結末
坂本哲也の名前が職員会議の議題に上がった翌週、校内には異動の噂が流れた。
確定ではない、とクラスメイトたちは口々に言った。でも何かあったのは確かだ、とも。廊下でその話が飛び交うたびに、凛は自分の鞄の肩紐をぎゅっと握り、何も言わなかった。言う必要はなかった。記録は、もう外にある。
澪が書いた記事が校内新聞に掲載されたのは、連休明けからちょうど三週間後のことだった。
「成績記録の運用に関する疑義について――生徒の記録は誰のものか」
タイトルは澪が一人で決めた。凛も陽菜も口を出さなかった。出せなかった、というほうが正確かもしれない。あの子が選ぶ言葉には、いつも何か静かな確信が宿っていたから。
記事は慎重に書かれていた。断定を避け、事実と疑問符だけを並べた文章は、読む者に結論を委ねる構造になっていた。坂本の名前は出ていない。しかし掲示板から差し替えられた一枚の文書、記録簿の日付の不整合、そして三年前に自主退学した生徒の存在――それだけが、静かに並んでいた。
世界はすぐには変わらなかった。
記事を読んだ教師が廊下で澪に声をかけ、何かを問いただそうとしたと陽菜から聞いた。澪はそのとき、「全部、事実確認済みです」とだけ答えたらしい。陽菜が「めちゃくちゃかっこよかった」と言うから、凛は小さく笑った。そうだろう、と思った。
坂本の異動は、五月が終わる頃に正式に発表された。理由は「人事上の都合」とだけ記された。それ以上の説明はなかった。推薦制度の見直しについては、来年度から「選考基準を文書化する」という通達が生徒向けに出た。不十分だ、と凛は思った。でも、一石は投じられた。記録は残った。それは確かなことだった。
奏に声をかけたのは、坂本の異動が噂になり始めた日の放課後だった。
校舎の外、渡り廊下の手すりに背を預けるようにして奏は立っていた。五月の夕方の風が、彼女の長い黒髪を軽く揺らしていた。凛が近づいても、奏はしばらく視線をそこに向けなかった。気づいていないふりをしているのか、本当に気づいていないのか、凛には判断できなかった。
でも、止まった。凛の足が、自然に止まった。
「桐島」
名前を呼んだのは、たぶん三年ぶりだった。
奏が顔を上げた。中学の頃と変わらない目だ、と凛は思った。黒くて、深くて、何かをずっと押し込めているような目。
「……朝日」
「ちょっと、話せる?」
沈黙があった。短くはなかった。風が渡り廊下を通り抜けた。奏はその間、凛の顔をじっと見ていた。値踏みではなく、確認するように。
「うん」と奏は言った。
二人は渡り廊下の端に並んで立った。肩が触れない距離。でも逃げ出せない距離でもある。
凛は最初、何か整理された言葉を用意しようとした。でも、開口一番に出てきたのはそれではなかった。
「三年前のこと、ずっと謝れなかった」
奏が少し目を細めた。
「……あのリレーの話?」
「そう」
「凛が謝ることじゃないよ」奏の声は、凛が想像していたより穏やかだった。「あれはたまたまそうなっただけで、あなたのせいじゃ」
「違う」凛は遮った。「謝りたいのはそっちじゃなくて」
奏が黙った。
「その後、ちゃんと話しかけなかったこと。あなたが傷ついてるのに気づいてたのに、自分が怖くて避け続けたこと。それが、ずっと残ってた」
言葉にすると、思っていたより小さかった。三年間抱えていたわりには。でも奏の目が、わずかに動いた。
「私も」と奏は言った。「避けてたよ。お互い様だと思う」
「うん」
「でも」奏は手すりを軽く握り直した。「記事、読んだ。澪先輩のやつ」
「読んだんだ」
「……村上朔先輩の名前は出てなかったけど、わかった。あの人のこと、誰かが覚えてくれてるって思ったら、ちょっと、なんか」
奏は言葉を途切らせた。続きを探しているようだった。凛は急かさなかった。
「ちゃんと怒っていいんだって、初めて思えた気がする」と奏は最後に言った。
凛はヘアピンに触れそうになって、やめた。
「もう一回、話せる? 今日みたいに」
奏は少しの間、空を見た。夕方の空は橙と薄青が混ざって、曖昧な色をしていた。
「たぶん、ね」と奏は言った。「すぐには、いろいろ元通りにはならないと思う」
「わかってる」
「でも今日みたいに話せたから」
それで十分だった。「また一緒にいられるかどうかわからない」という言葉が奏の口から出ることはなかったけれど、凛にはわかった。二人とも同じ場所に立っている。今日話せているという事実だけを手元に持って、そこから先は、まだ白紙のまま。修復ではない。でも、再開の感触は確かにあった。
澪を見つけたのは、写真部の暗室の前だった。
扉の横の小窓に「現像中」の札がかかっていて、凛はしばらくそこで待った。五分か、十分か。やがて扉が開いて、澪が出てきた。手に半乾きの印画紙を持っている。
「待ってたの」と澪は言った。驚いた様子はなかった。
「うん。ちょっと話したくて」
澪は廊下の壁に背を預け、印画紙を軽く振った。水分を飛ばすように。
「記事のこと?」
「記事のこと、と、あなたのこと」
澪が凛を見た。静かな目だった。いつもそうだ。見ている側が映されているような感覚になる。
「私のこと」
「新聞部の人に何か言われたって聞いた」凛は言った。「あなたが書いた記事を、没にしようとした顧問がいたって。それでも載せた」
「……陽菜から聞いたんだ」澪は小さく息をついた。「あの子、言いすぎ」
「でも、してよかったと思ってる?」
沈黙。澪は印画紙に視線を落とした。そこに何が写っているのかは、凛の位置からは見えなかった。
「わからない」と澪は言った。「正しかったかどうかは、もっと後にしかわからないと思う。でも」
少し間があった。
「記録した、っていうことは変わらない。残った、っていうことも。それが私にできることで、私がすることで、それでいいって思ってる」
否定でも肯定でもない言葉だった。でも確かに、何かを受け入れた声だった。暗室で少しずつ浮かびあがる像のように、この数週間で澪の輪郭が凛の中に定着していく感覚があった。消えない形で、しかし静かに。
「そっか」凛は言った。「ありがとう、澪」
澪は印画紙を一度まじまじと見て、それから顔を上げた。少し照れたような、でも素直な顔をした。
「凛が分析してくれなかったら、記事は書けなかったよ」
「陽菜が動いてくれなかったら、そもそも材料がなかった」
「三人でやったやつだからね」と澪は言って、小窓のほうをちらりと見た。「もう一枚、現像してくる」
陽菜に連絡が来たのは、その日の夜だった。
「終わったね」というメッセージと、手書きの文字を撮った写真が届いた。「完全じゃないけど、いい感じに終わった気がする」と書いてある。凛は画面を見て、ヘアピンを外してまた留め直した。そうだな、と思った。完全じゃない。でも、いい感じ、だ。
翌日の昼休み、三人は図書室の奥の席に集まった。特に示し合わせたわけではなく、自然にそうなっていた。
澪が窓際の棚から本を一冊引き抜いて、読み始めた。陽菜が菓子パンを取り出して半分を凛のほうに差し出した。
「甘すぎないやつ選んだよ」と陽菜は言った。「好みわかってきた」
「本当に確認した?」凛は言った。
「した!」陽菜が即答した。「ちゃんと裏の原材料見たもん」
澪が本から顔を上げずに口を開いた。
「……どっちだと思う?」
一拍の沈黙。
それから三人同時に噴き出した。陽菜が机を軽く叩いて「澪が言った!」と指を差した。澪は照れを隠すように本で顔を覆い、凛は笑いながら菓子パンを受け取った。
窓の外では、五月の風が校庭の木々を揺らしていた。緑が光を弾いて、まぶしく白く輝いた。
三つの声が、同じ場所で鳴っていた。
それだけが、確かなことだった。




