第十五章
放課後の図書室は、いつも以上に静かだった。
窓の外では五月の風が欅の葉を揺らしている。その音がかすかに硝子越しに届いてくるほど、室内には人がいなかった。凛と陽菜と澪の三人が、いちばん奥のテーブルを占領するかたちで向かい合っている。澪のICレコーダーと、凛のノートと、陽菜の持ってきたプリントアウト数枚。それだけが机の上に並んでいた。
「それで、奏さんにはどう接触する?」
澪が静かな声で言った。細縁の眼鏡の奥の目が、テーブルの中央あたりをまっすぐに見ている。感情を削いだような問いかけ方だったが、それが彼女の「記録者」としての姿勢だということを、凛はこの数日で学んでいた。
「本人から話を聞けるなら、それが一番信頼性が高い」と澪は続ける。「村上朔のことも、坂本の件も、彼女が実際に経験した当事者として語れる部分がある。証言があれば記事の根拠として使える」
「だよね」と陽菜が頷いた。ショートボブの毛先が揺れる。「やっぱり奏さん本人に会わないと」
凛は手元のノートに視線を落としたまま、万年筆のキャップを指先で回していた。
「接触の方法としては」と凛は言った。「まず澪が学年に関係のない第三者として接触するのが自然じゃないか。新聞部の取材として。奏に個人的な関係がない分、警戒されにくい」
「それはそうだけど」陽菜が首を傾ける。「朝日さん、奏さんに会いに行かないの?」
沈黙が落ちた。
凛は万年筆のキャップを止めた。
「……澪が行く方が効率的だと言っている」
「そういう話じゃなくて」陽菜の目が、まっすぐに凛に向く。隠し事のない、くっきりとした目だった。「朝日さん、幼馴染でしょ。澪ちゃんより話してもらいやすいんじゃないの」
「必要があれば私も」
「必要があれば、って」陽菜は少しだけ顔をしかめる。「今じゃないの? 今が必要なときじゃないの?」
凛は答えなかった。
窓の外で風が一段強く吹いて、欅の葉が束になってざわめいた。そのざわめきが収まるまで、三人とも黙っていた。
「私が行っても」凛はゆっくりと言葉を選ぶ。「奏は話してくれないかもしれない」
「なんで?」
「三年間、ほとんど話していない。私のことを避けている。だから……」
「だから行かない、って?」
陽菜は責めているわけではない口調だったが、問いの核心は鋭かった。凛の言葉が途切れる。
「それって確認した?」
凛の指が、止まった。
その問いかけが自分の口癖だということに気づくまで、ほんの一瞬かかった。「それ、本当に確認した?」——何かを決めつける前に立ち止まれ、という意味で凛が使い続けてきた言葉。それがそのまま、陽菜の口から返ってきた。
澪が小さく咳払いをして、プリントアウトに目を落とした。余計なことは言わない、という気遣いの沈黙だった。
「……今日は、ここまでにしよう」
凛が言うと、陽菜は何も言わずに頷いた。その顔に責める色はなかった。ただ、待っている、という静けさがあった。
凛はノートを閉じ、万年筆をペンケースに収めた。それから左耳のヘアピンを外して、また留め直した。
夜、八時を過ぎた頃。
台所から食器を洗う音がしている。父は今日も残業で、母が一人でかたかたと後片づけをしている音だ。凛は自室の机に向かいながら、その音を聞いていた。ノートは開いていたが、万年筆は止まっていた。
廊下を歩いてくる足音がして、ドアが二回、軽くノックされた。
「凛姉」
返事をする前に蒼が顔だけ覗かせる。中学一年生になった弟は、この春から急に背が伸び始めていて、ドアの隙間から見える顔の位置が確実に去年より高くなっていた。
「何」
「宿題でわかんないとこあって」
「教科書持っておいで」
蒼は部屋に入ってきて、机の横の床にあぐらをかいた。数学のノートを広げ、どこがわからないかを説明しながら、ごそごそとシャープペンシルを探している。凛はその問題を見て、どこで躓いているかをひとつ確かめてから説明した。
蒼は二、三回問い直して、やがて「あー」と声を上げた。「そういうことか」
「ちゃんと式の意味を追って。答えだけ合わせようとするな」
「うん」
しばらく蒼がノートに書いている音がした。凛は視線を自分のノートに戻したが、何も書けなかった。
「ねえ、蒼」
「ん?」
自分でも、なぜこのタイミングで聞こうとしたのかわからなかった。ただ声が出ていた。
「小さいとき、リレーの話覚えてる?」
蒼の手が一瞬止まった。それからまたノートの上を動き始める。
「うーん、なんとなく。あんまり詳しくは知らないけど」
「そう」
「でも、姉ちゃんが泣いてたのは覚えてる」
凛は顔を上げた。
「……私、泣いてたっけ」
「うん」蒼はのんびりした口調で、特別なことを言っているつもりもないらしかった。「一回だけ。帰ってきた日に、部屋から声がして」
凛は何も言えなかった。
「それだけ。詳しいことは知らないけど」蒼が顔を上げて、少しだけ首を傾げる。「どうかした?」
「ううん」
凛は首を横に振った。声が少し、かすれた。
「もう行っていい。宿題は自分でやれるでしょ」
「え、あと一問だけ」
「教科書読んで。同じやり方で解ける」
蒼は「えー」と言いながら立ち上がり、ノートを抱えて出ていった。ドアが閉まる。
台所の音が続いている。
凛は机の上の万年筆を見た。父からもらったそれは、キャップの表面が長年の使用でわずかに擦れている。入院していた母のことを、一人で心配していたあの頃の自分が、このペンをどんなふうに握っていたか、今でも指が覚えているような気がした。
一回だけ。
蒼の言葉が、静かに沈んでいく。水に落とした石が底に着くように、ゆっくりと凛の奥に降りていく。
自分が泣いたことを、凛は覚えていなかった。覚えていなかったのではなく、記憶の中から整理して取り除いてしまっていたのかもしれない。あの県大会の帰りの電車の中で何を考えていたか、家に着いてから何をしたか、細かいことは何も残っていない。ただ「次の日から陸上を辞めた」という事実だけがある。それ以外は全部、きれいに片づけたつもりでいた。
奏は話してくれないかもしれない。
さっき自分が言った言葉を、凛はもう一度頭の中でなぞった。
『確認した? それ、本当に確認した?』
確認していない。奏が話してくれないと、試しもしないうちに決めている。なぜなら試して断られたら、それが事実になってしまうから。今は「もしかしたら話してくれるかもしれない」という可能性が、かろうじてまだ存在している。試さなければ、その可能性は消えない。
失敗を恐れている。それだけのことだ。
「一人でやれること」に絞るようになったのは、陸上を辞めたあの頃からだった。一人でやれることなら、誰かを巻き込まない。誰かに迷惑をかけない。誰かを失望させない。そのはずだった。
でも同時に、それは。
凛は万年筆を手に取った。ただ握るだけで、何も書かない。
踏み出すことへの恐怖と、一人でやれることへの執着が、同じ形をしている。それに気づいたのは初めてではないかもしれないが、今夜はっきりと、輪郭を持って浮かんできた。どちらも根は同じだ。失敗したとき、一人でいれば誰も傷つけないという錯覚。でもあのリレーの日、凛が一人で完結しようとして出たミスが、チーム全員に影響した。奏にも。
一人でやれることの限界が、あそこにあった。
それからずっと逃げている。一人でやれることに絞ることで、その限界に近づかないようにしてきた。でも今、澪と陽菜と三人でいて、凛にしかできないことがある。奏に会いに行くことは、凛にしかできない。
外で風が吹いた。カーテンがわずかに揺れた。
凛はヘアピンを外して、また留め直した。
明日、会いに行く。
それだけを決めた。何を話すかも、どう切り出すかも、まだ何もない。確認してみなければわからないことだから。ただ、行く。
万年筆をペンケースに戻して、凛はノートを閉じた。台所の音がいつのまにか止んでいた。廊下に母の足音がして、遠ざかっていく。
凛は電気を消して、布団に入った。
暗い天井の向こうで、三年前の奏の顔がぼんやりと浮かんだ。今朝、職員室前の廊下で目を伏せた奏ではなく、もっと昔の、夏の校庭で一緒に走っていた頃の顔。その二つの顔の間に、三年間があった。
まだ間に合うかどうか、わからない。
でも確認してみなければ、それもわからない。




