第二十四章
五月の夕方は、ひどく静かに長い。
放課後の廊下から生徒の声が引いていくと、校舎の中にはどこか水が引いた後のような空気が残る。水槽の底みたいだ、と凛はいつか思ったことがあった。誰もいなくなってから、ようやくそこにいられる場所。
奏を見つけたのは、図書室の向かい、窓際の踊り場だった。
西日が床に長く伸びて、奏はその端に立っていた。制服のポケットに両手を入れたまま、外を見ているのか、ガラスに映る自分を見ているのか、判然としない視線で。凛の足音に気づいた瞬間、かすかに肩が揺れた。
「……凛」
「奏」
二人とも、それ以上の言葉をすぐには出せなかった。三年分の沈黙というのは、案外質量を持っている。踏み込もうとすると、足裏でその重さが感じられる。
凛はヘアピンに指先を当てた。外しかけて、やめた。
「話せる?」
短く、問う。
奏は少しだけ迷うように視線を床に落とし、それから顔を上げた。「うん」と言った。
二人は並んで窓の前に立った。誰かに聞かれるのを避けるでも、どこかに座るでも、距離を詰めるでもなく、ただ並んで、窓の外の色を変えていく空を見た。
最初に口を開いたのは、奏だった。
「リレーのこと」
「うん」
「あのとき、私は怒ってた」
凛は息を吸った。静かに、ゆっくり。「知ってた」と言った。
「知ってたんだ」
「見てたから。あの日の顔、覚えてる」
奏が少し黙った。窓の外で、鳥の影が横切った。
「怒るのは当然だと思ってた、私は」と凛は続けた。「バトンを落としたのは私で、チームを失格にしたのも私だった。だから、怒ってくれた方がよかった。ちゃんと言ってくれた方が」
「言えなかったよ」奏の声が、少し低くなった。「なんて言えばいいかわからなかった。怒ってたのは本当だけど、凛が泣いてるのも見てたから。……どっちの気持ちも本物で、それが同時にあって、うまく整理できなかった」
凛は黙って聞いた。
「でも」
奏が続けた。
「凛がいなくなったのは、もっと嫌だった」
その言葉が、踊り場の空気の中に落ちた。
凛は一度まばたきをした。耳の先が、じわりと熱くなるのを感じた。「……それは」と言いかけて、少し間を置いた。「確認してなかった」
奏が、はじめて笑った。かすかに、でも確かに。「今してるじゃん」
「……そうだな」
凛は視線を前に戻した。夕空が赤みを帯びていて、その色がガラスに反射して二人の顔を照らしていた。
「陸上やめた後も、同じ中学にいて、同じ高校に来て」と凛は言った。「何度かちゃんと話そうとした。でも奏が目を伏せるから、私も踏み込めなかった」
「目を伏せてたのはわかってた」奏が言った。「どう話せばいいかわからなくて、そうしてた。……最悪だよね」
「最悪ではない」凛はすぐに言った。「私も同じことしてたから」
少しの沈黙。
「また一緒にいれるか、わからないけど」
凛がそう言ったのは、投げ出すためではなかった。正直に言うしかなかったから言った。三年間が三秒で消えるわけじゃない。積み重なったものは積み重なったまま、そこにある。
奏はすぐには答えなかった。踏み場のない積雪を確かめるみたいに、少しだけ考えてから口を開いた。
「わからなくていいよ」
「え」
「今、話せてる」奏は言った。「それだけで、今は十分じゃない?」
凛は答えられなかった。喉の奥に何かがあって、言葉にならなかった。
だから黙って、うなずいた。
その瞬間だった。
凛の左側で、小さな音がした。
床に何かが落ちる、乾いた音。
視線を下に向けると、ヘアピンが西日の中に転がっていた。いつの間にか、外れていたらしかった。
奏が先にしゃがんで、それを拾い上げた。
立ち上がりながら、凛の方に差し出す。ためらいもなく、ごく自然に。
凛は受け取った。
「ありがとう」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
ヘアピンを指先に挟んで、凛はそれをまた左耳の後ろに留めた。いつもの位置。いつもの角度。でも何かが、少しだけ違う気がした。違う、というより、少し軽くなった、のかもしれない。
二人はしばらくそのまま立っていた。話すでもなく、急いで離れるでもなく。夕空の色が赤から橙に変わって、廊下の端に誰かの足音が聞こえてきて、二人はごく自然に、それぞれの方向に歩き始めた。
振り返らなかった。
でも、それでよかった。
翌朝。
食卓に座ると、蒼がちょうど牛乳を飲み終えるところだった。コップをテーブルに置いて、こちらを見た。
蒼は人の顔を見るのが好きな子どもだった。小さいころから、人の表情をじっとみつめて「なんかおかしい」とか「あ、嬉しいんだ」とか言う子どもだった。凛はそれを面倒くさいと思っていたこともあったし、ありがたいと思ったこともあった。
「姉ちゃん」
「なに」
「なんか顔変わった」
凛はトーストにバターを塗る手を止めなかった。「そう?」
「うん」と蒼はあっさり言った。「なんか、前と違う」
前と違う。どう、とは言わない。ただ違う、と言う。
凛はトーストを一口かじった。噛みながら、少し考えた。
どう答えるか、じゃなくて、どう受け取るか、を考えた。
それは変化だった。以前の凛だったら「そんなことない」か「気のせい」と返していた。何かを認めることが怖かったし、変化を指摘されることがくすぐったかった。自分の内側に誰かを入れることを、うまくできなかった。
「……そうかも」
凛は言った。
蒼が少し驚いたように目を丸くした。それからすぐに「ふうん」と言って、ランドセルを取りに立ち上がった。それだけだった。深く聞かない。掘り下げない。受け取るだけ。
凛はその背中を見ながら、もう一口、トーストをかじった。
いつも最初に気づくのは、この子だった。
母が入院していたころも、凛が陸上をやめたときも、受験の前に少し眠れていなかったときも。黙ってノートを持ってきたり、チョコレートを一粒置いていったり、「大丈夫?」じゃなくて「なんか顔おかしい」と言ったり。
静かに、正確に。
今日も、そうだった。
「蒼」
玄関のドアを開けかけた弟を呼んだ。振り返った顔に、「いってらっしゃい」と言った。
蒼がにっと笑った。「いってきます」
ドアが閉まった。
食卓に一人残って、凛はヘアピンを指先でそっと触れた。外れていない。ちゃんと留まっている。
昨日のことを、整理するように思い返した。奏の声、踊り場の西日、床に落ちたヘアピン、差し出された手。「わからなくていい。今話せてる」。
完全に、元どおりになったわけじゃない。三年間は消えない。失格のアナウンスも、あの日の奏の顔も、陸上のシューズをバッグに詰めた夜のことも。
でも何かが、動いた。
澪の記事が校内新聞に載った日も、そう思った。完全な解決じゃない。坂本はまだいるし、隠された記録はまだ全部は掘り起こせていない。村上朔が失ったものは返ってこない。それでも、何かが動いた。止まっていたものが、少しだけ流れ始めた。
それで十分だ、とは思わない。
でも、それが今日の話だ、とは思う。
凛は万年筆をペンケースから取り出した。父からもらったやつ。インクの残量を確認してから、ノートを開いた。
今日の自分の変化を、図式化しようとして、やめた。
代わりに、ただ一行書いた。
『今話せてる。』
それだけ書いて、ペンキャップをしめた。
窓の外、五月の朝が明るかった。




