第十二章
五月の終わりは、光の質が変わる。
夕方になっても空が白んでいて、時刻の感覚が少しずれたまま一日が終わる。そういう季節だった。宮瀬陽菜が職員室の前に立ったのも、そんな白い光の残る放課後のことだった。
「失礼します。新聞部の宮瀬です。少しよろしいでしょうか」
ノックして顔を出すと、学年主任室は職員室の奥の小部屋で、坂本哲也はちょうど書類を整えているところだった。五十代の半ば、眼鏡の奥の目が穏やかな弧を描く。
「ああ、新聞部か。どうぞ」
坂本は椅子を引いて陽菜を中に招いた。威圧感のある人物ではなかった。むしろ声も動作も丸みを帯びていて、もし廊下で擦れ違っただけなら「じっくり話を聞いてくれそうな先生」という印象で終わっただろう。
「推薦制度について、取材させていただきたくて」
陽菜は用意してきたノートを開いた。「進路担当の先生にお話を伺う機会があって、今年から評価の基準が変わる可能性があると聞いたんですが、生徒の立場から見て不透明に感じるところがあって。坂本先生はその辺りを学校としてどうお考えなのかな、と」
「そうか、そういうテーマで記事を書くんだね」
坂本は眼鏡のブリッジを押さえながら、うなずいた。柔らかい声だった。そしてその次の瞬間、ほんの一拍だけ、視線が変わった。
目が細くなった。
笑顔のまま、表情はほとんど動いていないのに、その目だけが一瞬、陽菜という存在を測るように細くなった。陽菜はそれを正面から受け取った。気のせいかもしれないとも思った。でも、気のせいにしてはいけない類のものだとも感じた。
「推薦に関しては、どの学校でも基準を明確にするのが難しいところでね。透明性、という点ではうちも課題があるのはそのとおりだよ。良い記事を書いてほしいね」
坂本はそう言って、話を丸く締めた。陽菜はさらに二、三の質問をした。坂本は誠実に、しかし何も語らない言葉を丁寧に並べながら答えた。
学年主任室を出たとき、陽菜は口の中が少し乾いていることに気づいた。
その日の夕方、澪から凛に連絡が入ったのは、凛が図書館棟の隅の席でノートを広げていたときだった。
画面に浮かんだメッセージを読んで、凛は手を止めた。
『坂本先生が学年主任室で誰かと話してた。夕方五時ごろ。声がちょっと低かったから廊下で気になって。相手の顔は見えなかった』
凛はノートを閉じた。椅子を引いて立ち上がりながら、頭の中で情報を並べ始める。今日の放課後。坂本の部屋。誰かとの会話。
問題は、今日の放課後に何があったか、だった。
陽菜に電話をかけたのは、図書館棟の非常口の横に出てからだった。外はまだ白く、遠くの山の端だけが橙に染まっていた。
コールが三回鳴って、陽菜が出た。
「凛ちゃん?どした」
「今日、坂本先生のところに行きましたか」
短い沈黙があった。
「……行った」
「事前に連絡をしてくださいと言いました。先週も、一昨週も」
「ごめん。でも、なんか、今日ちょうどいい感じがして。とりあえずやってみればわかると思って」
凛は一度、口を閉じた。外の空気が肺に入るのを感じてから、もう一度開いた。
「今回は早すぎた」
「え」
「早すぎたんです。坂本先生は、もう私たちが調べていることを気にしています。澪さんが確認しました。先生は今日の夕方、誰かと話をしていた。タイミングが合いすぎている」
「それは……」
「陽菜さんが動いたことで、向こうが動いた可能性がある。わかりますか」
声が低くなっていることに、凛は自分でも気づいていた。責めているのではなかった。叱っていた。初めて、陽菜を叱っていた。
「……わかった」
陽菜の声は、いつもと違って平らだった。
「ごめん。もう切るね」
電話が終わった。凛は画面を見つめてから、ゆっくり鞄に入れた。正しいことを言った、と思った。でも何か、喉の奥に小さな引っかかりが残った。
陽菜は、帰り道を一人で歩いていた。
いつもなら友達に声をかけるか、イヤホンで何かを聴くかして、静けさを埋める。でも今日は何もしなかった。住宅街に続く坂道を、音楽も話し相手もなく下りていった。
怒ってないな、と自分でも思った。
凛に怒っていなかった。それが不思議だった。正論を言われた、その通りだった、だから反論もできなかった。でも怒りは来なかった。代わりに来たのは、もっと粘度の高い何かだった。
坂道の中ほどで、陽菜は立ち止まった。
もし、と思った。
もし、坂本が誰かに連絡したとして。その「誰か」が、奏のことを知っていたとして。奏が、また何かを——
「あ」
声が出た。自分でも気づかないうちに出ていた。
目の奥がじわりと熱くなった。陽菜はしばらくその場に立ったまま、瞬きを繰り返した。だめだ、と思った。泣いてどうする。でもだめだった。
涙は静かに出た。泣き声も出なかった。ただ頬を伝わって、あごの先から落ちた。
凛への怒りじゃない、と陽菜は思った。それははっきりわかった。凛は正しいことを言った。問題は、自分だった。
自分が、誰かを危険にさらしたかもしれない。
その恐怖が、体の真ん中から立ち上ってきていた。
思い出したくないことが出てきた。中学のとき、二年生の夏。あのとき陽菜はただ「みんなのために動いた」つもりだった。バレー部の揉め事に首を突っ込んで、自分なりに正しいと思うことを声に出した。でも結果は引っかき回しただけだった。傷ついた子がいた。助けようとした子が、かえって孤立した。
「引っかき回した」という言葉を、そのとき誰かに言われた。誰に言われたかは、もう覚えていない。でも言葉だけが残っていた。
陽菜はずっと、それを「過去のこと」として棚の上に置いてきた。今は違う、今は考えてから動いてる、と思ってきた。でも今日の坂本の目を見たとき、学年主任室を出たとき、凛の声を電話越しに聞いたとき、棚の上のものが音を立てて落ちてきた。
同じだ、と思った。同じことをまたやっている。
坂道の端に寄って、コンクリートのブロックに手をついた。泣くつもりはなかったのに、涙が続いた。住宅街は静かで、犬が遠くで吠えていた。
陽菜は泣きながら、怒りがないことを確かめていた。
翌朝、陽菜は早めに学校へ来た。
昨夜はほとんど眠れなかった。でも眠れないまま天井を見ていた時間が、何かを整理してくれた。夜中の二時過ぎに、陽菜はようやくはっきりした言葉で自分に言い聞かせることができた。
怖かったんだ、と。
凛に叱られたことへの怒りじゃなかった。誰かを危険にさらすかもしれない、という恐怖だった。あのとき中学で引っかき回したときも、きっと同じものが根底にあった。行動の衝動の下に、ずっとそれがあった。「助けたい」という気持ちと、「失敗が怖い」という気持ちが、いつも一緒に走っていた。
そのことに気づいたとき、陽菜の中で何かが変わった。
変わった、というより、落ち着いた。ざわざわしていたものが、少しだけ地に足をつけた感覚だった。
教室の前の廊下で、凛と鉢合わせた。凛は一瞬止まって、「おはよう」と言った。昨日の電話の緊張は声にはなかった。
「おはよう」と陽菜も言った。
少しだけ間があった。
「昨日の件、私も後で整理する」と凛が言った。「情報の共有を、改めて三人でしたい」
「うん」と陽菜は答えた。「私も言いたいことがある」
凛が軽くうなずいた。それだけだった。でも陽菜には、それで十分だった。
教室に入る前に、窓の外を一瞬見た。空は晴れていて、五月の光が廊下の床に斜めに差し込んでいた。
恐怖を知ってから動く、ということを、陽菜は初めて考えていた。
衝動で動くのではなく、怖いとわかった上で、それでも動くということ。昨日の坂本の目のことも、帰り道で泣いたことも、棚から落ちてきた過去のことも、全部抱えたまま、それでも前に進むということ。
まだ形にならない何かが、陽菜の中でゆっくりと形を持ち始めようとしていた。




