を隠したかったのか。
ノートのページをめくると、取材を試みた先代部員の焦りが文字ににじんでいた。「何度申請しても却下される」「担任も口を割らない」「朔くんの友人にも口止めされているらしい」。そしてノートはそこで終わっていた。途中のまま、棚の奥に押し込まれた。
誰かが諦めた。あるいは、諦めさせられた。
澪はノートを手に立ち上がり、窓の外に目をやった。五月の夕暮れはまだ遠く、グラウンドに部活動の声が響いている。何も知らない日常の音が、部室の薄い壁一枚を隔てて続いていた。
——村上朔。
その名前を手がかりに、澪は棚の別の段に目を向けた。
機材の引き出しの一番下。そこに、忘れられたように収まっていたのは、茶色い小さな箱だった。フィルムの保存ケースだ。蓋の上に付箋が貼られており、「現像未了」と書かれている。日付は、三年前の六月。
澪は息を止めた。
拾い上げたケースは、思っていたより軽かった。中に一本の三十五ミリフィルムが収まっている。三年前のもの。現像されないまま、ここに眠り続けていた。
暗室に入ったのは、四時半過ぎだった。
新聞部に付属している小さな暗室は、今では滅多に使われない。デジタルカメラが主流になってからは、フィルムで撮る部員がほとんどいないから。でも澪は使い方を知っていた。入部したとき、先代の卒業生から一通り教わっていた。「どうせ使わないだろうけど、知ってて損はない」と言われながら覚えた手順が、今になって意味を持つ。
赤い安全灯だけが灯る狭い部屋の中で、澪は慎重にフィルムをリールに巻きつけた。現像液、停止液、定着液。手順を頭の中で確認しながら、一つひとつを丁寧にこなす。焦ってはいけない。焦れば台無しになる。
現像が終わり、フィルムを引き上げて光に透かしたとき、澪は最初、何が写っているかわからなかった。
校舎の廊下。窓から差し込む光。二人の人物。
引き伸ばし機にフィルムをセットし、印画紙を置いて露光する。現像液の中に沈めると、白い紙の表面にゆっくりと像が浮かびあがってきた。
澪は息を詰めた。
一人は教師だった。坂本哲也。顔立ちは今より若いが、見間違えようがない。あの引き結んだ口元と、周囲を見渡すような目。廊下の窓際に立ち、もう一人の人物に何かを話しかけている。その表情は、授業中の穏やかさとも、教師として叱責する厳しさとも違う。何か別のものがそこにあった。
もう一人は、生徒だった。制服姿の、細い肩の人物。
澪は像を見つめ、目を細めた。
——奏、に似ている。
桐島奏。凛の幼馴染。あの、廊下ですれ違うたびに目を伏せる二年生。
でも、それはありえなかった。この写真は三年前のものだ。もし奏なら、当時は中学生のはずだ。この制服を着ているはずがない。
では、誰か。
澪は印画紙を定着液に移しながら、考えた。赤い光の中で、浮かびあがった像を見つめながら。
奏に似た体型。奏に似た、どこか内側に引っ込んだような立ち姿。でも奏ではない、誰か。
——村上朔は、奏と知り合いだったのかもしれない。
その考えが、じわりと広がった。
もし似ているなら、それはただの偶然ではないかもしれない。知り合いだったから、立ち方や雰囲気が似ている。あるいは、同じ経験を共有していたから。同じ場所に立たされていたから。
澪は印画紙を水洗い槽に沈めたまま、しばらく動けなかった。
三年前、この写真を撮ったのは誰か。当時の新聞部員が、取材を阻まれながらもカメラを持って廊下に出た。シャッターを押した。何かを残そうとした。そしてフィルムを現像しないまま——あるいはできないまま——ここに置いていった。
諦めた。でも、捨てなかった。
棚の奥に、ケースごと押し込んで。
澪はそのとき初めて、自分がずっとやってきたことの意味について考えた。カメラを持って歩き回ること。誰も気にしないような瞬間にシャッターを押すこと。何が重要かわからないまま記録し続けること。
三年前の先輩も、同じことをしていた。
そして澪自身が今年の連休前に撮った一枚が、この調査の始まりになった。坂本教師の不審な動作を偶然切り取ったあの写真が、凛と陽菜を引き寄せた。
記録することは、意味がある。たとえその場ではわからなくても。たとえ押し込まれたまま三年が経っても。
像は残る。
澪は水洗いを終えた印画紙を乾燥させながら、もう一度写真を見た。坂本教師と、奏に似た生徒。廊下の窓から斜めに差し込む光が、二人の影を床に引き伸ばしている。その影がどこか、不釣り合いに長い。
村上朔。
澪はその名前を、今度は声に出した。狭い暗室の中で、赤い光に吸い込まれるように、小さく。
——あなたは、奏を知っていたの。
答えはない。でも問いは残る。写真が残っているように、問いもまた残る。それを手がかりに、次の扉を探さなければならない。
澪は写真を封筒に入れ、取材ノートと一緒にカバンにしまった。
暗室を出ると、廊下には夕方の橙色の光が差し込んでいた。部活動の声がまだ聞こえる。何も知らない日常が、続いている。
でも、澪の手の中には、三年前の像がある。
明日、凛に見せなければならない。




