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記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第一部「静止画」

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第五章

 五月の午後は、図書館の中でだけ時間の進み方が違う。

 放課後の司書室に隣接した資料閲覧コーナーには、窓から差し込む西日が斜めに伸びて、埃の粒子を金色に光らせていた。朝日凛はその中に一人座り、年代順に並べられたファイルを一冊ずつ開いては、目を走らせ、閉じた。

 学校新聞のバックナンバーだった。

 壁際の棚の下段に、クリーム色のファイルが五年分ほど並んでいる。ラベルには手書きで年号が記されており、いちばん古いものは背表紙が少し反り返っている。凛はそのうちの三冊を机に積み、ページを繰りながら細かな字を拾っていた。

 学校の公式記録には乗らない話が、新聞には残ることがある。

 そう気づいたのは昨日のことだった。澪から受け取った写真の端に、掲示板の端が写っていた。そこに貼られていた何か――おそらく差し替えられる前の掲示物――の残影を追ううちに、凛は「記録」というものの意味について考え始めた。学校が公式に残す記録と、そうでない記録。後者の中に、前者が消したかったものが潜んでいることがある。

 新聞部が発行してきたこの学校新聞は、年に三回発行で、記事の内容はほとんどが行事報告や部活動の紹介だ。読み飛ばせる記事が大半だとわかっていても、凛は一行ずつ確認せずにいられなかった。見落としへの恐れというよりも、これは性分だと自分でも思っている。

 左耳のヘアピンを外して、また挿し直した。

「何してるの?」

 声がした。

 顔を上げると、宮瀬陽菜が資料コーナーの入り口に立っていた。ショートボブの毛先が蛍光灯の下でわずかに光っており、肩にかけたトートバッグの持ち手を両手で掴んでいる。目が合うと、右の口角がすこし上がった。

 凛は一秒、考えた。陽菜とは同じクラスで、席が近い。話しかけてくる頻度が高く、声が明るく、感情の動きが外側にすぐ出る。観察するぶんには面白い相手だと思っていたが、一緒に何かをやる相手として意識したことはなかった。

「調べもの」

 短く答えて、ページに目を戻した。

 陽菜は返事を待たずに入ってきた。椅子を引く音がして、凛の斜め向かいに座る気配がした。

「私も手伝う」

「なぜ」

「なんとなく放っておけない」

 凛は顔を上げた。陽菜は真正面からこちらを見ていた。隠し事のない目、と凛は思った。嘘をついても一瞬でバレそうな、全部が表に出てくる目だ。

 放っておけない、という理由は理由になっていない。論理的な根拠が何もない。そういう言葉を受け取るとき、凛はいつも少し戸惑う。

「……それ、本当に確認した?」

「した」

 間髪入れない返答だった。

 凛はしばらく陽菜の顔を見た。嘘をついている様子はない。それどころか、なぜそんなことを訊かれるのかわからない、という表情をしている。

「……わかった」

 凛はファイルの一冊を陽菜の前に押し出した。「こっちを見て。二年半前から三年前の号。気になる記事があったら教えて」

 陽菜はすぐにページを開いた。その速さに、凛は内心で小さく計算した。行動力がある。指示を受けてから実行するまでのラグが短い。感情で動くタイプは読みにくいことがあるけれど、動いてくれるという点では使えるかもしれない。

 使える、という言葉を頭の中で転がしたとき、凛はわずかに自分を嫌だと思った。人を道具として見積もるのは癖だが、この言葉のままにしておくのは少し違う気がした。

 陽菜はページをめくりながら、時折首を傾けたり、指で行を追ったりしている。黙っているときの陽菜は思ったよりも落ち着いていた。賑やかな場でのイメージが強かったが、集中しているときはこういう顔をするのだと知った。

 凛はまた自分のファイルに向き直った。

 西日が伸びて、二人の間の机の上に長い影を作った。ページをめくる音が交互に重なる。図書館には他に誰もいなかった。

 三年前の号を開いたとき、凛の手が止まった。

 表面的には普通の記事だ。学校行事の報告、文化祭の振り返り、合唱コンクールの結果。だが四ページ目の下段、いちばん目立たない位置に、小さな囲み記事があった。

「村上朔、自主退学」

 タイトルはそれだけだった。本文は三行しかない。学業に秀で、複数の賞を受けた生徒が、一身上の都合により自主退学した。学校は本人の意思を尊重した。在校生一同、今後の活躍を祈っている。

 凛は三回、読んだ。

 最後の一文が引っかかった。「在校生一同、今後の活躍を祈っている」。それ自体はよくある言い回しだ。だが、その前の文章と並べると、微妙なずれがある。本人の意思を尊重した、と書いておきながら、次の文では学校側の視点からの祈願で締めくくっている。主語が途中で切り替わっている。

 丁寧な文体だ。読む分には滑らかで、問題のある記事には見えない。だが何かを言い切っていない。どこか、一歩手前で踏みとどまった印象がある。

「凛、ちょっと」

 陽菜の声がした。

 凛は顔を上げた。陽菜が同じページを開いていた。凛のものより一号分新しいファイルだ。

「これ、同じ人の名前が出てくる。村上朔って書いてある」

 陽菜が指さす先を見た。それは学校新聞の一面、学内の成績優秀者を紹介するコーナーだった。二年半前の号だ。写真入りで、端正な顔立ちの男子生徒が小さく写っている。記事には「全科目で高得点を記録、今年度最優秀生徒に選出」と書かれていた。

 凛は自分のファイルと陽菜のファイルを並べた。

 二年半前に最優秀生徒として紹介された人物が、三年前の号では自主退学を報じられている。

「……号の発行時期が逆だ」

 凛は静かに言った。「こっちの最優秀記事が二年半前。自主退学の記事が三年前。つまりこの人は、成績が評価されてから後に退学したんじゃなくて――」

「退学してから後に、表彰記事が出た?」

 陽菜が言葉を引き取った。二人は顔を見合わせた。

「おかしいね」と陽菜が言った。声に笑いは含まれていない。「退学した人を、退学後の新聞で表彰する?」

「記事の制作スケジュールがあるから、発行タイミングにズレが出ることはある」凛は言った。「でも、それにしても」

 言い切らなかった。

 凛はもう一度、退学記事の最後の一行を読んだ。「在校生一同、今後の活躍を祈っている」。

 書いた人間は、何を知っていたのだろう。何を知っていて、何を書けなかったのだろう。丁寧に整えられたその文体の中に、隠しきれなかった何かが滲んでいる気がする。だが、この時点ではまだ形がつかめない。

 凛はノートを取り出した。万年筆のキャップを外す。父親から渡されたその古い筆記具は、インクが紙に乗る感触が少し重く、凛はそれが好きだった。

「二つ、書き留めておく」と凛は言った。「一、村上朔という人物が三年前に自主退学している。二、退学記事の文体に不自然な点がある。この二つを出発点にする」

 陽菜が凛のノートを横から見た。「図になってる」

「整理しやすいから」

「すごいね」陽菜は感嘆したように言った。嘘のない言葉だと思った。「私、こういうの全然できない。思ったことがそのまま外に出ちゃうから」

「それはそれで使えるよ」

 言ってから、凛は少し止まった。また「使える」と言ってしまった。

 だが陽菜は気分を害した様子がなかった。「そっか」と笑った。「じゃあ私のこと使って」

 その言い方がおかしくて、凛は声を出さずに少し笑った。自分が笑ったことに、少し遅れて気づいた。

 ページをめくりながら、凛は思った。この人と話すのは、思ったより楽ではないか。楽だと認めることに何か抵抗があって、今まで人の申し出を受け入れることを避けてきた気がする。でも、今日のこのやりとりは、重くなかった。

 陽菜がまたページを繰る。その音を聞きながら、凛は村上朔という名前を万年筆で書き、その下に細い線を引いた。

 何かが、ここから続いている。

 三年前の退学記事と、澪の写真と、奏の伏せた目と、差し替えられた掲示板と。点はまだ点のままだ。だが、並べることによって初めて見えてくる形というものがある。

 凛はヘアピンを外し、また挿し直した。

「次の号、見せて」

 陽菜は黙って隣のファイルを差し出した。

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