第四章
校舎の空気がいつもと少し違って感じられた。
祝日を挟んだ浮つきが廊下の隅にまだ漂っているような、それでいてもう平日の重力に引き戻されているような——その中途半端な気怠さの中で、凛は掲示板の前で足を止めた。
職員室前の廊下。連休前にここを通ったとき、凛は確かに一枚の貼り紙を目にしていた。「推薦枠の変更通知」という見出しの、A4サイズの紙だ。大学推薦の一部が縮小されるという内容で、それほど詳しく読んだわけではなかったが、見出しだけははっきりと記憶に残っていた。
ところが今、その場所には別の紙が貼られている。進路相談会のお知らせ、という、ありふれた内容の告知だ。
凛はひとまず立ち止まり、掲示板全体を眺めた。周囲の貼り紙との境目。紙の端が微かに波打っているのは、下に別の紙が存在していることを示している。新しい紙の右下の角が、わずかに浮いていた。
指で角を押さえ、凛は確かめる必要はないと自分に言い聞かせた。掲示板の差し替えなど、学校ではよくあることだ。情報が更新されれば貼り替えるし、内容が間違っていれば修正する。それだけのことかもしれない。
——でも。
『それ、本当に確認した?』
凛は自分の口癖が、自分自身に向かって返ってくるのを感じた。他人の発言に対してこの問いを向けることは何度もある。だが今、問いの矛先は凛自身に突き刺さっていた。
自分は、確認したか。
推薦枠の変更通知が消えたことを。その事実を、自分の目で確かめたか。
廊下の奥から生徒の話し声が近づいてきて、凛は静かに掲示板から離れた。紙の角に触れることはしなかった。今はまだ、その時ではない気がした。
その日の放課後、桐島奏の姿をまた見かけた。
奏は職員室から出てくるところだった。手に何か紙を持っており、廊下を早足で歩いていた。角を曲がりかけたところで凛と目が合い——瞬間、奏は視線を伏せた。歩みは止めなかった。まるで凛など見えていないかのように、そのまま角を曲がって消えていった。
三年間、ずっとそうだ。
中学二年の夏から、二人はほとんど言葉を交わしていない。廊下ですれ違うたびに、奏は目を伏せるか、あるいは意図的に視線を外す。凛もまた、声をかけることができなかった。あの日のリレーの後から、二人の間には言葉の代わりに沈黙が積み重なっていった。
今日の奏の表情は、しかし、いつもと少し違った。何か張り詰めたものを感じた。唇が薄く結ばれていて、目の下にうっすらと疲労の色があった。手に持っていた紙のことも気になった——何かを渡されたのか、何かを返却されたのか。
凛はその場に一瞬立ち尽くしてから、歩き出した。
考えすぎかもしれない。でも。
夜、自室の机の前に座った凛は、A4のノートを開いた。
授業のノートではない。凛が「考え事専用」と決めている一冊で、方眼紙のページに自分だけが読める記号と図式が書き込まれている。古い地図のようにページを広げ、凛は万年筆のキャップを外した。
父からもらったその万年筆は、インクが少し掠れながら書かれる。鉛筆のような軽さはなく、紙の上を引きずるような重さがある。だからこそ凛はこれで書くことが好きだった。言葉が定着する感触がある。
まず「奏の様子」と書いた。
職員室から出てきた。手に紙。目の下に疲れ。視線を伏せた——これはいつものことかもしれないし、そうでないかもしれない。判断保留、と書いて矢印を引く。
次に「掲示板の差し替え」。
推薦枠の変更通知。連休前にあった。連休明けにはない。別の紙で上から貼られている。紙の端が浮いていた。——これは事実として書ける。差し替えが行われたこと自体は確認できる。理由は不明、と書いた。
それから少し迷ってから、「陽菜が言っていたこと」と書いた。
昨日の昼休み、クラスメイトの宮瀬陽菜が何気なく言っていたことを思い出す。新聞部の十文字澪という三年生が、先月あたりから「変な写真を撮っていた」という話だった。「変な、って?」と凛が聞き返すと、陽菜は「なんか、掲示板とか廊下とか、授業と関係ないものばっかり撮ってるって」と肩をすくめた。「写真部でもないのに、一眼レフ持ち歩いてるんだって。ちょっと不思議だよね」
凛はそのとき、ふうん、とだけ答えた。特に気にしていなかった。
でも今、その情報はノートの上で他の二つと並んでいる。
奏の様子。掲示板の差し替え。澪の「変な写真」。
三つの点を眺めながら、凛はヘアピンに手をやった。左耳の後ろで束ねた髪を留めているそれを、外す。髪がほどけて頬に落ちかかる。もう一度留め直す。また外す。
これが線になるかどうか、まだわからない。
関係のないことが偶然重なっているだけかもしれない。学校という場所は常にさまざまなことが起きていて、その全てが繋がっているわけではない。凛はそれを知っている。パターンを見つけようとする認知の癖が、存在しないパターンを作り出すこともある。
それでも。
凛はノートの中央に、小さく丸を描いた。そこから三本の線を引いて、奏、掲示板、澪、と書いた。丸の中には何も書かなかった。まだ何が中心にあるのかわからないから。
ヘアピンを外す。
付け直す。
万年筆のインクが少し掠れて、ノートの上に線が途切れた。
凛は筆を止めて、天井を見上げた。部屋の明かりが白く四角く広がっている。窓の外は深夜の静けさで満ちていた。この時間が好きだ。世界が余分な音を全部落として、輪郭だけになる。
ひとつの問いが、ゆっくりと言葉の形を取り始めた。
——見て見ぬふりをするか。確認しに行くか。
そのどちらかだ。
見て見ぬふりをすることは、難しくない。この三つの点が無関係であると判断して、ノートを閉じる。明日は普通に学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。それだけでいい。
でも凛には、自分がすでにそれをできないことがわかっていた。問いが生まれてしまったから。一度「確認したか」と問うてしまったら、確認するまでその問いは消えない。それが凛という人間の、どうしようもない性質だった。
確認しに行く、としたら。
どこへ。何を。一人でやれることには限界がある。凛はそれも知っていた——知っていたはずなのに、いつも一人でやろうとしてしまう。リレーの後から、特に。チームで何かをすることの怖さを、三年間抱えてきた。
それでも。
陽菜がいる。澪がいる。
凛はヘアピンを、今度はきちんと留めた。いつもより少しだけしっかりと。
ノートの丸の中に、万年筆でゆっくりと「?」と書いた。答えではなく、問いそのものを置いた。問いが生まれたことは、凛にとって何かの始まりだと感じた。始まりが怖い。でも、始まらないことの方が、もっと怖い。
明日、掲示板をもう一度見よう。
それだけ決めて、凛はノートを閉じた。万年筆のキャップをはめる。カチリ、という小さな音が、深夜の静けさの中で思ったよりも澄んで響いた。




