第十章
図書館の空気はどこか落ち着かなかった。
窓の外ではグラウンドから野球部の掛け声が聞こえ、廊下では部活動の準備をする生徒たちが忙しなく行き来している。でも館内に一歩踏み込めば、その喧騒は分厚いガラス越しの出来事みたいに遠くなった。凛は返却するつもりで持ってきた地理の資料集を棚に戻してから、念のため別の資料も確認しようと奥の参考書コーナーへ向かった。
そこに、奏がいた。
背表紙を目で追いながら棚の前に立っている。制服のシャツの袖が片方だけ折り返されていて、そのわずかな崩れが、かえって今の奏の集中ぶりを物語っていた。
凛は一瞬、足が止まった。
廊下ですれ違うときとは違う。あのときはお互いに「気づかなかったことにする」という暗黙の合意があった。どちらかが一歩早く顔を背けるか、または二人の間の空気が別の誰かの声で埋められるか。そうして三年間をやり過ごしてきた。
でも今この瞬間、二人きりで、棚と棚の間の狭い通路に立っている。逃げ道は、もうなかった。
奏が視線を上げた。
凛と目が合った。
一秒か、二秒か。どちらも動かなかった。
「……久しぶり」
先に口を開いたのは凛だった。自分でも意外だった。考えて出た言葉じゃなかった。ただそれだけが、唯一正直なものとして口から出てきた。
奏は小さく息を吸った。
「……うん」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。「久しぶり」と「うん」。三年間の沈黙に、たったそれだけが乗せられた。軽すぎるかもしれない。でも凛には、その二文字が思いのほか重かった。拒絶じゃなかった。それだけは、確かだった。
奏はすぐに視線を棚へ戻した。凛も何か別の資料を探すふりをして、一冊引き抜いた。タイトルは頭に入らなかった。活字が滑って、何も意味をなさなかった。
少しして、奏が棚から本を一冊取り出し、踵を返した。凛は横目でその背中を追った。図書館の出口へ向かう足取りは、迷いのない、まっすぐなものだった。
凛は手に持った本を棚へ戻した。
返却の手続きを終えて図書館を出ると、廊下の端に奏が立っていた。スマートフォンを確認しているのか、俯いて画面を見ている。貸し出しの処理を待っていたらしかった。
凛は通り過ぎようとして、止まった。
足が、勝手に止まった。
「……何か、困ってることがあるなら」
声に出してから、凛は自分が何を言おうとしているのか、言えるのかを考えた。続きが出てこなかった。言葉の輪郭が、自分の中でまだ定まっていなかった。
奏が顔を上げた。
凛は口を閉じた。
「……また」
それだけ言って、歩き出した。
奏の表情を確認する勇気がなかった。困惑しているかもしれない。あるいは、何も感じていないかもしれない。どちらも怖かった。
廊下を曲がって、階段の手前まで来たところで声をかけられた。
「朝日さん」
振り返ると、陽菜が壁にもたれて立っていた。腕を組んで、凛をまっすぐ見ている。
「いたの」
「通りかかったら見えた」陽菜は壁から背中を離し、凛のそばへ歩み寄ってきた。「なんで言い切らなかったの?」
「何が」
「さっきの。奏さんに何か言いかけて、止まったじゃん」
凛はヘアピンに触れた。指先でその細い金属の感触を確かめて、また外した。
「余計なことかもしれなかったから」
「余計なこと」陽菜は繰り返した。反論するというより、確かめるように。「でも言わなかったら伝わらないじゃん」
「伝えるべき言葉かどうかも、まだわからなかった」
「それは言い訳じゃない?」
凛はヘアピンを付け直した。陽菜の目は、責めているわけじゃないことが分かった。ただ、本当のことを聞きたがっていた。この子はいつもそうだ、と凛は思った。遠回りしない。真正面から来る。それが時々、凛には眩しくて、少し疲れる。
「中学のとき」
凛は階段の手すりに手をついた。廊下の奥から、部活に向かう生徒たちの声が聞こえてくる。
「あいつのチームで、失敗した」
陽菜は何も言わなかった。
凛は続けた。
「リレーで。私のせいで、失格になった」
詳細は話さなかった。バトンを落とした瞬間のことも、チームのみんなの顔も、奏が何も言わなかったことも、だからこそ余計に苦しかったことも。言葉にするには、まだ形が定まっていなかった。あるいは、言葉にしたくなかった。三年間、自分の中だけに閉じ込めてきたものを、誰かに預けることへの躊躇が、今も凛の奥底に居座っていた。
陽菜は細かく聞かなかった。
「そっか」
それだけだった。
「でも」陽菜は少し間を置いてから言った。「朝日さんが気にしてるのは伝わってると思うよ、奏さんに」
「……どうして」
「さっきの顔、見てなかったの? 奏さんの」
凛は何も答えなかった。
「怒ってなかったじゃん。怖がってるわけでも、無視したいわけでもなさそうだった」陽菜はまた腕を組んだ。「言葉が少なかっただけで、受け取ってたと思う」
凛はしばらく、手すりの冷たさを掌で感じていた。
聞きすぎない。そのことが、陽菜の言葉を不思議と軽くしなかった。もし陽菜が「どんなミスだったの」「なんでそれで絶縁になったの」と続けて聞いてきたら、凛は多分、壁を作り直していた。でも陽菜は止まった。「そっか」と言って、そこで受け取って、余計に踏み込まなかった。
その輪郭のなさが、かえって凛の内側に滲みた。
凛の中で、何かが少し、解けた。
岩が砕けるような感触じゃなかった。もっと静かな、雪が地面に触れた瞬間みたいな溶け方だった。自分でも気づかないうちに、何かが少し、柔らかくなっていた。
「陽菜は」凛は言った。「聞かないんだね」
「聞いてほしそうじゃなかったから」陽菜は右の口角だけ上げて笑った。「でも聞いてほしくなったら言って。そのときは全部聞く」
凛はヘアピンをもう一度触れてから、手を離した。
「……そう」
それだけ言って、二人は階段を降り始めた。
窓から夕方の光が斜めに差し込んで、踊り場の床に細長い影を作っていた。凛は自分の影を踏みながら歩いた。奏の「うん」という一言が、まだ耳の奥にあった。「また」と言って立ち去った自分の声も、まだそこにあった。
言い切れなかった。でも今日、初めて声が届いた。
それが何を意味するのかは、まだわからなかった。でも確かに何かが動いた、という感覚だけは、凛の足の裏にじんわりと残っていた。




