第二十一章
画面の中の文字が、動かなかった。
十文字澪は部室の椅子に座ったまま、キーボードの上に置いた両手を、もう三十分近く静止させていた。ディスプレイには書きかけの原稿が開かれている。タイトルだけが打ち込まれていて、その下の空白が、夜の底のようにひろがっていた。
窓の外はもう暗い。校舎の他の教室はとっくに灯りが落ちていて、新聞部の小さな部室だけが、蛍光灯の白い光に満たされていた。廊下を歩く人間はいない。ロッカーの上には使い古された辞書と取材ノートが重なり、壁には過去の紙面が画鋲で留められている。澪が一年生のときから貼り直し続けてきた紙面たちで、端が少し黄ばみかけているものもあった。
書けない。
その言葉が、頭の中で静かに繰り返されていた。書けないというより、書き始める前の場所で、何かがひっかかって動けない、という感覚に近かった。
記録することと、暴くことの境界線は、どこにあるのだろう。
この問いは以前にも澪を止めたことがあった。中学のとき、部活の顧問の不公平な起用について書こうとして、止まった。書けばその教師の評判が傷つく。書かなければ後輩たちが同じ目に遭い続ける。あのときは結局、書かなかった。今でも正しかったのかどうかわからない。
今回はもっと重い。
画面に映る自分の顔が、かすかに反射して見えた。澪は目を逸らして、原稿のファイルを閉じた。閉じてから、また開いた。タイトルだけが残った画面を、ただ見ていた。
廊下から、かすかな足音がした。
澪は顔を上げた。こんな時間に部室に来る人間はいない。顧問もとっくに帰宅している。不思議に思って振り返ると、部室の小さな横窓に、人の顔があった。
宮瀬陽菜だった。
焦げ茶色のショートボブと、こちらを覗き込む濃茶色の瞳。窓越しに目が合った。陽菜は軽く手を挙げて、部室の扉の方へと視線を動かした。澪は立ち上がり、鍵を開けた。
「何してんの、こんな時間に」
陽菜が室内に入りながら言った。咎めているわけではなく、事実を確認しているような声音だった。外を歩いてきたのか、少し風の匂いがした。
「帰り道に灯りが見えて。部室、まだ澪がいるんだって」
「用事があったの?」
「いや、別に。ただ、なんか」
陽菜は言葉を探すような間を作ってから、澪の背後のディスプレイに視線を向けた。開かれたままのファイル。タイトルだけが打たれた、白い余白。
「書けない?」
短く、的確な問いだった。澪は少し迷って、それから素直に答えた。
「……書くのが怖い」
陽菜の表情が、わずかに動いた。怒りでも驚きでもなく、何かを確かめるような、静かな顔だった。
「なんで」
「誰かを傷つけるかもしれない」
「坂本先生を?」
「坂本先生も」
澪はそこで一度止まった。画面の白い余白を見ながら、続けた。
「奏さんも。もしかしたら、もっと大きい人を」
もっと大きい人、という言葉が部室の空気の中に落ちた。陽菜はすぐには返さなかった。澪もそれ以上、うまく言えなかった。
書けば、坂本哲也は傷つく。傷つけられるべき人間だとしても、傷つくという事実は消えない。書けば、桐島奏の名前が、被害者として記録に残る。奏がそれを望んでいるかどうか、澪にはまだ確信がない。書けば、学校側が動く。どう動くか、誰が矢面に立たされるか、わからない。記事が火になったとき、炎がどこに飛ぶかを、澪は制御できない。
記録は残る。残ることが記録の本質だ。だからこそ、残した後のことを、澪は考えずにいられない。
「それはわかってる」
陽菜が低い声で言った。澪が顔を上げると、陽菜はまっすぐにこちらを見ていた。
「でも書かなかったら、また誰かが同じ目に遭う」
澪はその言葉の重さを、胸の中でゆっくりと受け取った。
「それはわかってる」
「じゃあなんで止まってるの」
陽菜の声に、責めるような色はなかった。本当に、わからないのだと思って聞いている声だった。
「わかってるのと、書けるのは、違うから」
言葉にした瞬間、それが澪にとって、ずっと言語化できずにいた核心だとわかった。わかっている。書くべきだとわかっている。書かなければ何も変わらないとわかっている。でも、わかることと、手を動かして文字を打ち込むことの間には、ひとつの崖があった。崖の深さは、理屈では測れない。
陽菜は、一瞬だけ目を伏せた。
「……そっか」
それだけ言って、陽菜は部室の中をぐるりと見回した。それから何も言わずに、澪の隣の椅子を引いて、座った。
澪はそれを横目で見ていた。陽菜が何かを言おうとしているのだろうと思った。励ましか、あるいは論理的な説得か。陽菜はそういうことを、衝動のままに言ってしまう人間だ。澪はそれを知っている。
でも、陽菜は何も言わなかった。
沈黙が続いた。蛍光灯が微かに鳴っていた。澪のディスプレイのファンが低く回っていた。廊下は静かで、校舎の外でたまに風が木の枝を揺らす音がした。
陽菜が黙っている。
澪はそのことに気がついて、少し驚いた。宮瀬陽菜という人間は、沈黙をあまり得意としない。場が止まればすぐに何かを喋り出す。空白を埋めようとする。それは陽菜の悪癖ではなく、陽菜がそういう人間だというだけのことで、澪はそれを知っていた。
なのに、陽菜は黙っていた。
隣に座って、少し前方のロッカーあたりを見ながら、ただそこにいた。
その「ただそこにいる」という重さが、澪には不思議と温かく感じられた。何も言わなくていい。何かを解決しなくていい。答えを出さなくていい。ただここにいてくれる誰かが隣にいるというだけで、部室の空気が少しだけ違う色になった気がした。
どれくらいの時間が過ぎたか、澪にはわからなかった。
「ありがとう」
気がつくと、言葉が出ていた。余分なものが何もついていない、短い言葉だった。
陽菜は「うん」とだけ言った。視線をこちらに向けずに、ただ「うん」と言って、また前を向いた。
澪はキーボードを見た。タイトルだけが打たれた画面が、まだそこにあった。何も変わっていない。書けるようになったわけではない。怖さも、問いも、消えてはいない。崖は崖のままそこにある。
でも、崖の縁に立っているのが、一人ではなくなった。
その違いは、たぶん小さい。たぶん小さいけれど、澪にはそれが確かに感じられた。
やがて陽菜が小さく欠伸をして、「帰らないとな」と呟いた。立ち上がりながら、ちらりと澪の画面を見た。
「今日じゃなくていい」
陽菜は澪の顔を見ずに言った。振り返りながら、でも目線はどこか別の場所に向けたまま。
「今日じゃなくていいけど、お前が書く必要はある。凛もそう思ってる。私もそう思ってる」
「……うん」
「鍵、ちゃんとかけて帰れよ」
それだけ言って、陽菜は部室を出た。廊下に出た足音が、遠ざかっていった。
澪はひとりになった部室で、しばらくそのままでいた。
ディスプレイの前に向き直る。タイトルだけの画面。白い余白。
澪は万年筆ではなく、取材ノートを手に取った。まず書くべきことを、手書きで整理するのが澪の習慣だった。ノートを開いて、ペンを走らせ始める。事実を書く。確認した事実だけを書く。記録することと、暴くことの境界線について、まだ答えは出ない。でも、その問いを抱えたまま書くことは、たぶん澪にしかできないことだ。
暴くために書くのではない。残すために書く。起きたことが起きたと、誰かに読まれる言葉として残るために書く。それが澪の側にある、この仕事の意味だと思っていた。
だとしたら、書かないことは、起きたことを消すことになる。
澪は、ペンを止めなかった。
翌朝、部室の机には、びっしりと書き込まれたノートが一冊と、新しく開かれた原稿のファイルが残っていた。ファイルの中には、タイトルの下に、最初の一行が打ち込まれていた。
窓から朝の光が差し込んで、その文字を静かに照らしていた。




