第二十二章
夜が明ける少し前に書き終えた、と澪は言った。
新聞部の部室は昼でも薄暗いが、五月の午後の光が窓の端から差し込み、机の上に積まれた資料の束をぼんやりと照らしていた。澪がA4の紙を揃えてから凛と陽菜の前に置いたとき、その手が微かに震えているのを凛は見逃さなかった。一晩。それだけの時間で、澪はこれを書いたのだ。
「読んでください」
それだけ言って、澪は少し後ろに退いた。自分の書いたものから距離を取るように。あるいは、二人の反応を正面から受け取る覚悟を整えるように。
凛は一枚目を手に取った。
タイトルは「この学校で起きていること」とあった。
煽情的な言葉は一つもなかった。怒りを煽るような修辞もなく、断罪するような語調もなかった。ただ、起きたことが、起きた順序で、確認された事実だけを積み重ねて書かれていた。成績記録の改ざん。それが行われた期間と規模。被害を受けた生徒たちの状況——名前は伏せられていたが、その一人がこの学校に今もいて、もう一人はもういないことは、読めばわかった。そして学校側が何を知っていたか、何をしなかったか。
静かな文章だった。しかし読み進めるにつれ、凛の中に何かが積み上がっていった。怒りとも悲しみとも言いきれない、もっと根元にある感覚——これは本当のことだ、という確信と、だからこそ許せないという感情が、段落を追うごとに輪郭を持っていった。
凛は二枚目に移ろうとして、一度止まった。
「これ、確認できますか」
澪が顔を上げた。
「成績記録の書き換えが最初に行われた時期、ここでは『三年前』としか書いてないけど、もう少し絞れる? 村上さんが退学したのが十一月で、もし最初の改ざんがそれより前なら、時系列として繋がりがより明確になる」
「……確認します」澪は手元のノートを開いた。「原田先生から聞いた記録だと、最初の異常が確認できるのは三年前の九月です。村上さんの退学届が受理されたのは同じ年の十一月」
「じゃあ順序としては改ざんが先」
「そうなります」
「そこ、書き直せる?」
「書けます」
凛は頷いて、二枚目に視線を戻した。また読む。また止まる。
「ここも確認できますか。坂本先生が関与したとされる記録は『複数の教員が確認した』とありますが、何人ですか。具体的な数字があった方が——」
「凛」
陽菜の声だった。
凛は顔を上げた。陽菜は腕を組んで、呆れたような、しかし笑いをこらえているような顔で凛を見ていた。
「全部読んでから確認する、じゃだめなの?」
「……確かに、そうした方が効率はいい」
「うん。だよね」
陽菜は特に批難するでもなく、ただそれだけ言って澪の方に目をやった。澪が小さく笑っていた。凛は軽く咳払いをしてから残りのページに視線を戻した。
黙って読んだ。三枚目。四枚目。最後のページは短かった。澪の記事は問いかけで終わっていた。断言でも告発でもなく、ただ一つの問い——この学校で起きていたことを、私たちはどう受け取るか。それが最後の一文だった。
凛は万年筆を出してノートの端にいくつかの数字と疑問符を書き留めた。確認すべき細部がいくつかあった。それでも、全体を通して読んで、凛の中で何かが静かに腑に落ちた。
「……確認したいのは三箇所」凛はノートを見ながら言った。「時系列、関与した教員の人数、それから村上さんの退学理由として学校側が公式に使った言葉。この三つが補強されれば、記事としての根拠はほぼ固まると思う」
「書き直します」
「でも」と凛は続けた。言葉を選ぶように少し間を置いてから。「澪さんの文章は、見たものを正確に残している」
部室がすこし静かになった。
澪が瞬きをした。陽菜が凛を見た。凛は自分が何を言ったかに気づいて、やや遅れて、珍しく名前を呼んでいたことに気づいた。これまで凛は澪のことをほぼ苗字か「あなた」で呼んでいた。今日初めて、自然に名前が出た。
三人とも、それに気づいた。しかし誰もそれを口にしなかった。
陽菜がそっと視線を資料の方に向けた。澪は自分の原稿に目を落とした。凛はヘアピンに触れてから、それを外さずに手を膝に戻した。
その沈黙は、責めるものでも照れるものでもなく——何か確かなものが、静かに場所を占めたような、そういう沈黙だった。
「うん」
陽菜が口を開いた。
「これがいい」
断言だった。迷いがなかった。陽菜はもう一度原稿に目をやって、また顔を上げた。
「全部読んだ。理屈とかじゃなくて、これがいい。これを出すべき」
「同じ意見」と凛は言った。「細部の確認が済めば」
「終わったら原田先生に持っていきましょう」と澪が言った。
原田は職員室の端に設けられた小さな打ち合わせスペースで三人と向き合った。新聞部の顧問として、彼女はこの件の全体像を既に把握していた。最終確認を求められた澪の修正原稿を、彼女は一枚ずつ丁寧に読んだ。
誰も喋らなかった。凛は時計を見なかった。陽菜は足を組まずに背筋を伸ばして座っていた。澪はカメラを膝の上に置いて、両手でそれをそっと持っていた。
原田が最後のページを伏せて、三人を見た。
「掲載する」
短い言葉だった。しかし次の言葉が続いた。
「でも掲載したあとのことも、考えておいて」
凛は頷いた。陽菜も頷いた。澪も頷いた。
原田が何を言おうとしているかは、三人ともわかっていた。記事が出れば、何かが動く。何かが動けば、反発がある。完全な解決にはならない。誰かが傷つくかもしれない。すでに傷ついた人たちがいて、その傷がこの記事で癒えるわけでもない。それでも——何かが動く。それが今できることだった。
「わかっています」
答えたのは澪だった。静かで、揺れていない声だった。
原田はもう一度頷いて、原稿を澪に返した。
「校正と最終確認を来週中に。掲載は再来週号で」
部室に戻る廊下を三人で歩いた。
五月の午後は傾きかけていて、廊下の窓から入る光が長い影を床に引いていた。凛は万年筆をポケットの中で確かめた。父親から渡されたその筆記具は、いつの間にか凛の手のひらに馴染んでいた——母が入院していたあの冬から、ずっと。考えをまとめるとき、何かを書き留めるとき、迷ったとき、凛はこれを手に取ってきた。
今日もノートに書いた。確認すべきことを、確かめた事実を、まだ曖昧なものを、全部。そうやって凛は物事と向き合ってきた。
横を歩く陽菜が、廊下の先を見ながら鼻歌の断片のようなものを短く口ずさんだ。その手は軽く振れていた。何かをつかもうとするような、あるいはただ自分のリズムを刻んでいるような、陽菜らしいしぐさだった。
少し後ろを歩く澪は、カメラのストラップを指に巻きながら歩いていた。レンズは前を向いていたが、今は何も撮っていなかった。ただ持っている。それでいいと思っているかのように。
万年筆、シャープペンシル、カメラ。
凛は特にそれを意識したわけではなかったが、気づいたとき、それぞれが自分の形で今日この瞬間に関わっていたことが分かった。書くこと、動くこと、記録すること。どれが欠けても、今日ここには辿り着いていなかった。
「凛」
陽菜が呼んだ。
「ん」
「奏に話した?」
少しの間があった。
「……まだ」
陽菜はそれ以上聞かなかった。凛も何も付け加えなかった。廊下の向こうで部活の生徒たちの声が遠く響いていた。
まだ、だった。
しかし凛は今日、澪の名前を自然に呼んでいた。三年前には当たり前だったはずのことが、今は一つの出来事として凛の中に残っていた。名前を呼ぶこと。それだけのことに、これほど時間がかかった。
奏との間にある三年間の沈黙は、この記事が出たからといって消えるものではなかった。改ざんの被害者が奏であったと知っても、あの夏の午後のリレーのバトンが戻ってくるわけではなかった。あのとき凛が落とし、そのまま走り切れなかったものは、今もどこかに落ちたままだった。
でも。
でも、何かが動く、と原田は言った。
完全ではなく、きれいでもなく、それでも——何かが動く。それが今できることで、凛にはそれをやることができた。
部室の扉が見えてきた。澪が先に歩いて扉を開けた。陽菜が中に入った。凛は最後に、一度だけ廊下の先を振り返った。
奏がいた場所ではなかった。ただの廊下だった。
凛は中に入った。




