表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第三部「現像」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/26

第十七章

 放課後の廊下は、静かすぎた。

 五月の日差しが窓ガラスを斜めに切り、埃の粒子が光の中をゆっくりと漂っていた。掃除を終えた生徒たちの靴音が遠ざかり、部活動に向かう声が校舎の外へ流れていく。残されたのは、冷めかけた空気と、凛の靴底が床を踏む、小さな音だけだった。

 奏がここにいることは、陽菜から聞いていた。放課後、三階の東側、旧音楽準備室の手前の廊下。吹奏楽部が練習を始める前の十五分間、奏はそこで一人でいることが多いらしかった。

 凛は昨日の夜から、何を言うかを考えていた。

 頭の中でいくつもの言葉を組み立てた。論理的に、過不足なく。まず状況を説明して、自分たちが何を把握しているかを伝えて、それから奏に選択肢を示す。感情を先に出してはいけない。相手を追い詰めてもいけない。必要なのは、冷静に、順序よく。

 そのはずだった。

 角を曲がった瞬間、奏の横顔が見えた。

 窓枠に背中を預けて、膝の上に何かの冊子を広げていた。髪が少し伸びていた。中学の頃と同じ、やわらかな黒。でも今の奏の輪郭には、昔にはなかった疲れのようなものが滲んでいて、それを見た瞬間、凛が夕べかけてきた言葉は、全部、どこかへ消えた。

 奏が顔を上げた。

 目が合った。

 三年間、何度もすれ違った。廊下で、校庭で、給食の時間に。そのたびに互いに目を伏せてきた。でも今日は、どちらも逃げなかった。

「……凛」

 奏の声は低く、乾いていた。

「久しぶり」

 それしか出てこなかった。組み立てていたはずの言葉の一番最初が、こんなに平凡なものだったことに、凛は少しだけ呆れた。

「……うん」

 奏は冊子を閉じた。表情は読めなかった。警戒しているのか、疲れているのか、それとも別の何かなのか。

 凛は一歩、踏み込んだ。

「今、困ってる?」

 沈黙が落ちた。奏の肩が、わずかに動いた。

「……なんで」

「あの写真と、書類の件。全部じゃないけど、わかってきてる」

 奏の体が固まった。

 息を呑む音が聞こえた気がした。冊子を持つ指が白くなって、奏は一瞬、窓の外に視線を逃がした。それから凛に戻してきた。その目の奥に、かすかな揺らぎがあった。

「やめて」

 声が、震えていた。

 凛はその二文字を受け取った。やめて。三年間、二人の間にあったのと同じ言葉かもしれない。これ以上踏み込まないで。これ以上近づかないで。

「やめない」

 でも今日は、答えが違った。

「でも、奏がどうしたいか聞く前に動かない」

 奏が凛を見た。

 今度は、逃がさなかった。

「……凛」

「わかってる。こわいのも、疲れたのも。だから何も決めなくていい。ただ、一人じゃないってことだけ、先に言おうと思って来た」

 廊下のどこかで、ドアが開く音がした。遠くの教室から楽器を調律する音が漏れてきた。吹奏楽部が集まり始めているのかもしれなかった。残り時間は、多くなかった。

 奏はしばらく、黙っていた。

 凛も、何も足さなかった。

 そうしているうちに、奏の睫毛が、ふと揺れた。

 こらえていたのだと、分かった。ずっと、ずっとこらえていたのだと。

 奏の目から、涙が一筋、頬を落ちた。

 凛は、手を伸ばしかけた。

 止まった。

 自分に、そんな資格があるのか。三年間、何もしなかった自分に。ずっと見て見ぬふりをしていた自分に。

 でも。

 止めなかった。

 凛の手が、奏の肩に触れた。

 奏は振り払わなかった。

「ごめん」

 言葉が、喉から出てきた。組み立てていたものじゃなかった。夕べ考えていたものでも、なかった。ただそれだけが、今ここにあるすべてだった。

「リレーのこと。ずっと言えなかった」

 奏の泣き声は、聞こえなかった。ただ肩が、小さく震えた。

「……それはもういい」

 奏が言った。

「よくない」

 凛は、押し返した。

「よくない。あの日のこと、ちゃんと謝りたかった。でも怖くて、ずっと逃げてた。それはよくない」

 沈黙。

 廊下の向こうで、誰かが笑う声がした。部活の生徒が校舎に戻ってきたのかもしれない。二人の時間は、もうすぐ終わる。

「……よくないけど」

 奏が、ゆっくりと言った。

「今は、こっちのほうが先」

 凛は、奏の顔を見た。

 涙の残った目が、少し細くなった。

 笑っていた。

 泣きながら、笑っていた。

 中学の頃、運動会の朝に奏がよくやっていた、あの困ったような笑い方と、どこか似ていた。あの頃から奏はずっと、自分より先に場の空気を引き受けようとする子だった。だから凛は、今この笑顔が、奏なりの「ここまで話せた」という合図なのだと理解した。

 凛の耳の先が、じわりと熱くなった。

「わかった」と凛は言った。「でもリレーのことは、いつか、ちゃんと話す」

「……うん」

 奏は頷いた。今度は、「もういい」とは言わなかった。

 肩に乗せていた手を、凛はそっと離した。

 奏が袖口で目元を拭った。廊下を誰かが通り過ぎた。二人は互いに少しだけ姿勢を正した。でもその動作は、三年間ずっとやってきた「見なかったことにする」ための動作とは、何かが違った。

「調査のこと、話してもいい?」

 凛は確認した。

 奏は少しためらってから、頷いた。

「……怖い」

「わかってる」

「でも」

 奏は窓の外を、一度だけ見た。五月の空に、白い雲が流れていた。

「凛が来てくれたなら」

 続きは、なかった。でも凛には分かった。

 奏がどうしたいか。

 少なくとも、一人でいることをやめようとしていること。

 凛はヘアピンを外しかけた手を、意識的にポケットに入れた。考え込む癖を、今だけは封じた。今ここで必要なのは分析じゃなかった。図式化でも、整理でも、なかった。

 ただ、ここにいることだった。

「じゃあ、話そう」と凛は言った。「全部、順番に」

 奏が、もう一度頷いた。

 廊下の向こうから、チューニングの音が大きくなってきた。二人は示し合わせたわけでもなく、同じ方向へ歩き出した。三年前に壊れた距離の、その外側から始まるのではなく、もう少し近いところから、もう一度、足を踏み出すように。

 謝罪は、解決ではなかった。

 でも入口には、なれた。

 それだけで今日は、十分だと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ