第十九章
新聞部の部室は、放課後の静けさの中でいつもより狭く感じられた。
窓から差し込む五月の夕日が、机の上に積まれた資料をオレンジ色に染めている。澪は両手を膝の上で重ね、机の向かい側に座る原田の表情を、まっすぐに見ていた。
原田靖子は、新聞部の顧問を六年間務めている国語教師だった。四十代の半ばで、いつも少し疲れたような目をしているが、話を聞くときだけは違う顔になる。今もそうだった。澪が差し出したファイルを、ゆっくりと、丁寧に、一枚一枚めくっている。
ファイルの中には、これまで三人が集めてきたすべてが詰まっていた。
成績記録の変遷を示すスクリーンショット。掲示板の差し替えを記録した写真。坂本哲也の行動パターンをまとめた凛の分析メモ。そして——最後のページに挟まれた、一冊の薄いノート。
奏の証言ノートだった。
桐島奏が自分の言葉で書いた、三年間の記録。走り書きのような文字で、日付と、出来事と、そのとき感じたことが、淡々と並んでいた。感情的な表現は少なかった。だからこそ、読む者の胸に重く沈んでくる類の文章だった。
原田は最後のページを閉じた。
部室に、長い沈黙が降りた。
校舎のどこか遠くで、部活動の掛け声が聞こえた。グラウンドだろう。風に乗って、断片的に届いてくる。
原田は、ノートを机の上に置いた。両手をその上に重ねたまま、しばらく天井を見ていた。それから澪に視線を戻して、静かに口を開いた。
「これを、記事にするつもり?」
「はい」
澪の返答に、迷いはなかった。
原田はまた黙った。今度は短い沈黙だった。何かを確かめるように、もう一度ファイルの表紙に目を落として、それから言った。
「学校は止めようとする」
「わかってます」
「私はあなたたちを守れないかもしれない」
澪の肩が、わずかに動いた。けれど顔は上げたままだった。ファイルの上に置かれた原田の手を見ながら、少しの間、息を整えるように間を置いて——それから言った。
「……でも止めますか?」
原田は、答えるまでに時間をかけなかった。
「止めない」
二つの言葉が、部室の空気の中にはっきりと刻まれた。
澪は小さく息を吐いた。堪えていたものが、少し緩んだような息だった。
原田は続けた。
「でも一つだけ。坂本先生に、最初に確認を取って」
「確認、ですか」
「取材として、公式に。こちらが証拠を持っていること、記事にする意思があること、それを先方に知らせた上で、返答の機会を与える。逃げ道のない形で、正面から」
澪は少し考えた。
「それは——坂本先生に、察知させることにはなりませんか。証拠を隠滅される可能性が」
「あるかもしれない」原田は静かに言った。「でも、それをせずに記事を出すことと、それをした上で記事を出すことは、まったく意味が違う。どんな相手であっても、取材対象には答える機会を与える。それが報道の作法というものだから」
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
澪はノートに目を落として、また顔を上げた。
「わかりました」
その話を聞いたのは、翌日の昼休みだった。
凛と陽菜は、三階の渡り廊下の端に並んで立っていた。澪が原田との会話を、一言ずつ確かめるように再現するのを、二人は黙って聞いた。
話し終えた澪の表情は、少し違って見えた。何かが決まった人間の顔、と凛は思った。迷いが消えたというより、迷いを抱えたままで進む覚悟が定まった、そういう顔だった。
「正しいと思う」
凛が言った。
「それは」と澪が聞く前に、陽菜が横から口を挟んだ。
「え、わかるの、そういう判断?」
陽菜の声は、責めているわけではなかった。純粋に驚いているような、あるいは確認しているような、そういうトーンだった。
凛は少し間を置いた。
渡り廊下の手すりに、午後の光が当たっていた。遠くに、校庭の銀杏の若葉が見えた。五月の緑は、まだ少し青すぎる。
「わかる気がしてきた」
凛は言った。
陽菜が「ふうん」と言って、手すりにもたれた。
「なんか、凛がそういうこと言うの、珍しいな」
「珍しいかな」
「珍しい。いつもは『確認した?』って聞く側なのに、今日は自分から答えてる」
凛は何も言わなかった。否定する気にはなれなかったから。
澪が、ファイルを胸に抱えたまま、二人を見ていた。
「原田先生が、止めないと言ってくれた」澪は静かに繰り返した。「それが、私には——少し意外でした」
「意外だった?」凛が聞いた。
「はい。大人の人が、こういうとき、どっちに立つのか、わからなくて」
凛は、その言葉をゆっくり受け取った。
わからなくて。その一言の重さを、凛はこの数週間でようやく理解し始めていた。大人が制度の側に立つのか、それとも——という問いは、子どもの無力感から来るのではない。これまでに何度か、制度の側に立つ大人を実際に見てきたから生まれる問いだ。
原田は、止めないと言った。
守れないかもしれない、とも言った。その両方を、言った。
凛はそこに、何か真摯なものを感じた。守れると嘘をつかずに、それでも止めないと言うこと。都合のいい言葉で包まずに、正直なまま、一緒に立つと言うこと。
「この話は」と凛は言った。「最初から、大人と私たちが戦ってるわけじゃなかった」
陽菜が「うん?」と首を傾けた。
「坂本先生がいて、それを黙認してきた構造があって、奏もさくらも——村上くんも、その中に飲み込まれた。でも原田先生は、止めないと言った。それって、大人対私たちじゃない」
「構造に抗う人間の話、か」澪が静かに言った。
凛は澪を見た。澪は少し驚いたような顔をしてから、小さく頷いた。
「そう書こうと思ってたんです、記事に」
「それで合ってると思う」
陽菜が腕を組んで、遠くの銀杏を眺めた。
「つまり、原田先生も私たちと同じ側にいる、ってこと?」
「同じ側というより」と凛は少し考えて言った。「おなじ問いを抱えてる人間、かな」
陽菜はしばらく黙って、それから「むずかしいこと言うな」と笑った。笑い方は軽かったが、目は笑っていなかった。ちゃんと聞いている目だった。
昼休みが終わるチャイムが、遠くから鳴り始めた。
三人は、それぞれ教室に戻るために歩き出した。渡り廊下の向こう側で、澪が立ち止まって振り返った。
「坂本先生への取材申し入れ、明後日にしようと思います」
「一人で行くの?」と陽菜が聞いた。
「行けますよ」
「行けるのと、一人で行かなきゃいけないのは違う」
澪は少し黙った。
「……一緒に来てもらえますか」
「当たり前でしょ」陽菜は即答した。歩きながら、軽く手を上げた。
凛も澪に向かって小さく頷いた。澪は今度こそ、少しだけ頬の力を抜いた。笑顔、というほどではないが、それに近い何かだった。
廊下を歩きながら、凛は自分の胸の中にあるものを確かめるように、ゆっくりと息を吸った。
「大人が止めないと言う場面」を、今日、見た。
それは思ったより静かな場面だった。劇的ではなく、誰かが声を荒げるわけでもなく、ただ一人の教師が「止めない」と言っただけの、静かな場面。でもその二文字が、何かを変えた。澪の背筋が、昨日より少し伸びている。
凛は階段を降りながら、奏のことを考えた。
奏の証言ノートの、あの走り書きの文字を。感情を削ぎ落として、それでも事実だけは記録しておこうとした、あの文字を。
奏はずっと、一人で抱えていた。
構造に飲み込まれた場所で、誰にも言えないまま、三年間。
凛は、自分の掌を見た。左手の中指に、万年筆のペンだこがある。中学のころからずっと、同じ場所に。
何かを書き留めること。記録すること。それは澪の武器だが、凛にとっても、ずっとそうだったかもしれない。ノートに図式化して整理することで、世界を理解しようとしてきた。
けれど奏の記録は、整理されていなかった。走り書きで、脱線して、時々文章が途中で終わっていた。それでも記録されていた。ちゃんと、されていた。
凛は廊下の角を曲がりながら、ヘアピンに指を触れた。
外して、付け直した。
まだ、終わっていない。これからが、本番だ。
廊下の窓から、グラウンドが見えた。陸上部が走り込みをしていた。バトンを持った生徒が、次の走者に向かって全力で走っている。受け取る側の手が、後ろに伸びている。
凛は、それをほんの一秒だけ見て、目を前に戻した。
足音が、三人分、廊下に響いていた。




