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記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第一部「静止画」

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第二章

 翌週の月曜日、ホームルームが始まる前に担任の永瀬が教壇の前に立ち、「今日から席替えをします」と言った。

 くじを引く形式だった。凛は自分の番号が書かれた小さな紙を受け取り、広げて確認した。窓際から三列目、前から四番目。教室のほぼ中央に近い位置だった。悪くない、と凛は思った。あまり端すぎると黒板が見づらくなることがある。

 荷物をまとめて移動しながら、周囲の席が誰になるのかを確認する。前は坂井という男子で、後ろは空席のままだった。そして右隣。

「あ、隣になった。よろしくね」

 声が先に来た。振り向くと、長い足を器用に机の下に折り込みながら椅子に座ろうとしている女子がいた。焦げ茶色のショートボブ、毛先がわずかに外にはねている。宮瀬陽菜——凛は名前と顔を一致させた。同じクラスになってからひと月が経つが、これまで直接話したことはなかった。クラスの中では賑やかな側の人間で、昼休みになると友人たちに囲まれている姿をよく見かけていた。

「よろしくおねがいします」と凛は一拍遅れて返した。

 ホームルームが終わり、一時限目が始まるまでの短い時間、凛はいつものように昨日の復習事項を万年筆でノートに書き込んでいた。教科ごとに色を変えたインクで、本文と補足を区別して書き、余白に自分なりの図を描き足す。母親の入院中に癖になった書き方で、情報を図式化することで頭の中が整理されるのだ、と凛は思っている。

「ちょっと待って、それ何?」

 隣から声がした。気づけば陽菜が身体ごとこちらに傾いて、凛のノートを覗き込んでいた。顔と顔の距離が、思っていたより近かった。

「朝日さんって、いつもそのノートどうやって書いてるの? 色分けしてるし、この図って自分で描いてるの?」

 問いが矢継ぎ早に来た。凛は万年筆を持つ手を止め、一度陽菜の顔を正面から見た。隠し事のない目、という印象だった。好奇心がそのまま表情に滲み出ている。悪意はない。ないが。

「それ、本当に確認した?」

 凛は言った。

「え?」

「見ていいって、私が言いましたか」

 陽菜が数秒、固まった。怒るのかと凛は思った。指摘が少し刺さりすぎたかもしれないとも思った。しかし陽菜がしたのは、笑うことだった。声を上げて、というより呼気だけで漏れるような笑い方で、右の口角がわずかに上がった。

「そうだ、そうだよね。ごめんなさい、覗いた」

 謝られてしまうと、凛の方が少し拍子抜けする。

「……見てもいいです。別に隠してるものじゃないので」

「え、でも怒ってたじゃん」

「怒ってません。確認しただけです」

「それってほぼ怒ってるのと同じじゃない?」陽菜はまた笑った。「朝日さんって、なんか面白いね」

 面白い、という評価を凛は少し考えた。褒められているのか、からかわれているのか。どちらでもあるような気がして、どちらとも取らずに「そうですか」とだけ返した。

 一時限目の予鈴が鳴った。

 それから授業が始まり、凛は陽菜のことを特に意識せずに一日を過ごした。隣の席になったからといって、急に親しくなる必要はない。お互いの領分を適切に保てるなら、それで十分だと凛は思っていた。

 放課後、凛は図書室で資料を一冊確認してから帰ろうと思っていた。廊下を歩きながら、頭の中では今日習った現代文の単元を整理していた。

 昇降口の手前、廊下の端に自動販売機がある。凛はそこで少し立ち止まった。今日は水筒が空になっていた。財布を鞄から取り出し、小銭を確認しながら液晶パネルを見ていると、

「あ、また会った」

 振り返らなくても声でわかった。宮瀬陽菜だった。ショルダーバッグを片方の肩に引っかけ、ラフな姿勢で立っている。部活には入っていないのかもしれない、と凛は思った。

「偶然ですね」

「ね。朝日さん、何飲むの?」

「水」

「真面目だ」と陽菜は言い、ちょっと横に寄ってと手で示してから、自分もコインを投入し始めた。凛はペットボトルのミネラルウォーターを受け取り、キャップを少し緩めた。

 隣に陽菜が並んで、缶のコーヒー飲料を取り出した。飲みながら、ふと思い出したように口を開く。

「そういえばさ、」

 何気ない調子だった。次の話題に移るような、軽さ。

「あの、新聞部の十文字さんって知ってる?」

 凛はペットボトルを口に運ぼうとしていた手を、ほんの少し止めた。止めた、というより止まった、という感触だった。

「十文字。新聞部の」

「そう。一個下の後輩から聞いたんだけど、」陽菜はコーヒー飲料を一口飲んだ。「なんか校内で変な写真撮ってたって。どんな写真か知らないけど、その子が廊下で見かけたって言ってて。気になって」

「変な写真、というのは」

「だからそれが詳しくわかんないんだよね。後輩の説明がふわっとしてて。でも、なんかそのままスルーするには引っかかる感じがして、つい」

 陽菜はそう言って、少し肩をすくめた。引っかかる感じ。凛はその表現を、頭の中でひとまず保留した。

 十文字澪。名前は知っていた。新聞部に所属している下の学年の生徒で、校内の掲示板に貼り出される新聞を作っている部員の一人だ。凛がその名前を意識したのは、ほんの数日前のことだった。連休が明けて最初の週、なんとなく目にした廊下の掲示板で、新聞の一面が差し替えられていることに気づいた。以前あった特集記事の代わりに、行事予定の告知が貼られていた。差し替えそのものは珍しいことではないかもしれない。しかし凛には、以前の記事の内容がうっすら記憶に残っていた。成績にかかわる何かだったような気がした。確認はしていない。ただ、ほんのわずかな引っかかりとして残っていた。

 そしてその朝の、桐島奏。職員室前の廊下ですれ違い、目を伏せて立ち去った旧友の顔。あれは何だったのか。

 変な写真。十文字澪。

 凛は何も言わず、ペットボトルを一口飲んだ。

「知らないです、その話」と凛は言った。「新聞部の部員の行動なら、部室に行けば何かわかるんじゃないですか」

「そっか。まあ、ただの噂かもしれないし」

 陽菜は軽く言って、飲みかけの缶を揺らした。それ以上追う様子はなかった。凛も特に話を続けなかった。

 しばらく二人並んで自動販売機の前に立っていたが、やがて陽菜が「じゃあ帰ろ。またね、朝日さん」と言った。凛も「おつかれさまでした」と返して、それぞれ別の方向に歩き出した。

 図書室への廊下を歩きながら、凛は左耳のヘアピンに触れた。外して、また差し込む。その動作を二度繰り返した。

 十文字澪、という名前が、頭の中の静かな場所に刻まれていくような感覚があった。噂としては薄い。確認できていない情報だ。でも。

 凛はヘアピンの先端を指で押さえた。

 掲示板の差し替え。奏の様子。そして今日、偶然に落ちてきた名前。三つの点が、まだ線にはなっていない。でも、点が存在することは確かだった。

 それ、本当に確認した?

 自分自身に問いかけて、凛は図書室の扉を引いた。

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