第16話 芽吹きのクローバー
陽菜乃の住む日本では、慌ただしい年末年始が過ぎ去り、街にはいつもの日常が戻っていた。
少しずつ空気がやわらぎ、頬を撫でる風にも春の気配が混じりはじめる。
別れと出会いの季節が、もうすぐそこまで来ていた。
ベルノートの街でも、雪が解けて屋根の端からぽたり、ぽたりと雫が落ちはじめる。
人々の頬を撫でる風にも、ほのかにやさしい香りが混ざっていた。
「……あ、春の匂いだ」
ポプリの扉を押すと、カラン、と澄んだ音。
ふわりと鼻をくすぐるのは、いつものコーヒーの香りにまざった、甘い草の匂いだった。
「陽菜ちゃん、いらっしゃいませ!」
カウンターの奥で、ミーナが満面の笑みを浮かべて手を振る。
その髪には、小さな花びらがひとつ、ちょこんととまっていた。
「ミーナちゃん、その髪……もしかして、もう咲いたの?」
「うんっ! “芽吹きのクローバー”っていう花だよ。
芽吹きの巡りが来ると、いっせいに顔を出すんだ~!」
嬉しそうに話すミーナを見て、陽菜乃の胸にも小さな温かさが灯る。
あの雪の日から、ほんの少ししか経っていないのに――
街の色も、風の音も、すべてが少しずつ変わりはじめている。
窓際の席に座ると、花のイラストが印象的な新しいメニュー表が置かれていた。
「芽吹きのハーブティー」
「新緑のパウンドケーキ」
「花かごクッキー」
「柔らかキャベツのコトコトスープ」
どれも、うららかな季節を思わせる名前ばかり。
ふと見渡すと、店内のポプリも赤やピンク、黄色など、あたたかな色合いに変わっていた。
「お店の中も、すっかり芽吹きの巡りになってるねぇ」
「広場もね、雪がほとんど無くなって、クローバーや小さなお花がどんどん咲いてるよー」
「芽吹きのクローバーといえばね、ほとんどは淡い緑色なんだけど…」
マリーがそっと話を続ける。
中には、葉の外側が淡い緑で、中心にいくほど濃くなり、まるでハートの形を描くものがあるのだという。
「それを見つけると、幸せになれるって言われてるのよ」
「それは見てみたいですねぇ!」
珍しいものだと聞いて、俄然やる気を出したミーナと陽菜乃は、広場へと飛び出した。
けれど、探せど探せど見つからない。
「やっぱり、一筋縄じゃいかないねぇ」
その時――。
「ミーナちゃん、いいところで出会ったよ!」
クローバー探しに夢中になっている二人のもとへ、郵便配達員がやってきた。
「マリーさん宛の手紙が届いてたんだ。今渡してもいいかな?」
ミーナが受け取った封筒には、クセのある力強い筆跡が躍っている。
「パパからだ!」
「もうすぐ建国祭だし、ダニエルさんも戻ってくる頃だねぇ。じゃあ確かに渡したから、マリーさんによろしくね」
そう言って配達員は、次の家へと歩いていった。
「建国祭?」
広場の掲示板には『まもなく建国祭!』と書かれたポスターが貼られている。
街のあちこちで人々が飾りつけを始め、少しそわそわとした空気が漂っていた。
「そうそう! もうすぐこの国の建国祭なんだよ。花の妖精の行列や音楽隊が来たりして、すっごく賑やかになるの!
陽菜ちゃんは初めての建国祭だよね」
「うん、私が初めてベルノートに来たのは、もう少し後の頃だったかな」
――あれから、もうすぐ一年。
あの頃は、こんな風に季節の移ろいを一緒に感じられるなんて、思いもしなかった。
「この街でも、私なりに色んな“芽”を育てていけたらいいなぁ」
クローバーを見つめながら、そっと呟く陽菜乃。
「きっと大丈夫だよ!ここの花たちも、芽吹いたらちゃんと花を咲かせるもん!」
陽菜乃は笑って頷き、空を見上げる。
冬の名残を残しながらも、うっすらと春の光が滲んでいた。
あたたかな風が、ベルノートの街をふんわりと巡っていく。
まるで、新しい物語のページがそっと開かれるように――。




