第2話 失われた歌声
王子の手から伝わる記憶は、まるで空っぽの器だった。だが、かすかに響く雨の日の歌声だけが、彼の記憶の底に確かに存在していた。アリスは、その歌声の記憶を頼りに、王子の心を癒やす方法を探し始める。
「何か分かったかい、アリス?」
アルバスが心配そうに尋ねた。
「…とても不思議な状態です。まるで、記憶を抜かれたのではなく、上から別の記憶で塗りつぶされているような…」
「塗りつぶし…? それはつまり、犯人は記憶を消すだけでなく、偽りの記憶を植え付けようとしたということか」
アリスは頷き、続けた。
「それに、王子の記憶には、小さな音楽の箱が隠されていました。オルゴールのようなものです。でも、今は音が鳴っていません」
アルバスは驚きに目を見開いた。記憶の箱は、人の心の拠り所となる大切な記憶が収められる場所だ。そこが空っぽになっているということは、王子が今、心の支えを全く持っていない状態だということだった。
「失われた歌声…」
アリスはそう呟き、図書館の書架に向かった。彼女の完璧な記憶力は、こんな時にこそ真価を発揮する。何万、何億とある記憶の中から、彼女は瞬時に「雨の日の歌声」に似た記憶を検索し始めた。
膨大な記憶の断片を読み解くうちに、彼女は一つの記憶の断片を見つけ出す。それは、遠い昔、宮廷で開かれた晩餐会の記憶だった。 その記憶の持ち主は、一人の老いたメイドだった。晩餐会の喧騒の中、メイドは裏庭で、小さな男の子が一人で雨に濡れながら、寂しげに歌を口ずさんでいるのを目撃していた。
『…この歌は、亡くなったお妃様が、王子に聞かせていた子守唄だったな…』
メイドの心の声が、アリスの脳裏に響く。 それが、ライオス王子が失くした記憶の断片だった。彼の心の箱には、母の歌声が入っていたのだ。
アリスは、その記憶を手に、自室に戻った。そして、温かい紅茶を淹れ、テーブルに向かう。彼女は、老いたメイドの記憶から、当時の宮廷で出されていた「子守唄にまつわるお菓子」のレシピを完璧に読み解いていた。それは、雨の日に食べると心が安らぐという、蜂蜜とハーブを使った素朴なクッキーだった。
翌朝、アリスは、焼きあがったばかりのクッキーを、王子の病室に持って行った。 ベッドに横たわる王子は、まだ何も思い出せないでいた。ただ、アリスが差し出したクッキーを一口食べると、その翡翠の瞳がわずかに揺れた。
「…この味、どこかで…」
王子の呟きに、アリスの胸が小さく高鳴った。 彼の記憶の奥底に眠る、大切な記憶。 彼女は確信した。 このクッキーこそが、彼が失った記憶の鍵なのだと。
「殿下、もう一度召し上がってください。このクッキーは、あなたの故郷の味です」
王子は、アリスの言葉に導かれるように、もう一口クッキーを口にした。 すると、彼の目の前に、一瞬、温かな光が灯った。それは、優しい笑顔を浮かべた女性が、自分に歌を歌いかける光景だった。
王子の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。 彼はまだ何も思い出せない。だが、心が温かくなるのを感じた。
彼の記憶は、まだ繋がったばかりの細い糸。 アリスは、その糸をたぐり寄せ、彼の失われた過去を取り戻すことを心に誓った。