第十四章
五月の光は、校舎の窓ガラスを通すと奇妙に白くなる。
渡り廊下の突き当たりにある資料室の脇――そこが澪の選んだ場所だった。人の往来が少なく、昼休みの終わりかけには誰もほとんど近寄らない。カメラを持たず、取材用のメモ帳もポケットにしまったまま、十文字澪は壁に背をあずけて待った。
桐島奏が姿を現したのは、予鈴の七分前だった。
背が高く、歩幅が狭い。体を小さく見せようとしているような、そういう歩き方だと澪は思った。奏は廊下の奥に澪を認めると、一瞬だけ足が止まった。止まった、というより、躊躇した、という表現の方が正確だったかもしれない。
「桐島さん」
澪が名前を呼ぶと、奏の顔がわずかに強張った。
「……新聞部の人」
「十文字澪。先週、校内で写真を撮っていた」
「知ってる」
奏の声は低く、抑制がきいていた。感情をわざわざ平らに均したような、そういう声だった。澪はそれに気づきながら、一歩前に出た。
「聞きたいことがある」
「何を」
「撮っていいか聞く前に」澪は少し間を置いた。「話を聞いていいか、って聞こうと思って」
奏がぴたりと動きを止めた。
それは一秒にも満たない静止だったが、澪にははっきりと見えた。何かが、奏の表情の奥でわずかに揺れた。硬く引き結んでいた口元が、ほんの少しだけ力を失った。
「……何が聞きたいの」
「坂本先生のこと」
奏の目が細くなった。否定も肯定も、すぐには返ってこなかった。渡り廊下の外では、グラウンドから部活の声が断片的に届いていた。風が吹くたびに、その声は遠くなったり近くなったりした。
「何も知らない」
「そうは見えない」
「……」
「私が持っている写真と、今まで集めた情報だと、あなたが関係している可能性がある」澪は言葉を選びながら続けた。「責めたいわけじゃない。ただ、話を聞きたい」
しばらく、奏は答えなかった。廊下の蛍光灯が一本、微細な音を立てて明滅した。
「……推薦の件で」
奏がようやく口を開いたとき、その声はそれまでと同じ平坦さを保っていた。ただ、澪には分かった。声のトーンが、ほんのわずかだが落ちていた。水の温度が変わるような、そういう落ち方だった。
「先生に、書類の内容を変えるよう頼まれた」
「頼まれた?」
「……断れなかった」
そこで奏は口をつぐんだ。それ以上は続かなかった。続ける気がない、というより、続けられる言葉を持っていないような沈黙だった。澪はメモ帳を出さなかった。カメラにも手を伸ばさなかった。ただその言葉を、自分の中にそっと収めた。
「ありがとう」
澪がそう言うと、奏は一度だけ澪を見た。何かを測るような目だったが、何かを信じようとしているような目でもあった。
「これ、どうなるの」
「まだ分からない」澪は正直に言った。「でも、黙ったままにはしない」
奏は何も答えなかった。ただ、廊下を歩き去る前に、一度だけ足を止めた。背中しか見えなかったが、澪にはそれで十分だった。
市立図書館の閉架資料室に隣接した自習スペースは、夕方になると学生が増えるが、奥の隅のテーブルだけは不思議とよく空いていた。
凛が先に来ていた。
テーブルの上には、B5サイズのノートが広げられていた。凛の万年筆の字で、情報が図式化されて並んでいる。矢印が走り、括弧が入れ子になり、余白に小さな疑問符がいくつも書き込まれていた。
陽菜が来たのは凛の五分後で、リュックを椅子に引っ掛けながら「奏さん、何か話した?」と澪に聞いた。澪が頷いてから経緯を話す間、凛はペンを止めてじっと聞いていた。
「推薦書類の内容を変えるよう、坂本に頼まれた」
「頼まれた、って言ったの?」
「うん。それから、断れなかった、って」
陽菜の眉間にしわが寄った。感情が顔に出る前に言葉が出てくる、陽菜特有の間の詰め方だった。
「つまり、奏さんが被害者だってことだよね」
誰も即座には答えなかった。自習スペースのどこかで、誰かがシャープペンシルを走らせる音がした。蛍光灯の光が均一に降っていた。
「被害者、という言葉が正確かどうかはまだ分からない」凛がゆっくりと言った。「でも、強制的な関与を求められた、という点では、そう呼んでいいと思う」
「十分じゃん」
「十分かどうかは、もう少し確認してから」
陽菜が唇を尖らせた。言いたいことはもっとあるが、今は凛のペースに乗る、そういう顔だった。
澪がテーブルに両肘をついて、指を組んだ。
「問題は、それをどう残すか、だと思う」
「どう残す、というのは」凛が目を上げた。
「奏さんの証言は断片的だし、本人がどこまで公にしていいか言っていない。写真は状況証拠にしかならない。坂本の書類を直接確認できていない段階で、記事として出すのはまだ難しい」
「でも何もしないのは違う」陽菜が言った。「村上くんのことだってある。三年前に同じことがあって、あの人は学校を辞めた。ずっと黙ってたら、また同じことが起きる」
澪は頷いた。否定しなかった。
凛はしばらく、ノートを見つめていた。ペンのキャップを外して、また閉めた。矢印を一本書いて、その先に何も書かないまま止まった。
左手が、耳の後ろに伸びた。
細いヘアピンを外す。指先でそれを挟んで、少しの間だけ持ち続けた。
「まず」
凛が口を開いたとき、声は低く、ゆっくりしていた。
「奏本人が、どうしたいか確認する必要がある」
陽菜がはっとしたように顔を上げた。澪は静かに目を細めた。
「私たちが何かをするにしても、奏が何を望んでいるかを飛ばして動くべきじゃない。被害者が望んでいない形で話が進んだとき、また誰かが傷つく」
「……そうだね」陽菜が、少し間を置いてから言った。今度は反論ではなかった。「先に話すべきだった」
「話せるかどうかも、まだ分からない」澪が言った。「奏さん、全部は話していなかった。警戒は解けてない」
「解けなくてもいい」凛はヘアピンをもとの位置に戻した。「ただ、私たちが奏の側にいるということを、伝える方法を考える必要がある」
テーブルの上に、静かな時間が流れた。ノートの上に書かれた図式は、まだ完成していなかった。矢印の先は宙に浮いたまま、疑問符がいくつも余白に散らばっていた。しかし、それまで霧の中にあったものの輪郭が、今ははっきりと見え始めていた。
何かが隠されている。誰かがそれを知っている。そして、その誰かはずっと一人でいた。
凛はノートの余白に、もう一本だけ矢印を書いた。その先には、ひとつだけ名前を書いた。
桐島奏。
その名前を囲む括弧を書いてから、凛は少しだけ手を止めた。三年分の沈黙が、ページの余白にじっとりと染み込んでいるような気がした。自分が書いた名前を見つめながら、凛は何も言わなかった。言わなかったが、何も感じていなかったわけではなかった。
図書館の外では、五月の夕暮れが街路樹の葉をゆっくりと染め始めていた。




