第3話 追憶のカフェオレ
季節が少し進んだ頃、陽菜乃はすっかりポプリの常連になっていた。
この日も、朝からのんびりとモーニングを楽しんでいる。
「あら、陽菜乃ちゃん。今日も来てたのね。おはよう。」
「あ! ヘレナさん! おはようございます。」
彼女はヘレナ。
陽菜乃が初めてポプリに来た際、隣の席に座っていた獣人だ。
もう何十年もここに通っている古株の常連で、ミーナも「ヘレナおばあちゃん」と呼んで懐いている。
「今日はいつもより遅いですけど、モーニングですか?」
「いいえ、今日はもう家で食べてきちゃってね。ちょっと別のものにしようかと思って」
そう言ってメニューを広げた横顔は、どこか寂しげだった。
「陽菜乃ちゃんに、主人の話はしたかしら?」
「はい、確か、ご主人もここの常連だったとか」
うんうんと頷きながら、懐かしそうに微笑む。
「あの人はね、物静かなひとで。でも笑顔がとても優しくて。いつも一人で本を読んでいたの。ちょうど今、あなたが座っている席でね」
「仲良くなってからは、いつも私のお喋りに付き合ってくれたのよ。何も言わず、ただ静かに聞いてくれて、最後ににっこりと微笑んでくれるの」
その微笑みに重なるように、ヘレナ自身の笑顔が揺れる。楽しそうにご主人との様々な話を聞かせてくれた。けれど、どこか儚げに感じられた。
「彼ったら、苦いのは嫌いだって、いつも甘い物ばかり飲んでね。ここのカフェオレが大好きで、とびきり甘くしてもらって…」
そこまで話すと、ヘレナの目からぽろぽろと涙が零れた。
「あの人の最期に、私は立ち会えなくてね…。『大丈夫だから』って言葉を信じてしまったの。駆けつけたときには、もう…。最期の笑顔を見られなかったことが、ずっと心残りで…」
陽菜乃はもらい泣きしながら、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じていた。
ヘレナはパタンとメニューを閉じる。
「決めたわ。マリーさん、追憶のカフェオレをいただけるかしら」
マリーは「かしこまりました」と優しい声で応え、厨房へ消える。
――ほどなくして運ばれたカップを、ヘレナはしばらく見つめ、それからそっと口をつけた。
淡い香りと共に、カップの表面に小さな光が走り、水面に映像が揺らめく。
そこに浮かんだのは――かつての夫の姿。
「あなた……」
水面に映る彼は、優しい笑顔で手を振っていた。まるで「笑顔でいて」と伝えるように。
ヘレナの頬に新しい涙が伝う。けれど、今度は嬉しそうに微笑んでいた。
「また、あなたの笑顔が見られましたね。私と出会ってくれて……ありがとう」
束の間の再会は、やがて霧のように消えた。
店内に沈黙が満ちる中、ヘレナは涙をぬぐい、穏やかに笑った。
「今日はとても良い日になったわ。これからしばらく来られなくなりそうだから、あの人にも会えて、本当に良かった」
そう言って立ち上がり、皆に微笑みを残して、ゆっくりと店を後にした。
――それからしばらくして。
「ヘレナさん、最近来ないですね。しばらく来られないって言ってましたけど、何かあったのかな?」
陽菜乃が言うと、マリーとミーナは寂しげに俯く。
他の常連客たちも、さっきまでの談笑をやめ、静まり返った。
「……ヘレナさん、数日前に亡くなられたの」
マリーの声は震えていた。頬を伝う涙を隠そうともしない。
「えっ……」
「体調が思わしくなかったのよ。あの日、陽菜乃ちゃんとお話ししたのが最後だったの」
ミーナも声をあげて泣き出す。
陽菜乃の脳裏に浮かぶのは、いつも優しく笑っていたヘレナの顔。気づけば、自分の頬にも温かい雫が伝っていた。
重たい沈黙を破ったのは、ミーナの言葉だった。
「でもね……ヘレナおばあちゃん、きっと天国で大好きなおじいちゃんに会えたよね!」
その一言が、店の空気をふんわりと温めていく。
「そうね。きっと今頃、二人で甘いカフェオレを分け合っているはず」
マリーの言葉に、皆が小さく微笑んだ。
陽菜乃は涙を拭いながらも、胸の奥にそっと手を当てた。
(私も――ヘレナさんのように、大切な人と笑い合える日が来るのかな)
切なさと温かさが入り混じった思いを抱きながら、彼女は深く息をついた。
その胸の奥には、確かに小さな灯がともっていた。




