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記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第三部「現像」

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第十八章

 窓の外では、五月の風が欅の葉を揺らしていた。

 図書館の隅、書架と書架の間に挟まれるようにして設けられた閲覧スペース——誰かが持ち込んだパイプ椅子が四脚、小さなテーブルを囲んでいる。放課後のこの時間、利用者はほとんどいない。司書の先生は奥のカウンターで何かの作業に没頭しており、ここまでは気にかけていないようだった。

 桐島奏は、テーブルの上で両手を組み合わせたまま、しばらく口を開かなかった。

 凛はその横顔を、できるだけ無表情に見ていた。奏の横顔は三年前と少しも変わっていないように見えて、しかし何かが確かに違った。かつて一緒に走った頃の、あの弾けるような明るさが、今の奏にはない。代わりに、何かを長いこと一人で運んでいる人間特有の疲れが、その肩の線に滲んでいた。

 陽菜は奏の向かいに座り、両手をテーブルに乗せて前のめりになっていた。澪は少し離れた位置で、開いたノートを膝の上に置いている。

「……話すよ」

 奏がようやく言った。低く、静かな声だった。

「全部、話す」


 話は、去年の秋に遡った。

 坂本教師から呼び出されたのは、十月の中旬だったと奏は言った。進路相談の名目だったが、職員室の中ではなく、准教室棟の奥にある小さな会議室——ほとんど使われない、鍵のかかる部屋だった。

「最初は普通の話だった。志望校のこと、評定のこと。でも途中から変わって」

 奏は一度、目を伏せた。

「書類を出してきた。私の成績記録の、修正版みたいなもの。数字がいくつか変わってた。坂本先生は、『この内容で提出すれば推薦の可能性が上がる』って言って、私にサインを求めてきた」

 凛は、自分の手が静かに拳を作るのを感じた。

「断ったら?」と陽菜が聞く。言葉は短かったが、声の底に怒りが流れているのが分かった。

「断ったよ」奏は言った。「即答で。でも先生は急がなかった。ゆっくりと、こう言ったんだ。『焦ることはない、でも志望校への推薦は担任の意見書がかなり影響する。その点をよく考えて』って」

 部屋の空気が、少し重くなった気がした。

 脅迫という言葉は使われていない。でもそれは確かに脅迫だった。凛は頭の中でその構造を素早く整理しながら、奏の次の言葉を待った。

「何て答えたの」と凛は聞いた。

「何も言わなかった。部屋を出た」

「それから三ヶ月、一人で?」

 奏は頷いた。その動作がどこか小さくて、凛は胸の奥が痛んだ。

「誰にも言えなかった。言ったところでどうなるか分からなかったし、もし坂本先生がそれを知ったら、本当に推薦が消えるかもしれないと思って。親にも言えなかった。心配かけたくなかったし、信じてもらえるかどうかも……自信がなかった」

 三ヶ月。九十日以上、一人で。

 凛は、それが何を意味するかを理解した。毎朝学校に来て、坂本教師の顔を見て、何事もないように席に座り、授業を受け、帰宅する。その繰り返しを、九十日間続けた。一人で抱えながら。

 凛は、自分の口が何かを言いかけるのを感じた。でも何を言えばいい。ごめんと言いたかった。三年間、気づかなかったことを。気づこうとしなかったことを。でも今それを言うのは、自分の感情を奏の上に乗せることだと思った。だから凛は黙って、奏の言葉の続きを待った。


 澪が鉛筆を走らせる音だけが、静かに続いた。

 凛がふと見ると、澪はノートに、録音機器は使わず手書きで書き留めていた。日時、場所、言葉、状況。丁寧に、しかし速く。記者というより、何かを守ろうとしている人間の書き方だった。

「写真は?」

 奏が澪に向かって聞いた。視線はノートに落とされていたが、その声は柔らかかった。

 澪は顔を上げて、少し考えてから答えた。

「奏さんが嫌なら、撮らない」

 静かな一言だった。凛は澪が今、何かを手放したように感じた。これまでの澪なら、記録の必要性を先に語ったかもしれない。でも今この瞬間の澪は、カメラより先に奏の意思を置いた。

 奏はしばらく黙っていた。何かを考えるように、窓の外に目を向けて。

「……顔が映らないなら、撮っていい」

 その言葉は、許可であり、信頼の一種だった。

 澪はカメラを取り出した。いつもの動作とは少し違う、どこか慎重な手つきで。そしてシャッターを切った。奏の手が映る角度。組み合わされた指先と、テーブルの木目と、その上に散らばる記録の断片たち。

 乾いた、小さな音が一度だけした。

 凛はそのとき、澪が変わった、と思った。記録する人間から、この場所の一部になった人間へ。重心が移動する、その音がシャッター音に重なったような気がして、凛は何も言わずに、ただそれを見ていた。


「ひとつ、聞いていい」

 凛は言った。「村上朔、という名前を知ってる?」

 テーブルの空気が変わった。

 奏の手が、わずかに動いた。

「……知ってる」

「どこで」

「うちの遠縁なんだ、朔は」奏はゆっくりと言った。「直接話したことはほとんどないけど、名前は知ってた。三年前にこの学校を辞めたって聞いたとき、なんで急にって思って、うちの親に聞いたことがある」

 凛は、陽菜と目が合った。陽菜が微かに頷く。

「親は何と言ってた?」

「詳しくは教えてくれなかった。でも、学校でいろいろあったって。先生に言われたことが嫌だったって。それで、もう続けられなかったって」

「その先生は、坂本先生?」

 奏は一瞬、息を止めたように見えた。

「名前は出なかった。でも……坂本先生が朔のクラスの担任だったのは、知ってた。同じ時期に」

 部屋の中に、静かな重さが満ちた。

 凛は頭の中で、点と点を繋いでいた。三年前、坂本教師のクラス。村上朔、退学。今年、再び坂本教師。桐島奏、同様の圧力。構造は繰り返されている。同じ人間が、同じやり方で、別の生徒に同じことをしている。

「朔が退学したのは、同じ理由だと思う?」と陽菜が奏に聞いた。

「わからない。確認したわけじゃないから」奏は言った。「でも、同じ先生で、同じ頃に、急に辞めた。それを今のことと並べたら」

 言葉は途中で止まったが、続きは必要なかった。

 澪がノートに何かを書き足す音がした。凛はその音を聞きながら、この三年間という時間の意味を考えていた。朔が退学を選んだ三年前から、今この瞬間まで。その間、坂本教師は何事もなく教壇に立ち続けた。誰かが気づいても、声を上げなかった。あるいは上げられなかった。学校という場所が、その沈黙を守ってきた。

「朔と、連絡は取れる?」凛は聞いた。

「たまにはあの子の話が家族から来ることもある。でも私が直接連絡できるかは分からない」

「できるなら、お願いできる? まだ早いかもしれないけど」

 奏は、しばらく凛の顔を見ていた。

 三年間、二人はほとんど言葉を交わしていなかった。それは凛も知っているし、奏も知っている。あのリレーのこと、その後のこと、うまく言えなかったこと、言えなかったままにしてしまったこと。それは今もここにある。消えたわけじゃない。

 でも奏は、ゆっくりと頷いた。

「やってみる」

 小さな、でも確かな言葉だった。

 凛は、自分の胸の中で何かが少しだけ動くのを感じた。解けたわけではない。まだここには、三年分の沈黙がある。でも最初の一センチだけ、何かが動いた。


「今日の話は、全部ここに残しておく」

 澪が言った。ノートを静かに閉じながら。「坂本先生についての記事は、もう少し裏付けを固めてから書く。今日聞いたことは、記事に直接使う前に奏さんに確認する。いい?」

「うん」と奏は言った。「澪ちゃんに任せる」

 窓の外で、欅の葉が一枚、風に乗って舞い上がった。夕方の光が斜めに差し込んで、テーブルの上の、澪の閉じたノートを橙色に染めた。

 この場所で話されたことが、記録された。記録されたということは、消えないということだ。

 凛はそれをぼんやりと思いながら、椅子から立ち上がった。まだやらなければならないことがある。繋ぐべき点がある。動かさなければならない何かが、まだそこにある。

 でも今日、確かに何かが始まった。

 三年前に切れたと思っていた線が、違う形で、静かに繋ぎ直されようとしている。

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