第二十章
職員室の前には、五月の光が窓枠の形のまま廊下の床に落ちていた。
凛はその四角い光の端に立ち、隣の澪を一度だけ見た。澪はすでに取材ノートを胸に抱いていた。薄い表紙に細かな文字がびっしりと書き込まれたそのノートは、この数週間で澪が拾い集めてきた言葉と事実の堆積だった。
「行きます」
どちらが言ったわけでもなく、二人は同時に扉の前へ進んだ。
職員室のガラス扉を引くと、昼休みの静けさが漂う室内に、いくつかの視線が向いた。奥の席で書類を確認していた坂本哲也が顔を上げる。学年主任としての落ち着いた重心は、凛が最初に廊下ですれ違ったときから変わらない。
「朝日と、十文字です」
凛が名乗ると、坂本は穏やかに「ああ」と答えながら、手元の書類をひとまとめにして脇に置いた。それだけで、それは丁寧な仕草だった。
「何について?」
声の温度は平坦で、しかし耳に引っかかる何かがあった。取材を申し込んだのはすでに昨日のことで、坂本はそれを承諾している。それでも今、もう一度「何について」と聞く。確認ではない。見定めている。
凛は一呼吸置いた。
「推薦書類の修正について、確認したいことがあります」
坂本の目が、細くなった。
それは怒りでも驚きでもなかった。陽菜が坂本に話しかけたあの日、廊下の角でその表情を凛は遠目に観察していた。あのときと同じだった。感情を表に出さず、内側の何かを素早く整理しているときの目だ、と凛は思った。
「……そうか」
坂本はそれだけ言って、隣の応接スペースを手で示した。パーティションで区切られた小さなソファ席。面談や保護者対応に使われる場所だ。二人が腰を下ろすと、坂本は向かいに座り、姿勢を正した。
澪がノートを膝に開く。ペンの先が紙に触れる音がした。
「お時間をいただきありがとうございます」と澪が静かに言った。「新聞部として、今学期の推薦入試に関わる書類の手続きについて取材しています。坂本先生が学年主任として関わられた案件について、事実確認をさせてください」
坂本は頷いた。「わかった」
その言葉の輪郭は柔らかかった。拒絶でも歓迎でもなく、ただ、そこにある、という重さだった。
凛は準備してきた問いを、順番通りに出した。
推薦基準に照らし合わせた場合の成績ラインのこと。修正の記録が複数学年にわたって確認されていること。担任を経由しない形で書類が差し替えられたケースがあること。
坂本は、一つひとつの問いに対して、否定しなかった。しかし認めもしなかった。
「誤解があるのかもしれない」
最初にそう言ったとき、凛の左手の指先が冷えた。
「誤解、というのは?」と澪が間を置かずに聞いた。
「手続き上の修正は、どんな書類にも起こりうる。それが何を意味するかは、前後の文脈を見ないと判断できない」
「前後の文脈というのは、どのような?」
「記録として残ったものは、確認させてほしい」
坂本はそう言い、少しだけ目を伏せた。
その言葉の回り方を、凛は頭の中でゆっくりと解体した。認めていない。しかし、記録が存在することは否定していない。確認させてほしい、という言葉は、これから調べるという意味にも、すでに知っているという意味にも取れた。
澪のペンが止まらなかった。
坂本の言葉を、一語一語、手書きで拾っていた。「誤解があるのかもしれない」。「記録として残ったものは確認させてほしい」。その言葉の選び方までを、澪は正確に写し取っていた。
取材はそれほど長くはなかった。坂本は途中から、答える内容をさらに慎重に絞り始めた。凛がある名前に触れかけたとき、坂本は初めて手のひらを小さく上げた。
「それ以上は、今日の範囲ではないと思う」
その制止は静かで、怒鳴るでも脅すでもなかった。ただ、そこに一本の線を引いた。凛は澪を見た。澪は凛を見た。二人は同時に頷いた。
「ありがとうございました」
澪がノートを閉じると、坂本は「うん」とだけ言い、立ち上がった。書類の山に戻るその背中は、ただの教師の背中だった。
廊下に出ると、午後の授業開始まであと十分ほどだった。
窓の外では、体育の授業を終えた生徒たちが校舎へ向かって歩いている。その賑やかさが、ガラス越しに届いた。
凛は壁に背を預け、頭の中を整理した。澪はノートを開いたまま、さっきの言葉をもう一度なぞっているらしかった。
「これで十分ですか」
凛が聞くと、澪は少しだけ考えた。その間は短くなかった。
「記録としては」
澪は顔を上げた。
「記録としては、十分だと思う。何を言って、何を言わなかったか。それは全部書き取った」
「では、あと一つ、というのは」
「記事にするには、あと一つ足りない」
澪の声は静かで、しかし揺れていなかった。
「なんですか」
「坂本先生自身が、自分のしたことの重さに気づいているかどうか。それを文章に書けるかどうか」
凛は澪を見た。
「……難しいですね」
「難しい」と澪はすぐに答えた。「でもそれが記事だと思ってる」
廊下の向こうから足音が近づいて、また遠ざかっていった。
凛はヘアピンに触れた。左耳の後ろ、いつも通りの場所にそれはある。外さずに、ただ指の腹で輪郭を確かめた。
坂本は、悪いことを悪いと知らなかったわけではないだろう。知っていた。そして、それを長い時間の中でどこかに置いてきた。不正を働く意志があったのかどうか、凛にはわからなかった。おそらく最初は、小さな融通のつもりだったかもしれない。それが積み重なり、構造になり、今日の坂本の「誤解があるのかもしれない」という言葉の回し方になった。
断罪するための怒りを、凛は取材の間じゅう感じていなかった。それが自分でも意外だった。
怒り、ではなく。
冷えた手のひらで、ガラスの向こうを覗いているような感覚があった。
「澪さんは」と凛は言った。「坂本先生のことを、どう書くつもりですか」
澪はしばらく黙った。
「悪役としては書かない」
答えは短く、しかし確かな重さを持っていた。
「そういう書き方をしたら、構造のことが見えなくなる。坂本先生一人を悪く書けば、それで終わったことになってしまう。そうじゃない。先生は、長い時間をかけて、その構造に慣れた人間だと思う。それを書きたい」
凛は何も言わなかった。
代わりに、窓の外を見た。
グラウンドでは、体育座りで次の指示を待っている生徒たちの列がある。それぞれの頭の形と、制服の肩の角度が、午後の光の中でそれぞれに違った。
構造に慣れた人間。
その言葉は、静かに凛の中で反響した。
慣れていくことの怖さを、凛は知っていた。見えているのに見なくなること。最初は小さな違和感として存在したものが、やがて当たり前の空気になること。三年前のリレーの後、凛は陸上を辞め、チームで動くことを手放した。それは自分を守るための判断だったと思っていた。しかし本当は、失敗という出来事に「慣れる」ことを、自分自身に禁じたかったのかもしれない。
慣れたくなかったから、遠ざかった。
坂本は逆に、慣れ続けることで、その場所に留まったのだろうか。
「授業、始まりますね」
澪がノートを鞄に入れながら言った。
「はい」
凛は壁から背を離し、踵を返した。
廊下を歩きながら、澪の横顔を横目に見る。澪はまっすぐ前を向いていた。記録し続ける人間の目は、見ているものの形をそのまま受け取ろうとする目だ、と凛は思った。
記事はまだ書かれていない。しかし、書かれるだろうという確信が、凛の中にはあった。
澪の文章が、どんな形になるのか。
凛には想像がつかなかった。それが少しだけ、楽しみだった。




