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記録と、残像と、もう一度  作者: 試作ノ山
第二部「露光」

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第十三章

 翌朝、梅雨の気配がまだ遠い五月の空は薄い水色で、どこか間延びした日差しが教室の窓を斜めに照らしていた。

 凛が登校してすぐに陽菜からメッセージが届いた。

「澪ちゃんから連絡来た。部室に来て」

 短い文字列の中に、普段の陽菜には珍しい切迫感が滲んでいた。凛はかばんを置く間も惜しんで廊下に出た。

 新聞部の部室は校舎の北棟、三年生の特別教室が並ぶ廊下の突き当たりにある。木目の剥げかけたドアを開けると、澪が窓際に立って腕を組み、陽菜が机の縁に腰を下ろして足をぶらぶらさせていた。どちらも口を開いていなかった。室内には昨日と同じ現像液と古紙の匂いが満ちており、凛は一瞬だけ扉の前で呼吸を整えた。

「おはよう」と凛が言うと、澪は振り返り、ゆっくりと口を開いた。

「原田先生から話があった。今朝、部室に来たとき呼び止められて」

 原田は新聞部の顧問だ。三十代の半ばで、本人は社会科教員として温厚な印象を持たれているが、部活動の指導においては生徒の自主性を重んじる、いわゆる「干渉しない」タイプだった。その原田が、わざわざ朝一番で澪を呼び止めた。

「なんて言ったの」と凛は聞いた。

 澪は視線を窓の外に向けたまま答えた。

「しばらく、活動を控えてほしいという話が上から来ている、って」

「上から」と陽菜が繰り返した。眉間に皺が寄り、声に棘が混じる。「上って、誰よ」

「わからない。先生はそれ以上は言わなかった。でも、申し訳なさそうな顔をしてた」と澪は言った。「ただ伝えるだけで精一杯みたいな、顔」

 沈黙が落ちた。凛は部室の壁に貼られた活動記録の紙を見るとも見ないともなく視線を置き、頭の中で情報を並べ直していた。

 原田先生に話が来た。顧問を通じた圧力。それは偶然ではない。

「わかった」と凛はやがて言った。声は静かだったが、三人の視線が集まった。「向こうが動いたということは、こちらが正しい方向を向いていたということ」

 陽菜が「そうよね」と即座に頷く。その速さが凛には少し眩しかった。

「でも同時に」と凛は続けた。「奏が危ない」

 言葉にしてしまうと、それは現実の重さを持って部室の空気の中に沈んだ。

 坂本の成績改ざん、村上朔の「自主退学」、そして桐島奏が三年間ずっと抱えてきたもの。これらは全て繋がっている。そして今、学校側が動き始めたということは、奏への圧力も同時に強まる可能性がある。証拠を持つ者、あるいは事情を知る者として、奏は最も危うい立場に置かれている。

「どうやって接触するか、考えよう」と凛は言った。

 三人はそれぞれ椅子を引き寄せ、机を囲んだ。陽菜がすぐに「直接クラスに行くのは? あたしが行ってもいい」と言った。

 凛は首を振った。「目立ちすぎる。今は向こうに見られている可能性がある」

「じゃあ放課後、人気のないところで」

「奏が来るとは限らない。それに奏が誰かに話しているのを見られたら、それだけで奏の立場が悪くなる」

 陽菜が唇を噛んだ。反論はしなかった。

「電話は」と澪が静かに言った。

 凛の指が、テーブルの上で止まった。

 奏の電話番号はまだ持っていた。中学時代のまま、変えていないかどうかはわからない。しかし凛の手は、画面に触れようとしなかった。

 電話する、という行為が何を意味するか、凛には分かりすぎるほど分かっていた。三年間、二人の間にあった沈黙の重さ。廊下ですれ違うたびに伏せられた奏の目。それは拒絶ではなく、傷の形をしていた。だから余計に、凛は踏み出せなかった。

 番号を押すことは、三年前のあの日に立ち帰ることだ。バトンが地面に落ちた音、弾んで転がった距離、チームメイトの顔。奏の顔。

「……無理」と凛は言った。声が裏返りそうになるのを、奥歯を噛んで抑えた。「私には、できない」

 陽菜が凛を見た。いつもなら何か言いそうなその口が、今日は閉じたまま、凛の横顔を見守っていた。

 沈黙の中で、澪がゆっくりと立ち上がった。

 机の横にかけていたカメラのストラップに手を伸ばし、カメラを持ち上げる。レンズには昨日と同じ傷一つない保護フィルターが嵌まっていた。澪の指先がカメラのダイヤルに触れ、かすかな音を立てて回る。それはシャッタースピードを確認するときの澪の癖だった、と凛は思った。何かを決めるとき、澪はいつもカメラに触る。

「私が行く」と澪は言った。

 二人の視線が向いても、澪の目はカメラに落ちたままだった。

「取材という形で接触できる。それが私の役割だから」

 陽菜が「澪ちゃん」と呼んだ。心配と信頼が半分ずつ混じったような声だった。

 凛は澪の言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。取材という形で。それが私の役割だから。

 確かにそうだ、と凛は思った。正面からぶつかりに行く陽菜でも、奏と過去を共有している凛でもなく、澪だからこそできるアプローチがある。記録する者として、話を聞く者として、澪が行く。それは論理的に正しい。

 でも凛は、もう一つのことを確かめたかった。

「澪」と凛は呼んだ。

 澪が顔を上げた。レンズ越しではなく、真正面から、澪の目が凛を見た。

「本当に確認した?」と凛は言った。「自分が行きたいと思っているか」

 それは凛が何度も口にしてきた言葉だった。情報の裏取り、事実の確認、推測と証拠の区別。しかし今、凛が問いかけているのはそういうことではなかった。怖くないか、ということでも、逃げていないか、ということでもなかった。ただ、澪自身の意志から来ているか、と問いたかった。誰かのためではなく、自分の足で立って、自分の手でシャッターを押すつもりでいるか、と。

 澪は少しの間、黙っていた。

 ダイヤルに置いた指が、かすかに動いた。

「……確認した」

 静かな声だった。でも迷いはなかった。

 凛は息を吐いた。それが安堵なのか、何か別のものなのか、うまく名前をつけられなかった。

 陽菜が「よし」と言って立ち上がった。その声はいつもより少し低く、でも温かかった。「じゃあ三人で動く。澪ちゃんが奏ちゃんに接触して、あたしが動ける状態でいて、凛が全部繋げる」

「雑すぎる役割分担」と凛は言ったが、口元が微かに緩んだ。

「いいじゃない、大体あってれば」と陽菜が笑う。

 澪はカメラを胸の前で抱えるようにして、わずかに微笑んだ。

 その笑顔を見て、凛は思った。三人がそれぞれ別々の場所から同じ地点に向かっている、という感覚。それが今の自分には、かつて陸上のリレーで感じるはずだったものに、どこか似ている気がした。

 バトンを渡すということ。手の中にあるものを、信じた相手に預けるということ。

 凛の口癖を、澪が使った。「確認した」と答えた。それはただの返答ではなかった、と凛には思えた。凛が持っている言葉を、澪が自分の言葉として引き受けた。そういう瞬間が、人と人の間には稀にある。それが何かを変える。あるいは、何かを定着させる。

 窓の外では五月の日差しが相変わらず間延びして、校庭の端にある桜の木が葉の緑を揺らしていた。

「今日の放課後」と澪は言った。「桐島さんがいる時間、確認してから動く」

「連絡して」と凛は言った。

「する」

 三人は部室を出た。廊下の先で始業を告げるチャイムが鳴り始めた。凛は左耳のヘアピンに軽く触れた。外しはしなかった。

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