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記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第三部「現像」

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第十六章

 空は、どこか間延びしているような青さをしている。

 屋上への重い扉を開けると、金属の擦れる音がして、それから風が一気に入り込んできた。宮瀬陽菜は前髪を押さえながら一歩踏み出し、フェンスの手前に置かれたコンクリートの縁に腰を下ろした。

 十文字澪はすでにそこにいた。

 膝の上にカメラを乗せ、空のほうを向いてぼんやりしていた。扉の音に気づいて振り返ったが、驚いた様子もなく、ただ小さく目を細めただけだった。

「凛に聞いた」陽菜は言いながら隣に座った。「ここ、よくいるって」

「……そう」

 それ以上何も言わない。澪がそういう人間だということは、もうわかっていた。言葉を節約しているわけではなく、必要だと判断したことだけを口にする人間なのだと、この数週間で陽菜は学んでいた。

 風が吹いて、澪の黒髪が横に流れた。

 陽菜は膝の上のノートを開き、シャープペンシルをくるくると指の間で回した。何かを書くつもりがあったわけではない。ただ、手に持っていないと落ち着かない。そういう癖が自分にはある。

「ねえ」と陽菜は言った。

「何」

「十文字さんって、本当は怖いとか、ない?」

 澪がこちらを向いた。表情は変わっていない。ただ、少し間があった。

「……何が?」

 陽菜はシャープペンシルを止めた。どう言えばいいかを探した。さっき廊下を歩きながら考えていたことを、言葉にするのが難しかった。でも、澪相手なら、ちゃんと言わないといけない気がした。あいまいに言って「そうだね」と流されても、それは何も確かめたことにならない。

「なんか、記録してたら記録だけになっちゃうこと、とか」

 澪がかすかに目を細めた。

 陽菜は続けた。

「写真って、映してる人は映らないじゃん。あたしは動いてて、凛は考えてて、十文字さんはずっと撮ってる。でもさ、それって十文字さん自身は、どこにいるの、って思って」

 言い終わって、少し後悔した。余計なことを言ったかもしれない。でも澪は怒った様子もなく、膝の上のカメラに視線を落として、それから短く言った。

「ある」

「え」

「怖いこと、ある」

 陽菜は黙って続きを待った。

 澪はしばらく何も言わなかった。カメラの表面を指先でなぞった。黒いボディに小さな傷が何本かついている。それほど新しくもない機種だった。

「撮ってるとき、うまくいくと、全部が像になる気がする」澪は静かに言った。「そのほうが楽で、そのほうが正確で、自分が何かを感じているよりも、ちゃんと残せる、って思う」

「うん」

「でも、それが続くと、自分が何を感じてるのかわからなくなることが、ある。感じるより先に、記録しようとしてる」

 陽菜は何も言わなかった。

 澪が自分からこれだけ喋るのは、珍しかった。陽菜はそれを邪魔したくなかった。

「今回のことも、最初はそうだった」澪は続けた。「おかしいと思ったから、撮った。撮ったものが証拠になるかもしれないから、持ってた。でも途中から、それだけじゃなくなった」

「……そっか」

「なんか、変なこと言った」

「ううん」陽菜はすぐに首を振った。「全然。あたしが聞いたんだし」

 それから二人は少しの間、黙っていた。

 グラウンドから体育の授業の笛の音が届いてきた。遠く、電線に鳥が止まった。

 陽菜はふと澪のカメラに目をやった。ストラップが古びている。合成皮革のような素材が一部剥げていて、修理したのか、細い紐で補強されていた。

「それ、おじいちゃんから?」

 澪が少し驚いた顔をした。

「なんでわかった」

「なんとなく」陽菜は言った。「大事にしてるっぽいから。自分で買ったものって、もうちょっと気軽に扱うじゃん、たいてい」

 澪は視線をカメラに戻した。

「そう。……祖父が使ってたやつ。写真を撮る人だった。プロじゃなくて、ただ好きで撮ってた人。亡くなったとき、これだけ貰った」

「そっか」

「重くて、古くて、最初は使い方もよくわからなかった。でも、慣れたら、なんか、これじゃないとうまく撮れなくなった」

 陽菜はシャープペンシルを見た。

「あたしのこれも、おじいちゃんから。文具屋をやってた人で、亡くなる前に、一番高いやつをくれた。もったいないから使わないでいたんだけど、ある日なくしちゃって、探してたら引き出しの中から出てきて、そのまま使い始めた」

 澪が小さく頷いた。

「凛も」陽菜は言った。「万年筆、お父さんから貰ったって言ってた」

「……知ってる」

 陽菜は少し目を丸くした。

「え、知ってるの?」

「前に、見た。授業中、使ってるのを」

「そっか」陽菜は笑った。「記録する人は、細かいところ見てるんだ」

 澪は返事をしなかった。でも口元が、少しだけ動いた。

 笑ったのだと、陽菜には分かった。澪の笑い方を、最近少しずつ覚えてきた。口の端が数ミリ上がるだけで、目はそのままで、それでも確かに笑っている。

「なんか、似てるよね」陽菜は言った。

「何が」

「三人とも、誰かから貰ったもので動いてること」

 澪が少しだけ間を置いた。

 陽菜は説明しなかった。説明しなくていいと思った。凛の万年筆と、澪のカメラと、自分のシャープペンシル。誰かがかつて使い、誰かが遺し、あるいは手渡した道具を、三人はそれぞれの方法で動かしながら、この数週間を動いてきた。

 分析する人間と、動く人間と、記録する人間。

 それぞれが別々のやり方で、でも同じ方向を向いていた。

「……そうかもね」澪が言った。

 短い言葉だったが、否定ではなかった。

 陽菜は空を見た。青い。まだ少し風がある。グラウンドの笛がまた鳴って、生徒たちの声がかすかに届いた。

「これ終わったら」陽菜は言った。

「終わったら?」

「普通にご飯でも行こ。三人で」

 澪が少し陽菜を見た。

「……凛が来るかどうか」

「来る来る。あたしが連れてく」

「強引だ」

「そう。あたしそういう人間だから」

 澪はまた少し笑った。今度は少しだけ長く、口元が動いていた。

 陽菜はシャープペンシルをノートの端で転がした。何かを書こうとして、結局何も書かなかった。書かなくていい気がした。

 澪がカメラを持ち上げ、空のほうに向けた。シャッターは切らなかった。ただ、ファインダーを覗いて、それからゆっくり下ろした。

「撮らないの」陽菜は聞いた。

「今は、いい」

 陽菜は頷いた。

 それだけで十分だった。

 屋上の風がまた吹いて、澪の黒髪が横に流れ、陽菜のショートボブの毛先が一瞬立った。二人はそのまましばらく、何も言わずに並んで座っていた。

 コンクリートは午後の陽を受けてほんのり温かく、フェンスの向こうには校舎の屋根と、その先に広がる空があった。記録されない時間が、静かにそこにあった。

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