第六章
放課後の廊下は、朝とはちがう顔をしている。
午前中の喧騒が引いたあとの静けさの中に、どこかの教室から聞こえてくる吹奏楽の練習音が、遠く薄く混じっていた。五月の光は窓ガラスを斜めに切り取って、掃除されたばかりのリノリウムの床に長い四角形を落としていた。
陽菜が新聞部の部室の前に立ったのは、四時をまわったころだった。
扉には「新聞部」と書かれた小さなプレートが貼られている。ずいぶん前から色が褪せていて、文字の縁がぼんやりとにじんでいた。陽菜はドアを三度ノックした。間があって、「はい」という声が返ってきた。想像していたより静かで、落ち着いた声だった。
「失礼します」
部室は思ったより狭かった。窓際に古い机が二つ並び、壁には新聞の切り抜きがぎっしりと貼られている。その中の一つに向かって、女子生徒が椅子を向けていた。カメラが机の上に置いてあった。
十文字澪は、陽菜を見て立ち上がりもしなかった。
「……宮瀬さん、だっけ」
「そう。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
澪の表情が、かすかに変わった。警戒、というより――身構える、という感じに近い。部室の空気が一瞬ひそまったような気がした。
陽菜にはわかった。この子は、来ることを予測していた。完全にではないけれど、誰かが来るかもしれないとは、思っていたのだ。
「何を」
「例の写真のこと」
澪の目が、少しだけ動いた。机の引き出し、というより、その引き出しの向こう側にある何かを、見ているような目つきだった。
「どこで聞いた」
「まわりまわって。でも詳しくは知らない。だから来た」
しばらく、沈黙があった。
陽菜は澪から目を逸らさなかった。逸らす理由がなかった。聞きたいことがある、それだけだ。そこに裏も策もない。陽菜はいつも、そういうふうにしか動けなかった。複雑な計算をする前に体が動く。だからこそ、こういう場面では奇妙なほど強かった。
澪は陽菜の目を正面から受け止めて、それから小さく息を吐いた。
引き出しの中に、確かに写真がある。あの日、廊下で何気なく切ったシャッター。偶然が写し取った一瞬。澪はそれをどうすべきか、ずっと決めかねていた。一人で抱えていた。
「……今日、一人で来たの」
「ううん」
「え」
「廊下にもう一人いる」
澪の眉が上がった。陽菜は扉のほうを振り返り、「入っていいよ」と言った。
扉が開いた。
朝日凛が部室に入ってきたとき、澪は反射的に立ち上がっていた。
二年生の中では、知らない人間はいない。成績はつねに上位で、目立とうとしているわけではないのに、いつもどこかに存在感がある。廊下ですれ違うと、なぜか記憶に残る。澪はそういう人間として凛を認識していた。
凛は部室の中をさらっと見渡した。切り抜きの並んだ壁、机の上のカメラ、澪の表情、光の差し込む窓の角度。何かを数えているように見えた。情報を集めているような目だった。
「十文字さん、ですよね」
「……うん」
「突然ごめんなさい。私は朝日凛。陽菜から話は聞いてると思うけど」
「大まかには」
澪は凛を見た。凛も澪を見た。
二つの視線が、静かにぶつかった。
澪には、人を「フレームに収める」という習慣がある。カメラを持っていなくても、目で構図を探してしまう。人物の輪郭、光と影の境界線、その人間がその場所に存在することの必然性。澪が澪である理由の一つは、その目にある。記録するために見る目。
凛の目は、ちがった。
澪を「見ている」のではなく、澪を「読んでいる」ように見えた。表情、姿勢、視線の動き、机の上のカメラとの位置関係、引き出しに手が近いこと。それらをすべて情報として処理している目だった。理解するために見る目。
互いが互いを、静かに値踏みしていた。
陽菜だけが、二人の間の空気を気にしないでいた。窓の外に目をやって、グラウンドのほうからかすかに聞こえてくる声に、少し耳を傾けていた。
「その写真、見せてもらえますか」
凛が言った。
余計な前置きも、脅しも、懐柔もなかった。ただ、率直に。
澪は一拍、置いた。
机の引き出しに手をかけたまま、凛の顔を見た。この人は何かを知っている。どこまで知っているかはわからないけど、少なくとも「ただの好奇心」ではない。そのことは、澪にも伝わった。
でも。
「……どっちだと思う」
凛が、わずかに目を細めた。「どっち、というのは」
「見せたほうがいいと思う? それとも、しまっておいたほうがいいと思う?」
意地悪な問いかけではなかった。澪は本気で聞いていた。一人でずっと決めかねていたことを、他者に委ねる最初の言葉として選んでいた。
凛は答える前に、少し考えた。ヘアピンに触れる癖が出かけて、途中で止まった。
「確認してから判断します」
澪の表情が、変わった。
唇の端が、ほんのわずかに上がった。
笑った、と気づいたのは陽菜が先だった。「あ」と小さく声を漏らして、それを慌てて飲み込んだ。
「……正直な人」と澪は言った。
「遠回りが嫌いなんです」
「私も」
澪は引き出しを引いた。
中から取り出したのは、一枚の写真だった。光沢紙に印刷されたもので、スマートフォンのカメラではなく、ちゃんとしたカメラで撮られたことが一目でわかった。構図は意図したものではなく、しかしだからこそ写っているものに言い訳がなかった。
「去年の秋に撮ったやつ」と澪は言った。「撮ろうとして撮ったわけじゃない。廊下で光がきれいだったから、なんとなくシャッターを切った。家で現像したときに気がついた」
凛は写真を受け取り、陽菜が隣から覗き込んだ。
陽菜の顔が、すっと変わった。
「これ……」
「うん」と澪は言った。「そういうこと」
凛は写真を見ながら、一言も言わなかった。ただ見ていた。光の角度を確認するように傾けて、背景を確認して、人物の位置を確認して、もう一度全体を見た。
「保管しておいた理由は」
「捨てられなかった。でも誰かに見せるのも、なんか……ちがう気がして」
「一人で抱えてたんだ」と陽菜が言った。そこに責める色はなかった。ただ、わかった、という声だった。
澪は少し、目を伏せた。「そう」
部室の空気が、変わった気がした。
凛は写真を澪に返した。返しながら、「もう少し話せますか」と言った。
澪はうなずいた。それだけで十分だった。
窓の外では、吹奏楽の練習音がまだ続いていた。低く、くり返し、同じフレーズを何度もなぞりながら。完成を目指して。正しい音を探しながら。
椅子を向き合わせて、三人が座った。
分析する者、行動する者、記録する者。
誰かがそう名付けたわけではない。ただ、そこにそれぞれの力が持ち寄られた。三人がバラバラのまま、一堂に集まった。それだけで十分だった。少なくとも今は、それだけで。
物語は、次の段階へ踏み出す準備を、静かに整えていた。




