言語生成AIの利用で人間はバカになるという主張は、果たして正解なのか?
結論からいえば、言語生成AIの登場以前と以後とでは、人間に求められる「賢さの質」が、大きく変わったと筆者は考える。
かつては、イチから構築しなければならなかった様々な思考も、いきなり大胆なショートカットが可能なフェーズへと突入した。「思考のための具材の調達」。これをAIが肩代わりしてくれるようになったためである。―― 物事を考えるための前提条件。これらの「収集に割く時間」は、非常に徒労でもあった。
インターネットの登場も、当時は画期的であった。
それまでは「参考文献」などを読み漁り、必要な情報をピックアップするのに、膨大な時間を必要とした。しかし、インターネットの登場により、家にいたまま、ピンポイントで検索がかけられるようになる。それはもう天変地異な事件であった。
だが、そのうち、この検索作業すらもが人類は億劫となる。今度は検索作業すら外注することを熱望し始めた。そこで言語生成AIが登場する。
言語生成AIは、知りたい情報を網羅的に検索し、フィルタリングをかけながら、瞬時に提示する。我々は、いよいよ下働きから解放され、「全てが切りそろえられた材料」を調理するだけの上級コックへとクラスチェンジを遂げた。
ここにひとつ問題点があるとすれば、並べられた具材のひとつひとつの性質への「理解度」である。
本を読み、情報を収集する。
本を読んだ人間がまとめた情報のようなものをネットで収集する。
ネットから収集した情報をAIが吟味し、下ごしらえし、並べる。
「下働き」からの経験のない者は、これらの過程で「失われるもの」の正体を知らない。
AIの利用方法も、さまざまだ。
筆者は主に、具材の準備までをオーダーするわけだが、中には、思考そのものまで委ねる人々がいる。ひょっとするとこういった人たちが、すでに多数派なのかもしれない。しかし、いきなりそこに投げるのは、非常に危険な行為でもある
「基礎知識」という前提条件のない状態で、触れる「完成品のようなもの」が、実際には何も完成していないということに気づかない。それは、あくまでも一視点から組み立てただけの「答えのようなもの」に過ぎないということにも、もちろん気づけない。
言語生成AIは、ほんとうに「使い方次第」のツールである。
元々、思考力の基礎が、ある程度、備わっている人間の思考は加速する、しかし、そうでない者たちの思考は麻痺する。
今の自分では思いつかない、答えのようなものを即物的に求め、思考そのものの外注を始める。外注された思考は、自らの血肉とはならない。しかし、血や肉がなくても、その場限りにおいては、人間っぽく振舞えてしまうのだから厄介だ。
AIは、どんどんと人間に近づき、
自ら思考しない者たちは、どんどんとAIに近づき始める。
いや、すでにその人間性の境界は入れ替わりつつあるのかもしれない。AI未満の人間性の人間が、すでにインターネット上には多数存在して見える。―― ひょっとするとそれらの言説も、すでにAIが書いているのかもしれないが。
AIは、使用方法によって、利用者の知性を二極化させていく。
賢き人間は、よりソリッドに。
そうでない人間は、よりロボットにしていくツールともいえる。
AIネイティブ世代にとっては、切り分けれた野菜が、野菜そのものと捉える時代にまで、すでに来ているとも言える。
種を撒き、収穫し、選別され、流通し、切り分けられる。
この過程そのものが、心の中で不在となったこどもたちが、次の世代の人類の主軸となる。




