第十七章
放課後の廊下は、静かすぎた。
五月の日差しが窓ガラスを斜めに切り、埃の粒子が光の中をゆっくりと漂っていた。掃除を終えた生徒たちの靴音が遠ざかり、部活動に向かう声が校舎の外へ流れていく。残されたのは、冷めかけた空気と、凛の靴底が床を踏む、小さな音だけだった。
奏がここにいることは、陽菜から聞いていた。放課後、三階の東側、旧音楽準備室の手前の廊下。吹奏楽部が練習を始める前の十五分間、奏はそこで一人でいることが多いらしかった。
凛は昨日の夜から、何を言うかを考えていた。
頭の中でいくつもの言葉を組み立てた。論理的に、過不足なく。まず状況を説明して、自分たちが何を把握しているかを伝えて、それから奏に選択肢を示す。感情を先に出してはいけない。相手を追い詰めてもいけない。必要なのは、冷静に、順序よく。
そのはずだった。
角を曲がった瞬間、奏の横顔が見えた。
窓枠に背中を預けて、膝の上に何かの冊子を広げていた。髪が少し伸びていた。中学の頃と同じ、やわらかな黒。でも今の奏の輪郭には、昔にはなかった疲れのようなものが滲んでいて、それを見た瞬間、凛が夕べかけてきた言葉は、全部、どこかへ消えた。
奏が顔を上げた。
目が合った。
三年間、何度もすれ違った。廊下で、校庭で、給食の時間に。そのたびに互いに目を伏せてきた。でも今日は、どちらも逃げなかった。
「……凛」
奏の声は低く、乾いていた。
「久しぶり」
それしか出てこなかった。組み立てていたはずの言葉の一番最初が、こんなに平凡なものだったことに、凛は少しだけ呆れた。
「……うん」
奏は冊子を閉じた。表情は読めなかった。警戒しているのか、疲れているのか、それとも別の何かなのか。
凛は一歩、踏み込んだ。
「今、困ってる?」
沈黙が落ちた。奏の肩が、わずかに動いた。
「……なんで」
「あの写真と、書類の件。全部じゃないけど、わかってきてる」
奏の体が固まった。
息を呑む音が聞こえた気がした。冊子を持つ指が白くなって、奏は一瞬、窓の外に視線を逃がした。それから凛に戻してきた。その目の奥に、かすかな揺らぎがあった。
「やめて」
声が、震えていた。
凛はその二文字を受け取った。やめて。三年間、二人の間にあったのと同じ言葉かもしれない。これ以上踏み込まないで。これ以上近づかないで。
「やめない」
でも今日は、答えが違った。
「でも、奏がどうしたいか聞く前に動かない」
奏が凛を見た。
今度は、逃がさなかった。
「……凛」
「わかってる。こわいのも、疲れたのも。だから何も決めなくていい。ただ、一人じゃないってことだけ、先に言おうと思って来た」
廊下のどこかで、ドアが開く音がした。遠くの教室から楽器を調律する音が漏れてきた。吹奏楽部が集まり始めているのかもしれなかった。残り時間は、多くなかった。
奏はしばらく、黙っていた。
凛も、何も足さなかった。
そうしているうちに、奏の睫毛が、ふと揺れた。
こらえていたのだと、分かった。ずっと、ずっとこらえていたのだと。
奏の目から、涙が一筋、頬を落ちた。
凛は、手を伸ばしかけた。
止まった。
自分に、そんな資格があるのか。三年間、何もしなかった自分に。ずっと見て見ぬふりをしていた自分に。
でも。
止めなかった。
凛の手が、奏の肩に触れた。
奏は振り払わなかった。
「ごめん」
言葉が、喉から出てきた。組み立てていたものじゃなかった。夕べ考えていたものでも、なかった。ただそれだけが、今ここにあるすべてだった。
「リレーのこと。ずっと言えなかった」
奏の泣き声は、聞こえなかった。ただ肩が、小さく震えた。
「……それはもういい」
奏が言った。
「よくない」
凛は、押し返した。
「よくない。あの日のこと、ちゃんと謝りたかった。でも怖くて、ずっと逃げてた。それはよくない」
沈黙。
廊下の向こうで、誰かが笑う声がした。部活の生徒が校舎に戻ってきたのかもしれない。二人の時間は、もうすぐ終わる。
「……よくないけど」
奏が、ゆっくりと言った。
「今は、こっちのほうが先」
凛は、奏の顔を見た。
涙の残った目が、少し細くなった。
笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
中学の頃、運動会の朝に奏がよくやっていた、あの困ったような笑い方と、どこか似ていた。あの頃から奏はずっと、自分より先に場の空気を引き受けようとする子だった。だから凛は、今この笑顔が、奏なりの「ここまで話せた」という合図なのだと理解した。
凛の耳の先が、じわりと熱くなった。
「わかった」と凛は言った。「でもリレーのことは、いつか、ちゃんと話す」
「……うん」
奏は頷いた。今度は、「もういい」とは言わなかった。
肩に乗せていた手を、凛はそっと離した。
奏が袖口で目元を拭った。廊下を誰かが通り過ぎた。二人は互いに少しだけ姿勢を正した。でもその動作は、三年間ずっとやってきた「見なかったことにする」ための動作とは、何かが違った。
「調査のこと、話してもいい?」
凛は確認した。
奏は少しためらってから、頷いた。
「……怖い」
「わかってる」
「でも」
奏は窓の外を、一度だけ見た。五月の空に、白い雲が流れていた。
「凛が来てくれたなら」
続きは、なかった。でも凛には分かった。
奏がどうしたいか。
少なくとも、一人でいることをやめようとしていること。
凛はヘアピンを外しかけた手を、意識的にポケットに入れた。考え込む癖を、今だけは封じた。今ここで必要なのは分析じゃなかった。図式化でも、整理でも、なかった。
ただ、ここにいることだった。
「じゃあ、話そう」と凛は言った。「全部、順番に」
奏が、もう一度頷いた。
廊下の向こうから、チューニングの音が大きくなってきた。二人は示し合わせたわけでもなく、同じ方向へ歩き出した。三年前に壊れた距離の、その外側から始まるのではなく、もう少し近いところから、もう一度、足を踏み出すように。
謝罪は、解決ではなかった。
でも入口には、なれた。
それだけで今日は、十分だと思った。




