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記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第四部「定着」

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第二十三章

 校内新聞が配られたのは、木曜日の朝だった。

 ホームルームの前、担任が教室に入ってくるより先に、新聞部の部員たちが各クラスを回って一枚ずつ机の上に置いていった。いつもと変わらない光景のはずだった。B4判の紙を二つ折りにした、なんということのない配布物。一面には春の学校行事の写真、二面には来月の文化祭の案内。そして三面に、十文字澪が書いた記事があった。

 見出しは短かった。

《記録された数字は、誰のものか。》

 最初は静かだった。

 一時間目のあいだ、凛は自分の机の端で数学の教科書を開きながら、ちらちらと周囲を観察していた。ほとんどの生徒はまだ記事を読んでいなかった。二時間目が終わる頃、数人が顔を見合わせていた。昼休みになると、廊下の声の質が変わった。潮が変わるような、低くて広い変化だった。

 記事は事実だけで書かれていた。日時、記録番号、変更の痕跡、証言。固有名詞は最小限に絞られ、断定のできない部分には「とみられる」「確認されていない」という言葉が添えられていた。澪がこだわったのはそこだった。感情で押すのではなく、事実を積み上げて読む者自身に考えさせる。顧問の原田先生がゲラを見たとき、一か所だけ赤を入れて、あとは黙って通した。

 坂本教師は、翌日から姿を見せなかった。

 金曜日の朝、凛は職員室の前を通りかかったとき、坂本の席が空いているのを遠目に確認した。隣の席の教師が何かを探しているようだった。廊下に立ち止まって見ていたのはほんの数秒だったが、それだけで十分だった。凛はヘアピンを外し、また付け直した。

 学校側から原田先生に問い合わせが入ったのは、同じ金曜日の午後だと、後から陽菜に聞いた。教頭が直接来たらしい、と陽菜は言った。でも先生、全然動じてなかったって。なんで知ってるの、と凛は聞いた。陽菜は笑った。なんとなく、と言って笑った。

 記事の内容は事実の記録に徹していた。否定できる部分が、なかった。


 その夜、凛のスマートフォンに通知が来た。

 桐島奏、という名前。三年間ほとんど動かなかったトーク画面に、短いメッセージが入っていた。

『ありがとう。』

 それだけだった。凛はしばらく画面を見つめた。部屋の電気は消えていて、スマートフォンの光だけが顔を照らしていた。外は静かで、雨が降りそうな気圧の重さが窓の向こうにあった。

 凛は万年筆を持っていなかった。ベッドの上で膝を抱えて、ただ親指をホーム画面の上で止めていた。

 何と返せばいいか、考えた。考えながら、自分が何を確認したかったのか、もう一度辿った。成績の改ざん。村上朔という名前。三年前に消えたものの輪郭。そしてあの職員室前の廊下で、目を伏せて立ち去った奏の横顔。

 凛は打った。

 *確認してほしいのは、あなただった。*

 送信してから、少し後悔した。わかりにくすぎる、と思った。でも消せなかった。

 数分後、返信が来た。

 *意味わかんないけど、でもありがとう。*

 凛は小さく息をついた。

 耳の先が熱くなっているのを、自分でわかった。暗い部屋の中で、誰も見ていなかったけれど。

 意味わかんないけど、というその言葉が、なぜかうまく胸に収まった。全部解けたわけじゃない。三年間の重さが消えたわけじゃない。でも奏は返してくれた。そのことだけが、今夜の凛には十分だった。

 万年筆を取り出して、ノートを開いた。何かを書こうとして、書けなくて、ただキャップを付け外しした。最終的に、一行だけ書いた。

『確認できた。』


 翌週の月曜日、陽菜は昼休みに購買に寄っていた帰り道に声をかけられた。

「宮瀬先輩」

 振り返ると、一年生の女の子が二人いた。バレー部のユニフォームを着ていた。陽菜は顔を覚えていなかったが、相手は少し緊張した顔で陽菜を見ていた。

「先輩が関わってたんですか。新聞の記事」

 廊下を人が流れていた。陽菜はパンの袋を持ったまま、その子の目を見た。

「うん」

 二人の後輩が、顔を見合わせた。それから、さっきより少し小さい声で言った。

「すごい」

 陽菜はすぐに笑えなかった。一拍おいて、パンの袋を持ち直した。

「……やりすぎたところもあったけど」

 それは本当のことだった。澪に無断で動きすぎた日のことを、陽菜はまだ覚えていた。凛に叱られたことも。自分が先走って、記録よりも衝動を優先しそうになった夜のことも。すごい、と言われるほどきれいなものじゃなかった、と陽菜は思っていた。

 後輩が言った。

「でも、やったじゃないですか」

 陽菜はその言葉を、もう一度心の中で聞いた。

 やった。やりすぎたかもしれないけど、やった。

 笑えた。今度は、後悔の混じらない笑い方で。

「そうだね」

 そう言って、廊下の窓から光が差し込んでいる方向を見た。五月が終わりに近づいていた。気温が上がって、木の葉の色が濃くなっていた。


 三人が最後に集まったのは、その日の放課後だった。

 澪が新聞部の部室に残った紙の束を整理していて、凛と陽菜がそこに入っていった。特に約束したわけではなかったが、二人ともそこに来た。

 澪は顔を上げて、眼鏡の奥で少し目を細めた。

「読んだ人、増えてる」

「知ってる」と陽菜が言った。「後輩に聞かれた」

「どう答えたの」

「うんって言った」

 澪は紙の角を揃えて、棚に置いた。「凛は」

 凛は部室の窓の縁に寄りかかって、ヘアピンを指の先でいじっていた。

「奏から連絡が来た」

 陽菜がこちらを見た。凛は窓の外を見ていた。

「なんて」

「ありがとう、って」

 しばらく、三人とも黙っていた。部室の外を自転車が通り過ぎる音がした。

 解決ではなかった。記事は出た、波は広がった、坂本の席は空いた。でも村上朔が戻ってくるわけじゃない。改ざんされた記録が全部修正されるとも限らない。学校が公式に認めるまでの道は、まだ遠かった。

 それでも、何かが動いた。

 それは凛にも、陽菜にも、澪にも、たしかにわかっていた。

「次の号、どうするの」と陽菜が澪に聞いた。

 澪は少し考えてから言った。「続きを書く。動きがあれば」

「動くよ」と凛が言った。窓から目を離して、部室の中を見た。「動かなかったら、また確認する」

 陽菜が笑った。澪が小さく頷いた。

 部室の窓から、運動場が見えた。陸上部が走っていた。五月の午後の光の中で、細長い影が地面を流れていた。凛はそれをしばらく見ていた。走っている生徒の顔は遠くて見えなかったが、地面に刻まれた靴底の跡は、確かにそこにあるはずだった。

 記録されたものは、消えない。

 凛はヘアピンを耳に留め直した。今日も、明日も、確認すべきことがある。それが今の自分の仕事だと、思っていた。

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