第八章
午後の日差しが廊下の窓ガラスを斜めに切り取る、五月の半ば過ぎだった。
凛が教室の自分の席でノートを整理していると、宮瀬陽菜が扉を開けて飛び込んできた。ほかの生徒がほとんど帰り支度を終えて出ていったあとで、がらんとした教室に陽菜の足音だけが弾んだ。
「凛、聞いた聞いた」
陽菜は凛の席の隣の椅子を引きずって座り、両肘を机に乗せた。ショートボブの毛先が動いて、教室に残った西陽の中でわずかに赤みを帯びる。
「桐島くんのクラスの子から話聞いてきたよ」
凛はヘアピンを外しかけた指を止め、顔を上げた。
「……早いですね」
「だって昨日の放課後、元バスケ部のマヤちゃんがちょうど桐島くんのクラスに知り合いいるって言ってたから。今日の昼休み、一緒に行ってきた」
陽菜は当然のことを言うようにさらりと告げた。凛はペンを置いた。
「それで」
「二つ出てきた」
陽菜は人差し指を立てる。
「まず、桐島くん、ここ数ヶ月ずっと放課後に職員室に呼ばれてるらしい。週に何回かのペースで。授業終わったあとすぐ、みんなが部活行ったり帰ったりしてる時間帯に」
凛の背筋が微かに固まった。呼ばれている、という言葉が頭の中に沈んでいく。呼ぶのが誰なのかは、言わずともわかる気がした。
「もう一つ」
陽菜が続ける。その声が、一段落ちた。
「一度、廊下で泣いてるところを見た子がいるって。桐島くんが。職員室の近くの廊下で、壁に寄っかかって、うつむいて。その子は声かけられなかったって言ってた」
教室の中に、短い沈黙が落ちた。
凛はノートの表紙を見つめたまま、何も言えなかった。廊下で泣いていた、という情景が、映像のように頭の中に広がる。職員室前の廊下。自分が奏とすれ違った、あの廊下だ。奏が目を伏せて立ち去ったときの横顔を、凛は思い出した。あのとき、奏は何を背負っていたのだろう。
「凛?」
「……聞いてます」
凛はゆっくり息を吐いた。
「よくここまで聞けましたね」
それが正直な感想だった。数ヶ月にわたる呼び出しの事実、廊下での目撃情報、そういったことを短時間でまとめてくるのは、並の人間にはできない。
陽菜は一瞬きょとんとしてから、右の口角を上げて笑った。
「え、そんなに珍しい? とりあえずやってみればわかるじゃん」
あっけらかんとした笑いだった。無防備で、屈託がなくて、なんの照れも計算もない。
凛は返す言葉を失った。
『とりあえずやってみればわかる』。そういう発想が、凛の中にはない。凛が動くときはいつも、やる前に可能性と失敗のリスクを頭の中で並べる。誰かに話しかけるにしても、どんな言葉が適切で、どんな反応が返ってくる可能性があって、それに対して自分はどう応じるべきかを一通り考えてから口を開く。それが当然だと思っていた。
だから陽菜の「とりあえずやってみればわかる」という言葉が、うまく受け取れない。笑顔ごと差し出されたその言葉を、どこに置けばいいかわからなくて、凛はただ黙った。
「桐島くんに関係あると思う? その、澪ちゃんが撮ってた写真と」
陽菜が真剣な顔に戻って続ける。
「……たぶん」
凛はようやく口を開いた。
「数ヶ月にわたる呼び出し、職員室、廊下で泣いていたところ。それだけで断言はできないけど、無関係だとは思えない。掲示板の差し替えも含めて、もう少し線を引けそうな気がしてます」
「うん」
陽菜は頷く。隠し事のない、まっすぐな目で凛を見る。そういう目で見られると、凛はいつも少し気後れする。
「澪ちゃんにも共有しなきゃね」
「そうですね」
凛はノートを閉じた。
夜になった。
自室の机の前で参考書を開いたまま、凛は手が止まっていた。文字が目の上を滑っていく。
奏のことを考えていた。
廊下で泣いていた、という情報が、頭から離れない。あの奏が。中学時代、どんな場面でも泣かなかった奏が。一度だけ凛が見た、奏の泣き顔は――あのリレーの日だった。バトンを落とした凛を、奏はなじらなかった。ただ悔しそうな顔で、下唇を噛んで、それでも泣かなかった。なのに今、職員室の近くの廊下で、壁にもたれて泣いていた。
何が、そこまでさせているのか。
凛はヘアピンを外して、また留め直した。思考がうまくまとまらない。頭の中に情報の断片は揃いつつあるのに、それを繋ぐ線がまだ細くて、引き切れない感覚がある。
階段を下りる足音がして、リビングの方向から夕食後のかすかな気配がした。凛は椅子を引いて立ち上がり、部屋を出た。
リビングに父親の誠がいた。ソファに座って、手元の書類に目を落としている。仕事のものか、それとも役所関係の書類か。誠は眼鏡をかけた地味な顔を書類に向けたまま、凛の気配に気づいて顔を上げた。
「どうした」
「別に」
凛は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。
「学校でちょっと気になることがあって」
自分でも意外なほど、すっと言葉が出た。誠は書類から目を離した。
「……そうか」
それだけだった。続きを促す言葉も、詳しく聞こうとする身振りもない。
「それだけ?」
凛は思わず訊いた。
誠は少しの間を置いて、眼鏡の奥の目で凛を見た。急かすでもなく、心配を押しつけるでもなく、ただそこにある目だった。
「お前が気になるなら、気になることがあるんだろう」
短い言葉だった。それ以上でも、それ以下でもない。
凛はコップを手に持ったまま、少しの間、父親を見た。
誠はもう書類に目を戻していた。何か答えを与えようとしているわけでも、背中を押そうとしているわけでもない。ただ凛の言葉を、余分なものを足さずにそのまま受け取った。それだけのことだった。
凛はリビングを出て、階段を上がった。
自室に戻り、椅子に座って机の引き出しを開ける。いちばん奥に、古い万年筆がある。軸が少し黄ばんで、金のペン先が使い込みで鈍く光っている。母親が入院していたころ、父親が黙って渡したものだ。あのときも父親はたいして何も言わなかった。「これ使え」と差し出しただけだった。
凛は万年筆を手に取って、ノートを開いた。
わかっていることを書き出す。奏の放課後の呼び出し、数ヶ月にわたって継続していること、廊下での目撃情報。掲示板の差し替え。澪が撮った写真。まだ線は細い。でも確かに、点は増えている。
『お前が気になるなら、気になることがあるんだろう。』
父親の言葉が、頭の中で静かに響いた。
責めているわけでもない。焦らせているわけでもない。ただ、凛の感覚を信じると言っている。それだけのことが、妙に胸の奥に届いた。
凛は万年筆でノートの端に短く書き付けた。
《廊下、職員室、数ヶ月、奏。》
その四つの言葉の間に、まだ見えていない何かがある。それが何なのかを明らかにするために、明日また動かなければならない。陽菜が元気よく「とりあえずやってみれば」と笑ったあの笑顔が、なぜか凛の頭の隅に残っていた。
夜の静けさの中で、万年筆の先が白い紙の上をゆっくりと動いていった。




