第一章
図書館の窓から差し込む西日が、机の木目を斜めに照らしていた。
五月の連休が明けて最初の月曜日。廊下を行き交う生徒たちの声も、部活に向かう靴音も、朝日凛のいる棚の奥には届かない。一番奥の、窓際でも入り口付近でもない、どこでもない場所。凛が放課後にいつも陣取る、その席。
凛は万年筆を走らせながら、午後の授業で板書したノートを別のページに書き直していた。箇条書きをそのまま残すのではなく、矢印で概念を繋ぎ、余白に補足を挟み、ページ全体を一枚の図として組み立て直す。この作業をしているとき、頭の中が不思議なほど静かになった。情報が正しい場所に収まっていく感触。乱雑だったものが、輪郭を持ち始める感触。
使っている万年筆は、黒軸に金のペン先がついた、少し古い型のものだった。父親から渡されたのは、凛が十歳のとき、母が入院した年の冬だ。「使えるようになったら使えばいい」と父は言った。説明も、感傷的な言葉も、何もなかった。そういう人だった。凛はその年のうちに使い方を覚え、それ以来ずっと手放していない。思考を整えるための道具として、というより、整えることを諦めないための道具として、今もノートの端に走らせ続けている。
ページを見渡して、一か所、矢印の向きが逆だと気がついた。凛は迷わず引き直した。間違いはすぐ直す。それが凛の習慣だった。
放課後の図書館には数人の生徒が散らばっているだけで、司書の橘さんが返却棚の整理をしている音が、かすかに聞こえた。連休明けで倦怠感の漂うはずの空間が、なぜか今日は静かさの質が少し違う気がした。気のせいかもしれない。凛はそう判断して、視線をノートに戻した。
時計が十七時を回ったところで、凛はキャップを閉めた。ノートをそっと閉じ、鞄に収める。机の上を確認する。椅子を直す。それから立ち上がって、図書館を出た。
職員室のある棟へ向かう廊下は、放課後のこの時間、人通りが途切れることがある。提出物があったわけではない。ただ、帰り道の最短ルートがそこを通っていた。凛はいつもの歩幅で、いつもの速度で歩いていた。
廊下の先に、見慣れた背中があった。
一瞬で、分かった。
三年間、同じ中学に通っていたのだから、当然だ。高校が同じになると知ったのは入学式の前日で、そのとき凛は少し息を詰めたが、実際に入学してみれば奏は別のクラスで、廊下でたまに見かける程度だった。顔を合わせても目礼ひとつ交わすことなく、そうやって二年目に入っていた。
桐島奏は、職員室の前の掲示板に視線を向けていた。背筋が伸びていて、髪は短く、中学のころとあまり変わっていないように見えた。それとも、変わっているのかもしれない。三年間、ちゃんと見ていなかったのだから、凛には判断できなかった。
奏が振り返った。
目が合った。
ほんの一秒か、二秒か。
奏はすぐに目を伏せた。それから足早に、来た方向とは逆へ歩き始めた。凛の横をすり抜けるのを避けるように、廊下の反対側を回って、足音も立てずに遠ざかっていった。
凛は、立ち止まっていた。
呼び止める言葉が、のどの手前まで来ていた。名前は出てこなかった。「ねえ」とか「ちょっと待って」とか、そういう言葉でさえ、出てこなかった。出してはいけない気がした。いや、違う。出す権利が自分にあるのか、分からなかった。
三年前に、自分が手放したものだった。
正確には、手放したのか、失ったのか、それも凛にはまだ整理がついていなかった。ノートの矢印と違って、あの出来事の向きは、どちらに引き直しても正解にならない気がして、凛はずっとそのページを開かずにいた。
奏の背中が、角を曲がって見えなくなった。
凛は数秒、廊下に立っていた。それから掲示板に目をやった。月のスケジュール表と、部活の大会結果と、校内アンケートの集計グラフ。何かがあるわけではなかった。奏が何を見ていたのかも、分からなかった。
凛は、歩き出した。
帰宅すると、玄関に弟の靴がそろえて置いてあった。かかとが少しつぶれているのに気づいて、凛は小さく眉をひそめた。何度言っても直さないのは、中学生になっても変わらない。
「おかえり」
リビングから声がした。蒼が勉強机から振り返らずに言った。テレビはついていなくて、参考書が広げてあった。
「ただいま」
凛は鞄を下ろして、制服のまま椅子に座った。台所に母親がいる気配がして、夕飯の匂いがかすかにした。今日は玉ねぎを炒めている、と凛は判断した。
「お姉ちゃん」
蒼が振り返った。中学一年生にしては落ち着いた目をしている、と凛はいつも思う。母親に似た目だ。
「元気なさそう」
断言する言い方だった。凛は少し目を細めた。
「そんなことない」
「そう?」
蒼は疑っているふうでもなく、かといって引き下がるふうでもなく、ただそう訊いた。
「そう」
凛はそう繰り返して、鞄から万年筆を取り出した。特に書くことがあったわけではなかった。それでも手の中に収めると、少し落ち着く気がした。キャップを外す。キャップを閉める。外す。閉める。
ペン先を使うわけでもなく、ただその動作を繰り返しながら、凛は今日の廊下のことを頭の中で反芻した。奏の横顔。伏せられた目。足早に遠ざかる背中。掲示板の張り紙の、何でもない色合い。
奏が見ていたもの、奏が見なかったもの。
考えても答えが出ないことは分かっていた。なのに、頭がそこから離れない。まるで矢印の向きを間違えたまま放置しているノートの、そのページだけが引っかかり続けるように。
「お姉ちゃんって」と蒼が言いかけて、参考書に視線を戻した。「なんでもない」
「なに」
「いや、なんでもない」
凛はしばらく弟の横顔を見ていたが、訊き返さなかった。万年筆のキャップを外す。閉める。手の動きは止まらなかった。確認するように、確かめるように、何かをそこに留めようとするように、繰り返した。
台所から、玉ねぎが焦げる前の甘い匂いが漂ってきた。窓の外では、夕暮れがゆっくりと色を落としている。今日という日が、ていねいに終わろうとしていた。
なのに凛の頭の中には、一枚の廊下の絵が残っていた。奏の目が伏せられる、その一瞬の絵が。図式化することも、矢印を引くこともできない、ただの残像が。
何かを確認しなければならない気がした。
何を、とはまだ言えなかった。けれど、その感触だけは、万年筆を握る手のひらに、確かにあった。




