表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第四部「定着」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/26

第二十四章

 五月の夕方は、ひどく静かに長い。

 放課後の廊下から生徒の声が引いていくと、校舎の中にはどこか水が引いた後のような空気が残る。水槽の底みたいだ、と凛はいつか思ったことがあった。誰もいなくなってから、ようやくそこにいられる場所。

 奏を見つけたのは、図書室の向かい、窓際の踊り場だった。

 西日が床に長く伸びて、奏はその端に立っていた。制服のポケットに両手を入れたまま、外を見ているのか、ガラスに映る自分を見ているのか、判然としない視線で。凛の足音に気づいた瞬間、かすかに肩が揺れた。

「……凛」

「奏」

 二人とも、それ以上の言葉をすぐには出せなかった。三年分の沈黙というのは、案外質量を持っている。踏み込もうとすると、足裏でその重さが感じられる。

 凛はヘアピンに指先を当てた。外しかけて、やめた。

「話せる?」

 短く、問う。

 奏は少しだけ迷うように視線を床に落とし、それから顔を上げた。「うん」と言った。

 二人は並んで窓の前に立った。誰かに聞かれるのを避けるでも、どこかに座るでも、距離を詰めるでもなく、ただ並んで、窓の外の色を変えていく空を見た。

 最初に口を開いたのは、奏だった。

「リレーのこと」

「うん」

「あのとき、私は怒ってた」

 凛は息を吸った。静かに、ゆっくり。「知ってた」と言った。

「知ってたんだ」

「見てたから。あの日の顔、覚えてる」

 奏が少し黙った。窓の外で、鳥の影が横切った。

「怒るのは当然だと思ってた、私は」と凛は続けた。「バトンを落としたのは私で、チームを失格にしたのも私だった。だから、怒ってくれた方がよかった。ちゃんと言ってくれた方が」

「言えなかったよ」奏の声が、少し低くなった。「なんて言えばいいかわからなかった。怒ってたのは本当だけど、凛が泣いてるのも見てたから。……どっちの気持ちも本物で、それが同時にあって、うまく整理できなかった」

 凛は黙って聞いた。

「でも」

 奏が続けた。

「凛がいなくなったのは、もっと嫌だった」

 その言葉が、踊り場の空気の中に落ちた。

 凛は一度まばたきをした。耳の先が、じわりと熱くなるのを感じた。「……それは」と言いかけて、少し間を置いた。「確認してなかった」

 奏が、はじめて笑った。かすかに、でも確かに。「今してるじゃん」

「……そうだな」

 凛は視線を前に戻した。夕空が赤みを帯びていて、その色がガラスに反射して二人の顔を照らしていた。

「陸上やめた後も、同じ中学にいて、同じ高校に来て」と凛は言った。「何度かちゃんと話そうとした。でも奏が目を伏せるから、私も踏み込めなかった」

「目を伏せてたのはわかってた」奏が言った。「どう話せばいいかわからなくて、そうしてた。……最悪だよね」

「最悪ではない」凛はすぐに言った。「私も同じことしてたから」

 少しの沈黙。

「また一緒にいれるか、わからないけど」

 凛がそう言ったのは、投げ出すためではなかった。正直に言うしかなかったから言った。三年間が三秒で消えるわけじゃない。積み重なったものは積み重なったまま、そこにある。

 奏はすぐには答えなかった。踏み場のない積雪を確かめるみたいに、少しだけ考えてから口を開いた。

「わからなくていいよ」

「え」

「今、話せてる」奏は言った。「それだけで、今は十分じゃない?」

 凛は答えられなかった。喉の奥に何かがあって、言葉にならなかった。

 だから黙って、うなずいた。

 その瞬間だった。

 凛の左側で、小さな音がした。

 床に何かが落ちる、乾いた音。

 視線を下に向けると、ヘアピンが西日の中に転がっていた。いつの間にか、外れていたらしかった。

 奏が先にしゃがんで、それを拾い上げた。

 立ち上がりながら、凛の方に差し出す。ためらいもなく、ごく自然に。

 凛は受け取った。

「ありがとう」

 それだけだった。

 それだけで、十分だった。

 ヘアピンを指先に挟んで、凛はそれをまた左耳の後ろに留めた。いつもの位置。いつもの角度。でも何かが、少しだけ違う気がした。違う、というより、少し軽くなった、のかもしれない。

 二人はしばらくそのまま立っていた。話すでもなく、急いで離れるでもなく。夕空の色が赤から橙に変わって、廊下の端に誰かの足音が聞こえてきて、二人はごく自然に、それぞれの方向に歩き始めた。

 振り返らなかった。

 でも、それでよかった。


 翌朝。

 食卓に座ると、蒼がちょうど牛乳を飲み終えるところだった。コップをテーブルに置いて、こちらを見た。

 蒼は人の顔を見るのが好きな子どもだった。小さいころから、人の表情をじっとみつめて「なんかおかしい」とか「あ、嬉しいんだ」とか言う子どもだった。凛はそれを面倒くさいと思っていたこともあったし、ありがたいと思ったこともあった。

「姉ちゃん」

「なに」

「なんか顔変わった」

 凛はトーストにバターを塗る手を止めなかった。「そう?」

「うん」と蒼はあっさり言った。「なんか、前と違う」

 前と違う。どう、とは言わない。ただ違う、と言う。

 凛はトーストを一口かじった。噛みながら、少し考えた。

 どう答えるか、じゃなくて、どう受け取るか、を考えた。

 それは変化だった。以前の凛だったら「そんなことない」か「気のせい」と返していた。何かを認めることが怖かったし、変化を指摘されることがくすぐったかった。自分の内側に誰かを入れることを、うまくできなかった。

「……そうかも」

 凛は言った。

 蒼が少し驚いたように目を丸くした。それからすぐに「ふうん」と言って、ランドセルを取りに立ち上がった。それだけだった。深く聞かない。掘り下げない。受け取るだけ。

 凛はその背中を見ながら、もう一口、トーストをかじった。

 いつも最初に気づくのは、この子だった。

 母が入院していたころも、凛が陸上をやめたときも、受験の前に少し眠れていなかったときも。黙ってノートを持ってきたり、チョコレートを一粒置いていったり、「大丈夫?」じゃなくて「なんか顔おかしい」と言ったり。

 静かに、正確に。

 今日も、そうだった。

「蒼」

 玄関のドアを開けかけた弟を呼んだ。振り返った顔に、「いってらっしゃい」と言った。

 蒼がにっと笑った。「いってきます」

 ドアが閉まった。

 食卓に一人残って、凛はヘアピンを指先でそっと触れた。外れていない。ちゃんと留まっている。

 昨日のことを、整理するように思い返した。奏の声、踊り場の西日、床に落ちたヘアピン、差し出された手。「わからなくていい。今話せてる」。

 完全に、元どおりになったわけじゃない。三年間は消えない。失格のアナウンスも、あの日の奏の顔も、陸上のシューズをバッグに詰めた夜のことも。

 でも何かが、動いた。

 澪の記事が校内新聞に載った日も、そう思った。完全な解決じゃない。坂本はまだいるし、隠された記録はまだ全部は掘り起こせていない。村上朔が失ったものは返ってこない。それでも、何かが動いた。止まっていたものが、少しだけ流れ始めた。

 それで十分だ、とは思わない。

 でも、それが今日の話だ、とは思う。

 凛は万年筆をペンケースから取り出した。父からもらったやつ。インクの残量を確認してから、ノートを開いた。

 今日の自分の変化を、図式化しようとして、やめた。

 代わりに、ただ一行書いた。

『今話せてる。』

 それだけ書いて、ペンキャップをしめた。

 窓の外、五月の朝が明るかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ