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記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第二部「露光」

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第七章

 澪が鞄からクリアファイルを取り出したとき、放課後の新聞部室はほとんど無音だった。廊下の端から漏れてくる帰宅部員たちの足音が、波のように遠ざかっていく。

「見てください」

 澪は一枚の写真をテーブルの上に置いた。凛と陽菜は同時に身を乗り出した。

 それは廊下で撮られたものだった。フレームの手前側に、制服の背中が写っている。凛はその輪郭を見た瞬間、胸の奥で何かが反応するのを感じた。肩幅。うなじの角度。左腕をわずかに後ろに引く、あの癖。

 桐島奏だった。

 奏の後ろ、数メートル先に立っているのは坂本哲也だった。学年主任として朝のホームルームや廊下でよく見かける、あの中肉中背の男だ。写真の中の坂本は、両手に書類の束を抱えていた。ただそれだけの写真だった。しかし坂本の体の向きが、奏に向かっているのか、それとも奏を避けているのか、判然としない角度で収められていた。

 凛はしばらく黙っていた。

 左耳のヘアピンを外し、また付け直す。その動作を無意識に繰り返しながら、写真の細部を順番に確認していく。廊下の窓から差し込む光の向き。書類の束の厚み。坂本の指が束の端をどう押さえているか。奏の視線がどこに向いているか、背中からは読み取れない。

「いつ撮ったんですか」と凛は訊いた。

「先月の末です。三十日の、放課後。わたし、よく放課後に学校に残って撮るので」

「なぜこの構図を撮ろうと思ったんですか」

 澪はすぐには答えなかった。少し考えてから、「最初は、単純に光が綺麗だと思って構えたんです。でも、シャッターを切った後で、何かがずれているような気がして」と言った。「うまく説明できないんですが。坂本先生の手、書類の持ち方が、廊下で普通に歩いているときの持ち方じゃなかった。隠しているんじゃなくて、でも、見せたくないような」

 陽菜が「わかる、そのニュアンス」と言って身を乗り出した。「なんか、誰かに話しかけられたとき急いでポケットに何か入れる感じに似てる。普段だったら気にしないけど、その瞬間だけ妙に意識する感じ」

「そうです」澪がわずかに表情を緩めた。

 凛はもう一度写真を見た。

「これだけでは何もわからない」と凛は言った。「坂本先生が書類を持って廊下を歩いていた。それだけの事実しか写っていない」

 陽菜が「じゃあ使えないってこと?」と聞いた。

「違う」凛は首を振った。「でも、これは確かに何かがある」

 自分でも少し驚いた。断言するつもりではなかった。しかし口から出た言葉は、迷いのない確信を帯びていた。奏の背中。坂本の手。その二つが同じフレームに収まっていること。凛が連休明けの廊下で見た奏の横顔。目を伏せて、言葉を持たないまま立ち去ったあの瞬間。つながっているかどうかはまだわからない。だが、無関係だとも言い切れなかった。

「整理しましょう」と凛は言い、鞄から大学ノートを取り出した。父親から渡された万年筆のキャップを外す。「今わかっていることと、わかっていないことを分けます」

 その言葉を合図にしたように、三人の間の空気がわずかに変わった。

 情報を整理して仮説を立てる。それは凛がいつも一人でやってきたことだった。問題を構造に分解して、推測と事実の間に線を引いて、整然とした図を作り上げる。だが今日は、ノートを開いた瞬間に、隣に人間がいた。

 陽菜が「わたし、心当たりがある子に話を聞いてみる」と言った。「成績のことで変なことがあったって、前にちらっと聞いたことがある子。ちゃんと確認したことはなかったんだけど」

「誰ですか」

「三組の子。詳しくは会ってから話す。わたしが聞きに行ったほうが絶対に話してくれる。あの子、公式っぽい場が苦手だから」

 凛は一拍おいてから「わかりました」と言った。頼ることが、思ったより難しくなかった。それが少し、不思議だった。

 澪は鞄から別のファイルを取り出した。「これまでに気になって保存してきたもの、全部持ってきました。写真と、日付のメモと、その日に起きていたことのノート」

「全部ですか」

「全部です。始めたのは去年の秋からです」

 凛は澪を見た。去年の秋。ということは、この場に来るよりずっと前から、澪は記録し続けていたことになる。

「証拠の管理は澪さんにお願いしていいですか」と凛は言った。「撮影と保存と、情報の出処の記録。わたしと陽菜さんが動いて集めてきたものを、澪さんに預ける形で」

 澪は少し目を見開いた。それから静かに「はい」と頷いた。

 役割が決まった。凛が情報を整理して仮説を立てる。陽菜が人に会い、話を聞いてくる。澪が記録し、証拠を管理する。誰かが決めたわけではなかった。話しているうちに、三人それぞれの輪郭が自然に収まるべき場所に収まっていったような静けさがあった。

 凛はノートに書き続けながら、ふと顔を上げた。

「一つ聞いてもいいですか」

 澪が「はい」と答えた。

「なぜ今まで動かなかったんですか」

 質問は、意図したより鋭く出た。凛はそれに気づいたが、取り消さなかった。澪が去年の秋から記録を続けていたなら、もっと早く声を上げることもできたはずだった。写真がある。メモがある。日付がある。それだけのものを持ちながら、澪は今日まで一人でファイルを閉じていた。

 沈黙が一拍あった。

 澪はテーブルの上の写真を見ていた。それから凛のほうに視線を戻して、「記録することと、公開することは違います」と言った。

 声は静かだった。感情的でも、言い訳がましくもなかった。ただ、その言葉の裏側に何かが詰まっているような重さがあった。

「記録は残ります。でも公開は、取り返しがつかない。わたしが間違えたら、記録じゃなくて誤報になる。それは、記録を持ち続けることよりずっと怖いことだと思っていました」

 凛は澪を見ていた。

 澪の言葉は凛のものとは違う論理で動いていた。凛は情報の正確さを確認することにこだわる。「それ、本当に確認した?」が口をついて出るのは、確認されていない情報が持つ危険をよく知っているからだ。しかし澪の言う「公開することへの恐れ」は、正確さの問題とはまた別の場所にある。記録の正しさと、記録を外に出すことの意味と、その先に生じる不可逆な変化。澪は、そこを分けて考えていた。

 凛の耳の先が、熱くなった。

 わずかな変化だった。陽菜が気づいたかどうかはわからない。しかし凛にははっきりとわかった。自分が反応している。澪の答えに、反論したい気持ちと、そうではない気持ちが同時に湧いて、まだどちらに整理できていない。

「その考え方は」と凛は言いかけた。「わたしとは少し違います。記録に価値があるなら、伝わらなければ記録の半分は死んでいると思う。少なくとも、今このケースでは」

「そうかもしれません」と澪は言った。否定せず、しかし同意もしなかった。「でも、今日わたしがここにいるのは、伝える決断をしたからです。タイミングの問題だと思っています」

「タイミング」

「全部揃ってから動くんじゃなくて、動きながら揃えていくことが正しいケースがある、ということは、今日初めて考えました」

 澪の口ぶりは静かだったが、言葉の内側に芯があった。凛は何か言おうとして、やめた。反論の形がまだ整っていなかった。整っていないまま声に出すのは凛の流儀ではない。

「続きは、また話しましょう」と凛は言った。

「はい」と澪が言った。

 二人の間に何かが残った。解決していない議論の種が、テーブルの上にそのまま置かれているような感覚だった。それは不快ではなかった。むしろ凛は、その種の重さをどこかで確かめたいと思っていた。

 陽菜は二人を交互に見てから「えっと、話は終わった?」と言った。「なんか、すごく密度の高いやりとりを見ていた気がするんだけど」

「終わってません」と凛は言った。「でも今日のところは、ここまでにします」

「了解」陽菜は両手を軽く叩いた。「じゃあわたしは明日の朝、三組の子に連絡入れてみる。凛は仮説の整理、澪ちゃんは今日もらった情報を既存のファイルに追加する感じでいい?」

「それで」と凛は頷いた。

 窓の外は橙色に傾いていた。新聞部室の壁に沿って積まれた過去の部誌が、低い光の中で背表紙を光らせていた。凛はノートに今日の日付を書き、その下に三つの名前と役割を書き留めた。朝日凛、宮瀬陽菜、十文字澪。

 書いてから、少し不思議な気持ちになった。

 一人でやれることに活動を絞ってきた。チームで動くことの怖さを知っていたから。誰かに頼れば、その分だけ誰かを傷つける可能性が生まれる。リレーのバトンを落としたとき、凛が最初に感じたのは失敗の痛みより、チームメイトの顔を見られないという恐怖だった。

 でも今日、陽菜が「わたしが聞きに行く」と言い、澪が「全部持ってきました」と言ったとき、凛の中で何かが軋むような、あるいは長く固まっていたものが少しほぐれるような感覚があった。

 まだ怖い。それは変わらない。

 でも、この三人で動くことに、凛はどこかで既に同意していた。

 ノートを閉じながら、凛は写真をもう一度見た。テーブルの上の奏の後ろ姿。この背中の向こう側に何があるのか、まだわからない。三年間、言葉を交わさないまま廊下ですれ違い続けた。その沈黙の中に、凛がまだ知らない何かが埋まっている気がした。

 万年筆のキャップを閉じる音が、静かな部室に小さく響いた。

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