第十一章
放課後の図書室は、五月の光をやけに正直に映していた。
窓際の席に差し込む夕暮れ前の斜光が、棚の背表紙を細長く照らし、そこだけ切り取られたように金色に見える。凛はその光の筋を横目に見ながら、対面の椅子に座る澪の様子をそっと観察していた。
十文字澪は、今日に限っていつもと違った。
いつもならカメラを手放さないか、さもなければノートを膝の上に広げているかのどちらかだ。しかし今の澪はどちらも鞄の中にしまったまま、両手を机の上に乗せて、自分の指先を見つめていた。まるで、言葉を選んでいる、というよりは、どこから取り出すべきか迷っている、そういう沈黙だった。
凛はヘアピンに指が触れそうになるのをこらえて、ただ待った。
「ねえ、朝日さん」
澪が口を開いたのは、図書委員が隣の棚で本の整理を始め、小さなカタカタという音が室内に広がり始めた頃だった。
「聞いてもいい?って言うか、聞いてほしいって言うか」
「どっちでも」
短く答えると、澪は少し目を細めた。それから、また視線を指先に落とした。
「中学のとき」
声が少しだけ低くなる。
「撮ったのに、使えなかった写真がある」
凛は何も言わなかった。
「ちゃんと撮れてたんだよ、技術的には。ブレてもなかったし、構図もちゃんとしてた。でも」
澪は言葉を途切れさせた。途切れたまま、少し間を置いた。
「でも、出せなかった。出したら傷つく人がいるって分かってたから。それで、結局引き出しにしまって、……誰にも見せなかった」
凛は澪の顔を見た。澪は机を見たままだった。
「それだけだったら、まあ、よくある話だと思うんだけど」
澪が続ける声は、感情を薄く引き伸ばしたような平板さを持っていた。感情がないのではなく、感情を一枚の紙に押し伸ばして、その薄さの向こうから話しているような印象だった。
「引き出しにしまったまま、その人のこと、どんどん悪くなっていったんだよね。私が見てた何かが、そこにあったはずで。でも私は、撮ることはできたのに、誰も救えなかった」
最後の言葉は特に小さかった。
「記録したのに、って、ずっと思ってた。記録して、持ってて、それで何にもならなかったって。それって結局、見て見ぬふりと、どこが違うの、って」
澪は顔を上げなかった。
凛は、澪が語らなかった部分の多さに気づいていた。「その人」が誰なのか。写真に何が写っていたのか。「どんどん悪くなった」というのが何を指すのか。澪はそのどれも言わなかった。断片だけを、砂を手でそっとつかんで少しだけ見せるように、話した。
それでいい、と凛は思った。
全部を話してほしいわけではなかった。全部を今日ここで引き出そうとも思っていなかった。ただ澪が、その砂のひとつかみを、手の中に持ち続けるのに疲れたのだということは分かった。
凛はしばらく沈黙した。
窓の外で、部活帰りの生徒たちの声が遠く流れた。自転車のベルが一度鳴った。
「あなたは」
凛は、ゆっくり言葉を置いた。
「記録をするために動こうとしている」
澪の指先がわずかに動いた。
「私は、理解するために動こうとしている」
凛は続けた。自分の声が思ったより落ち着いているのを、どこか遠くから聞いているような気がした。
「どちらも、見て見ぬふりよりはいい」
澪は少しの間、動かなかった。
それから、顔を上げた。
凛を見る目は、いつもの観察するような目ではなくて、もっと直接的な、真っ直ぐな目だった。
「……それは、慰めのつもり?」
凛は一拍置いた。
左耳のヘアピンに触れかけて、やめた。
「確認してから答えます」
澪の顔が、変わった。
口角が上がったというより、何かがほどけた、という感じだった。声のない笑いが澪の表情に広がって、それから小さく息を吐くような笑い声になった。
「……何それ」
「そのままです」
「変な人だ、朝日さんって」
「よく言われます」
凛も、自分の唇が少し動いていることに気づいた。笑いと呼ぶには地味すぎる表情の変化だったが、それでも確かに何かが動いていた。
図書室の光がまた少し傾いた。棚の金色の筋が細くなって、やがて消えた。
凛は、この沈黙の質が、さっきとは違うことに気づいていた。さっきの沈黙は、どこかに刺さったまま抜けていない何かが漂っているような重さがあった。今の沈黙はもっと均質で、二人の間に等しく分配されているような静けさだった。
記録する者と、分析する者。
澪が撮ることで残そうとするものと、凛が考えることで掴もうとするもの。その方向は違っていたが、向いている先には、おそらく同じものがあった。
見えているものから目を逸らさない、ということ。
引き出しにしまったまま終わらせない、ということ。
「一個だけ聞いていい」
凛は言った。
澪が軽く頷く。
「今回は、使うつもりがある?」
澪は少しの間、凛を見た。
それから、また視線を一度机に落として、また凛に戻してきた。
「……使えるものにする。今度は」
断言ではなかった。でも、諦めでも逃げでもなかった。それは、中学のときとは違う場所に立とうとしている、そういう言葉の重さを持っていた。
凛は頷いた。それ以上何も言わなかった。言う必要がなかった。
澪が鞄からノートを取り出した。カメラではなく、ノートを。凛は万年筆のキャップを外した。
二人は同時に、それぞれの紙に目を落とした。
窓の外では、まだ五月の空が明るかった。連休が終わって以来ずっと、何かが動いている気配だけがあって、その気配の輪郭がようやく少しずつ見え始めていた。坂本の名前、改ざんの痕跡、村上朔の自主退学、そして奏の、あの廊下での目。
それらの点がどこかでつながっているはずだと凛は思っていた。澪もきっと、同じことを思っている。
言葉にしなかったが、その確信は静かに、二人の間の空気の中に溶けていた。
凛はノートの新しいページを開いた。今日までに集まった断片を、もう一度整理し直す必要があった。澪が持っている写真と、凛が組み上げている構造図が、次に合わさったとき、何かが見えてくるはずだった。
ヘアピンを外して付け直す。
その癖に自分で気づいて、凛は少しだけ苦笑した。
考えることがある。動く理由がある。
それだけで今は、十分だった。




