第二十五章
五月の終わりに差し掛かった頃、坂本哲也が異動になったという話が校内を静かに流れた。
誰かが声高に告げたわけではなかった。朝のホームルームが終わった廊下で、昼休みの購買前の列の中で、放課後の昇降口の脇で、ひそやかに、しかし確実に伝わっていった。「坂本先生、来月から別の学校らしいよ」「推薦の仕組み、見直されるって本当?」そういった断片が積み重なって、凛の耳にも届いた。
完全な解決では、なかった。
それは凛がいちばんよく知っていた。改ざんされた記録が完全に回復されたわけでも、被害を受けた生徒全員が然るべき評価を得たわけでもない。学校側が推薦制度の見直しを始めたというのも、正式な発表があったわけではなく、職員室に出入りした誰かが漏れ聞いた話に過ぎなかった。三年前に「自主退学」という形で学校を去った村上朔の名前も、まだどこにも正式には出ていない。
それでも、何かが動いた。
凛はその事実を、万年筆のインクが紙に滲む感触のように、静かに自分の中に定着させた。
澪が暗室に閉じこもっていると、凛は陽菜から連絡で聞いた。
「現像するって。今週ずっと」
陽菜のメッセージは短かったが、その短さの中に何かを見守るような気配があった。凛は返信を打ちながら、澪が今何を現像しているのかを想像した。
新聞部の暗室は、美術棟の一番奥にある小さな部屋だった。赤い安全灯の下で、澪は現像液の入ったトレイに印画紙を浸していた。
浮かび上がってくる像を、澪はじっと見つめた。
最初の一枚。図書館の窓際の席で、ノートを広げている凛だった。
撮ったのは二週間前だ。澪が参考文献を探して図書館に来たとき、凛はすでにそこにいた。声をかけようとして、やめた。凛が何かを書き込むたびに左耳のヘアピンを外して付け直す、その繰り返しの動作に気づいて、気がつけばカメラを構えていた。
印画紙の上で凛は俯いていた。光が窓から斜めに差し込んで、万年筆を持つ手と開かれたノートの上に落ちている。凛自身はそれを知らない。自分がそういう光の中にいたことを、きっと知らない。
次の一枚。廊下を歩く陽菜だった。
これは偶然だった。澪が校舎の二階から一階に向かって移動しようとしたとき、ちょうど陽菜が昇降口から勢いよく入ってきたのが窓から見えた。誰かと話しながら、大きく手を振りながら、陽菜は廊下を歩いていた。笑っていた。何がそんなに可笑しいのか、声は聞こえなかったけれど、その笑いが嘘のない笑いだということは窓越しでも伝わった。
印画紙の中の陽菜は、自分が撮られていることに気づいていない。気づいていたら絶対に変な顔をして見せる、そういう子だと澪は思う。だからこの一枚は、陽菜が陽菜として存在している瞬間の記録だ。
そして三枚目。
奏が、窓の外を見ていた。
奏の写真を撮ったのは、澪にとっても予期せぬ出来事だった。調査が大詰めを迎えていた頃、澪は坂本の動向を追うために校舎のあちこちを動き回っていた。そのとき、三年生の教室棟の前を通りかかった。廊下の奥に、奏が立っていた。窓に身を寄せて、外を見ていた。
何を見ていたのか、澪にはわからなかった。校庭なのか、空なのか、それとも何も見ていなかったのか。ただ、その横顔に何かがあった。表情が読めないのに、何かが確かにそこにある。澪はシャッターを切った。
現像された三枚の写真を、澪はトレイから引き上げてクリップに吊るした。乾いていく間、澪はそれらを見上げた。
どれも、本人たちには見せていない写真だった。
見せるべきかどうか、澪はずっと考えていた。でも今は、まだいい、と思っていた。これは記録として残す。それだけでいい。いつかこの写真が必要になるときが来るかもしれないし、来ないかもしれない。でも撮った瞬間があったことは、この印画紙の上に定着している。それだけで澪には十分だった。
安全灯の赤い光の中で、三枚の写真が静かに揺れていた。
屋上に三人が集まったのは、それから数日後の放課後だった。
特別な理由があったわけではない。陽菜が「屋上行こうよ」と言い出して、凛が「鍵は?」と言って、陽菜が「澪が借りてきた」と言って、澪が無言で鍵を見せた。それだけのことだった。
五月の終わりの空は高く、風が柔らかく吹いていた。フェンス越しに校庭が見え、遠くに住宅街の屋根が続いている。部活の声が遠くから聞こえてくる。
三人は特に何をするでもなく、フェンスに寄りかかったり、コンクリートの縁に腰を下ろしたりしながら、話していた。内容は、他愛のないことだった。
陽菜が昨日の授業で隣の席の子が寝ていたという話をした。澪が図書館で借りた本が予想外に面白かったという話をした。凛は弟の蒼が最近妙に背が伸びていて、すれ違うたびに測りたくなると言った。
笑い声が混じった。屋上の空気の中に、自然に。
陽菜がふと「そういえば」と言った。
「村上さんのこと、お母さんが知り合いと会ったとき話題になったって。裁判とかじゃなくて、でも何か動くかもって」
凛は頷いた。陽菜の言葉の意味を静かに受け取って、しばらく空を見た。
「それ、本当に確認した?」
凛が言った。口癖のように、しかしそれが口癖であることを自分でも知っていて、少しだけ自嘲を含んだ声だった。
陽菜が即座に振り向いた。
「した!」
はっきりと、笑いながら言った。右の口角が少し上がった、あの非対称の笑顔で。「お母さんが二回確認したって言ってたから、私も信用した」
凛はそれを聞いて、少し目を細めた。
澪が、二人のやり取りを見ていた。少し間を置いて、言った。
「……どっちだと思う?」
凛と陽菜が澪を見た。
「どっちって何が」と陽菜が問い返す。
「確認したかどうか」
陽菜が「した、って言ったじゃん」と笑う。澪は真顔のまま、しかしその目のどこかに笑いの気配があった。
三人の笑い声が屋上に広がった。フェンスの向こうに流れて、五月の終わりの風の中に溶けていった。遠くの部活の声と混ざって、どこへともなく消えていった。
凛はそのとき、奇妙な感覚を覚えた。
胸の中の、何かが緩んでいた。
緩む、という感覚が凛には久しく馴染みのないものだった。ここ数週間、ずっと何かを確かめながら動いていた。証拠を、整合性を、次の手を。でも今この瞬間、確かめなければならないものは何もなかった。陽菜が笑っていて、澪がそこにいて、屋上の風が吹いていた。それだけだった。
凛の耳の先が、わずかに赤かった。気づいている者がいるとしたら、澪だっただろう。
笑い声が落ち着いた後、少しの間、三人は黙った。
凛は奏のことを考えていた。
職員室前の廊下ですれ違った日のこと。奏が目を伏せて立ち去ったこと。三年間ほとんど言葉を交わさなかった三年間のこと。そしてあの横顔の写真のことを、凛は澪から見せてもらっていないのに、なぜか想像できた。奏がどういう顔で窓の外を見ていたか。
まだ、話せていない。
完全な解決ではない、と思ったとき凛が抱えていたのは、学校の問題だけではなかった。奏との間にある三年間の沈黙は、何も解かれていない。でも凛は今、それを「解かなければならない問題」としてではなく、「向き合わなければならない事実」として、初めてはっきりと見ることができた気がした。
怖いと思った。でも怖いと思うことが、逃げていないということでもあると、今は思えた。
陽菜が空を見上げて「もうすぐ梅雨だね」と言った。
「嫌い?」と澪が聞く。
「好き。なんか落ち着く」
「凛は?」
凛は少し考えてから言った。
「雨の図書館が好きだから、梅雨は悪くない」
陽菜が「あー、確かに」と頷く。澪は黙って、カメラを手に取った。
凛と陽菜は気づいていなかった。澪がカメラを構えていることに。凛はまだ空の方を見ていて、陽菜は笑いながら何か言いかけていた。
澪はファインダーを覗いた。
二人が、屋上の光の中にいた。
シャッターを切った。
その音だけが、静かに残った。
カシャ、という小さな音が、風の中に吸い込まれた。凛も陽菜も気づかなかったのかもしれないし、気づいて気づかないふりをしたのかもしれない。
澪はカメラを下ろした。ファインダーから離した目で、もう一度二人を見た。
この一枚も、しばらくは見せない。でも現像する。記録として、残す。
この三人がここにいた時間のことを、誰かが覚えていなくなっても、写真は覚えている。それが澪にとっての、記録することの意味だった。
屋上の風が吹き続けていた。遠くから、部活の掛け声が聞こえていた。




