表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第三部「現像」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/26

第二十一章

 画面の中の文字が、動かなかった。

 十文字澪は部室の椅子に座ったまま、キーボードの上に置いた両手を、もう三十分近く静止させていた。ディスプレイには書きかけの原稿が開かれている。タイトルだけが打ち込まれていて、その下の空白が、夜の底のようにひろがっていた。

 窓の外はもう暗い。校舎の他の教室はとっくに灯りが落ちていて、新聞部の小さな部室だけが、蛍光灯の白い光に満たされていた。廊下を歩く人間はいない。ロッカーの上には使い古された辞書と取材ノートが重なり、壁には過去の紙面が画鋲で留められている。澪が一年生のときから貼り直し続けてきた紙面たちで、端が少し黄ばみかけているものもあった。


 書けない。


 その言葉が、頭の中で静かに繰り返されていた。書けないというより、書き始める前の場所で、何かがひっかかって動けない、という感覚に近かった。

 記録することと、暴くことの境界線は、どこにあるのだろう。

 この問いは以前にも澪を止めたことがあった。中学のとき、部活の顧問の不公平な起用について書こうとして、止まった。書けばその教師の評判が傷つく。書かなければ後輩たちが同じ目に遭い続ける。あのときは結局、書かなかった。今でも正しかったのかどうかわからない。

 今回はもっと重い。

 画面に映る自分の顔が、かすかに反射して見えた。澪は目を逸らして、原稿のファイルを閉じた。閉じてから、また開いた。タイトルだけが残った画面を、ただ見ていた。

 廊下から、かすかな足音がした。

 澪は顔を上げた。こんな時間に部室に来る人間はいない。顧問もとっくに帰宅している。不思議に思って振り返ると、部室の小さな横窓に、人の顔があった。

 宮瀬陽菜だった。

 焦げ茶色のショートボブと、こちらを覗き込む濃茶色の瞳。窓越しに目が合った。陽菜は軽く手を挙げて、部室の扉の方へと視線を動かした。澪は立ち上がり、鍵を開けた。

「何してんの、こんな時間に」

 陽菜が室内に入りながら言った。咎めているわけではなく、事実を確認しているような声音だった。外を歩いてきたのか、少し風の匂いがした。

「帰り道に灯りが見えて。部室、まだ澪がいるんだって」

「用事があったの?」

「いや、別に。ただ、なんか」

 陽菜は言葉を探すような間を作ってから、澪の背後のディスプレイに視線を向けた。開かれたままのファイル。タイトルだけが打たれた、白い余白。

「書けない?」

 短く、的確な問いだった。澪は少し迷って、それから素直に答えた。

「……書くのが怖い」

 陽菜の表情が、わずかに動いた。怒りでも驚きでもなく、何かを確かめるような、静かな顔だった。

「なんで」

「誰かを傷つけるかもしれない」

「坂本先生を?」

「坂本先生も」

 澪はそこで一度止まった。画面の白い余白を見ながら、続けた。

「奏さんも。もしかしたら、もっと大きい人を」

 もっと大きい人、という言葉が部室の空気の中に落ちた。陽菜はすぐには返さなかった。澪もそれ以上、うまく言えなかった。

 書けば、坂本哲也は傷つく。傷つけられるべき人間だとしても、傷つくという事実は消えない。書けば、桐島奏の名前が、被害者として記録に残る。奏がそれを望んでいるかどうか、澪にはまだ確信がない。書けば、学校側が動く。どう動くか、誰が矢面に立たされるか、わからない。記事が火になったとき、炎がどこに飛ぶかを、澪は制御できない。

 記録は残る。残ることが記録の本質だ。だからこそ、残した後のことを、澪は考えずにいられない。

「それはわかってる」

 陽菜が低い声で言った。澪が顔を上げると、陽菜はまっすぐにこちらを見ていた。

「でも書かなかったら、また誰かが同じ目に遭う」

 澪はその言葉の重さを、胸の中でゆっくりと受け取った。

「それはわかってる」

「じゃあなんで止まってるの」

 陽菜の声に、責めるような色はなかった。本当に、わからないのだと思って聞いている声だった。

「わかってるのと、書けるのは、違うから」

 言葉にした瞬間、それが澪にとって、ずっと言語化できずにいた核心だとわかった。わかっている。書くべきだとわかっている。書かなければ何も変わらないとわかっている。でも、わかることと、手を動かして文字を打ち込むことの間には、ひとつの崖があった。崖の深さは、理屈では測れない。

 陽菜は、一瞬だけ目を伏せた。

「……そっか」

 それだけ言って、陽菜は部室の中をぐるりと見回した。それから何も言わずに、澪の隣の椅子を引いて、座った。

 澪はそれを横目で見ていた。陽菜が何かを言おうとしているのだろうと思った。励ましか、あるいは論理的な説得か。陽菜はそういうことを、衝動のままに言ってしまう人間だ。澪はそれを知っている。

 でも、陽菜は何も言わなかった。

 沈黙が続いた。蛍光灯が微かに鳴っていた。澪のディスプレイのファンが低く回っていた。廊下は静かで、校舎の外でたまに風が木の枝を揺らす音がした。

 陽菜が黙っている。

 澪はそのことに気がついて、少し驚いた。宮瀬陽菜という人間は、沈黙をあまり得意としない。場が止まればすぐに何かを喋り出す。空白を埋めようとする。それは陽菜の悪癖ではなく、陽菜がそういう人間だというだけのことで、澪はそれを知っていた。

 なのに、陽菜は黙っていた。

 隣に座って、少し前方のロッカーあたりを見ながら、ただそこにいた。

 その「ただそこにいる」という重さが、澪には不思議と温かく感じられた。何も言わなくていい。何かを解決しなくていい。答えを出さなくていい。ただここにいてくれる誰かが隣にいるというだけで、部室の空気が少しだけ違う色になった気がした。

 どれくらいの時間が過ぎたか、澪にはわからなかった。

「ありがとう」

 気がつくと、言葉が出ていた。余分なものが何もついていない、短い言葉だった。

 陽菜は「うん」とだけ言った。視線をこちらに向けずに、ただ「うん」と言って、また前を向いた。

 澪はキーボードを見た。タイトルだけが打たれた画面が、まだそこにあった。何も変わっていない。書けるようになったわけではない。怖さも、問いも、消えてはいない。崖は崖のままそこにある。

 でも、崖の縁に立っているのが、一人ではなくなった。

 その違いは、たぶん小さい。たぶん小さいけれど、澪にはそれが確かに感じられた。

 やがて陽菜が小さく欠伸をして、「帰らないとな」と呟いた。立ち上がりながら、ちらりと澪の画面を見た。

「今日じゃなくていい」

 陽菜は澪の顔を見ずに言った。振り返りながら、でも目線はどこか別の場所に向けたまま。

「今日じゃなくていいけど、お前が書く必要はある。凛もそう思ってる。私もそう思ってる」

「……うん」

「鍵、ちゃんとかけて帰れよ」

 それだけ言って、陽菜は部室を出た。廊下に出た足音が、遠ざかっていった。

 澪はひとりになった部室で、しばらくそのままでいた。

 ディスプレイの前に向き直る。タイトルだけの画面。白い余白。

 澪は万年筆ではなく、取材ノートを手に取った。まず書くべきことを、手書きで整理するのが澪の習慣だった。ノートを開いて、ペンを走らせ始める。事実を書く。確認した事実だけを書く。記録することと、暴くことの境界線について、まだ答えは出ない。でも、その問いを抱えたまま書くことは、たぶん澪にしかできないことだ。

 暴くために書くのではない。残すために書く。起きたことが起きたと、誰かに読まれる言葉として残るために書く。それが澪の側にある、この仕事の意味だと思っていた。

 だとしたら、書かないことは、起きたことを消すことになる。

 澪は、ペンを止めなかった。


 翌朝、部室の机には、びっしりと書き込まれたノートが一冊と、新しく開かれた原稿のファイルが残っていた。ファイルの中には、タイトルの下に、最初の一行が打ち込まれていた。

 窓から朝の光が差し込んで、その文字を静かに照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ